開いた窓から、秋の夜風が吹き込んでくる。少し湿っていて、でも何処か遠くに潜む冬の声を含
んで。虫の音が流れていた。遠吠えのような車の響きが谺していた。
 フェイトは手の中にある携帯電話を眺めていた。梅雨の頃に買い替えて貰った携帯電話にはまだ
傷もついていなくて、ストラップが一つだけ揺れている。星を象ったストラップ。チェーンについ
ているのは、淡いピンクの硝子。折りたたみ式のその携帯電話に親指を挟み、少しだけ開く。
 バックライトが輝いて、背面に点けられた小さな液晶が文字を浮かび上がらせた。電波のマーク
は三本立っていて、時刻は12時を回っていて、でもそれだけ。何の着信もない。
 フェイトはその光を塞ぐように、携帯電話を握り締めた。
 電気も点さない部屋で、フェイトは宵闇に沈んだ。星と街灯りだけでは暗くて、青い視界にはノ
イズが走る。学習机も、ベッドも、サイドテーブルに置いた2つの写真立ても霞む。ただ、窓際に
立っている自分の影だけが、足元に蒼で縁取られていた。パジャマになっている今、髪も結わえて
いない影は少し、少し
「なのは。」
 仄かに名前を口にした。
 壊れてしまわないように、割れてしまわないように密やかに。大切な名前を。
 ミッドチルダは今、夕暮れ時。
 西日が差し込めばあの真っ白の病室も、金色に染まるんだろう。緩やかに朱に染まって、焦げ付
くような赤に変わる。なのはの一日が終わる時。
 もう、今日はメールは来ない。病室の消灯の時間は早いから、いくら海鳴の病院とは違って外と
直接通信が出来ても、この時間を過ぎたらもうメールは来ない。
「なのは、今日どうだった?」
 携帯電話を握り締めて、フェイトは問い掛ける。目の前には居ない人には届かない、微かな、語
り掛ける声で。
 毎日メールを出来るとは元から思っていない。向こうとは時間の差が大きいし、なのはの怪我は
まだ治ってなくて、痛くて、辛くて、メールなんてしても居られない日があるだろうから。
 楽しい事あった? 大丈夫? 聞きたい事が本当はいっぱいある。けど、傷つけてしまいそうで
簡単には聞けない。いつも一緒に居てあげたい。でも、ずっと一緒に居られる方が辛い事もあるっ
て解るから、いつも一緒には居られない。辛い時にあまり一緒に居ると、苦しいのを出せなくて苦
しいから。
 だからいつもの距離感で、何も無かったときみたいな距離感で、想っている。
「なのは、私ね、今日は国語の授業中に、先生に指されたんだよ。
 そしたらね、今まで縁と緑っていう漢字は同じだと思ってたんだけど、
 違う字なんだよ、って直されちゃった。
 みんなの前、黒板の前でだよ? すごく恥ずかしかった。」
 なのはの力になってあげたいと思う。一緒に林間学校に行きたいし、一緒に進級したい。
 だから、自分で自分に決めごとをした。
 今まで通り、何にも無かったみたいな自分で居る事。すごく辛いのはなのはで、泣き出したいの
はなのはで、だから、自分だけはいつも通りの自分で居て、なのはが戻ってくるいつもを、守って
いてあげたいから。
 だから、どれだけ心配でも、どれだけ気になっても、いつもと同じ距離を歩く。
 それでいつも迷わないメールの送信を迷っていたら、世話はないんだけど、なんて自分で自分に
笑ってしまうけど。でも明日には、縁と緑の違いをなのはにも教えてあげようと思う。
「なのは。」
 名前を象る。目の前のその形を作るみたいに。想いをそのまま虚空に描き出すみたいに。大切な
名前を呼ぶ。遠くて、いくつもの世界の先で、いくつもの夜の先に居る人の名前を呼ぶ。空気は途
絶して、この喉の震えは届いて行く事は無いけれど。
 届いて行く事はないから、フェイトは囁いた。
「会いたいよ、なのは。」
 秋の夜が流れて行く。車の遠吠えと月の光と遠く佇む冬を望む少し冷たい風の吹く夜が。鈴虫が
鳴いている。フェイトは窓枠の中に佇む自分の影を眺めて、静かに長い息を吸い込んだ。
 手の中で、携帯電話が震えた。
 低い地響きみたいな振動音を鳴らし、フェイトの手の中で液晶を煌々と光らせる。言葉もなかっ
た、驚いている暇もなかった。誰か解る、誰からのメールか解る。開かなくても、差出人名を見な
くても。今、諦めた人の笑顔が目の前を駆ける。
 結合部分をぱきんと弾けさせ、フェイトは携帯電話を開いた。
 件名の無い短いメール、差出人名はそう。
 そして、メールの本文はたった一言。

 あいたい。

「なのは。」
 フェイトは携帯電話を握り締めた。クロゼットを開けてシャツとズボンを引っ張り出すと、さっ
と着替える。そして、閉めていた網戸を開け放った。
 きっとなのはは、明日の朝、起きてこのメールを見たフェイトに、きっと笑っているようにこう
返信をするんだろう。なんかつい、ごめんね、今度、都合の良いときで良いから、って、そう言う
んだろう。
 けど、フェイトはもうメールを見たから。
 そして、自分は夜を飛び越えて駆け抜ける事が出来るから。
 フェイトは窓から駆け出すと、ベランダの手摺を蹴って、空へと飛び上がった。

 頭上には満月、足元には満点の街灯り。


 私は夜なんて飛び越えられるから、
 なのは、
 夕日が落ちる前に、君に会いに行くよ。