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 指の先が凍えて固まっている。コートを突き刺して肩を這う冷気の中をもがき、フェイ
トはマンションの廊下を歩いた。見下ろす中庭は灯った橙色の明かりに霞み、常緑樹の真
っ黒い影を描き出す。白い息を吐き出して、フェイトはポケットから家の鍵を取り出した。
銀色の粒が零れ、耳障りな音が鳴る。都市の明かりが星空も掻き消して、黄土色した雲が
頭上に漂っていた。
「ただいま。」
 部屋の中には一月止まったままの空気が澱んでいる。薄らと足元に伸びる自分の影を見
下ろしたのは一瞬。細長い女性の姿は扉を閉じると消えた。夜風に舞っていた車の音も夜
の気配も扉の向こうに置いて、生暖かな暗闇に包み込まれる。
 パンプスを脱ごう、屈めた背が痛み、伸ばした左腕が軋んだ。歪めた左頬の傷が引き攣
れて、フェイトは唇を引き結ぶ。腫れた下唇が染みる。
 今日はお風呂も夕飯も要らない。鞄を投げ捨ててベッドに飛び込んで今すぐ眼を閉じて
しまえばいい。冷たいフローリングもかじかんだ指先も凍る耳も全部そうすれば棄ててし
まえる。重たい鞄を右手に引っ掛けて、フェイトはリビングの扉を押し開けた。
「めりーくりすまーす。」
 暗闇に星明かりが灯った。
 色とりどりの明かりが部屋中に散り、目映く瞳に差し込んで来る。磨かれたフローリン
グに反射して、足元までが光に沈む。星々を従え、ソファに座っていた人がにっこりと微
笑んだ。
「おかえり、フェイトちゃん。」
 瞳にいくつもの星を宿して。
「はやて。」
 擦れた喉が、いつの間にか動いていた。部屋着になりくつろいだ様子で足を組んでいる
はやては、首を微かに傾げると手を口に寄せた。
「いやぁ、ご帰還から6日も経つんに、ぜーんぜん連絡あれへんし、
 なんや家に帰って来てる風もないからおねえさん心配になって、
 思わず待ち伏せしちゃったわー。浮気現場目撃出来るか思て、えらいドキドキしたで。」
 ぺらぺらと述べられた説明を一通り眺め、フェイトは小さく頷いた。
「そっか、ごめんね。
 なんだか忙しくてすっかり忘れちゃってたみたい。」
 目を細めて、提げた鞄を握り直す。
 はやてはふっと口許を緩めると、手招きをして腕を開いた。
「な、フェイトちゃん。おいで。」
 広がる星空が瞬く。
 はやてを薄らと照らし出す淡い光を、フェイトは見つめた。
「私、今汗くさいし。
 今回、結構怪我しちゃったから薬っぽい臭いもするから、後でね。」
 瞬きを一つし、視線を切る。
「フェイトちゃん。」
 はやての声は切れなかった。
 薄闇を伝わり、フェイトの頬を叩く。
「おいで。」
 背けた顔を振り向かせ、視線を射止める眼差しで。はやては組んでいた足を解き、両腕
を広げる。フェイトは呆れて首を傾げた。
「もう、はやてってば。」
 鞄を持って歩くか一瞬だけ迷い、数歩先のローテーブルの隣に置いた。光が溶けるフロ
ーリングを踏み、腕を広げるはやての元へ向かう。色とりどりの星明かりがはやての髪に
絡んでいた。
「ほら、な?」
 左手で膝を叩くはやてに微かに歯を見せて笑って、フェイトは片膝をソファについた。
はやての膝に向かい合うように座って、褐色の髪に指を絡める。
「ただいま、はやて。」
 指先にやわらかい頬の感触が伝わる。はやては目を伏せて、白い手首に唇を這わせた。
くすぐったくて破顔すると左頬がまた痛くて、フェイトは笑い声を零す。
「もう、くすぐったいよ、はやて。」
 はやての漏らす忍び笑いがフェイトの腕を転がって来る。伺うような上目遣いで、はや
てがフェイトを見上げる。
「クリスマス頃には帰ってくる言うてたから、私待っとったんよ。
 それが、誰かさんがぜーんぜん帰って来うへんから、
 私どんだけ季節外れな女やねん。」
 はやては呟くと、フェイトの手首に歯を立てた。甘噛みされるこそばゆさに、フェイト
は首を竦める。
「ごめんね、本当。」
 はやてのもう片方の腕が腰に回った。その手が裾を引き、見上げて来る眼差しがフェイ
トを促す。火が灯っているみたいな眼だった。
「怒ってる?」
 眉を寄せて首を傾げながら、フェイトは催促されるままはやての膝の上に座った。向か
い合ってはやてを見つめると、唇に乗った小さな笑みが飛んで来る。
「べっつにぃー。」
 跳ねる声音でそう紡ぐと、はやては手を伸ばしてフェイトの頬を撫でた。その金髪にも、
時に乗り遅れたクリスマスの明かりが流れる。瞬きに合わせて幾つも色を変えて。
「怪我は頬だけ?」
 左頬に貼られたガーゼが青から赤へと色を瞬かせた。フェイトは微かに首を振ると、ご
めんねと小さく呻く。
「左腕とあと背中も。
 毎日、局の病院には行ってるんだけど、まだ治りきらなくて。」
 そう、とはやては頷いた。どうして怪我をしたかも言った方がいいかな、とそんな考え
がぼんやり浮かんだ。先にそういうことを言ってしまった方が良いような気がした。背中
に両腕が回された。はやてがフェイトを抱き寄せて、鼻先を胸元に埋める。シャツを越し
て息の熱さが伝わって、頭頂部を眺めながらフェイトは細い声を漏らした。
「はやて?」
 唇が押し当てられるのを感じた。胸の真ん中にやわらかな感触をみつける。思わず、フ
ェイトははやての肩口を掴んでいた。手の中で部屋着が皺になる。
「痛かった?」
 囁きのようだった。
 はやての腕が自分の体を抱き寄せるのを感じ、フェイトはただソファの裏を目に映した。
きっとクリスマス頃にはやてが用意した色鮮やかな光の粒が床にばらまかれている。
 星の川だ。
「もう、大丈夫だよ。」
 声が川の流れに呑まれてしまいそうに感じた。揺らめいてしまいそうだった。早い水流
の面には幾つもの像が結ばれては、さざ波に歪んではっきりしないまま溶け消えて行く。
追いかけたいとは思わなかった。消してしまいたくて、フェイトははやての髪を指で梳く
とその額を伺った。
「日付も変わっちゃったし、そろそろ寝よう。
 お風呂は私、明日の朝に入るから。」
 沈黙がはやての答えだった。指先がフェイトの服を強く掴むのが判った。はやての体温
だけを受け取ってフェイトはじっと息を詰めていた。腕が解けるのを黙って待っている。
「痛いんやろ。」
 聞き漏らしてしまいそうな程に、擦れた音だった。二人の胸の間に落ちたその声は、波
紋を作り出す。川面に沈む礫と同じに。
 はやてが緩やかに顔を上げた。双眸は黒く、滑らかな表面には一人の影が刻み込まれて
いる。
「そんなことないよ。
 傷薬とかもちゃんと塗ってるし。」
 目を閉じて微笑めば、色を失った影は消えた。膝に力を込め、フェイトは腰を浮かせよ
うとする。けれど、はやての腕は解けなかった。一層の力を込めて、強くフェイトを抱き
しめる。
「いつだって、いいんよ。」
 細い指先が夜気を孕んだままのコートを握り締めた。
 笑みを、目を細めて笑みを浮かべていれば、見ないで済むものがある。でもそれは、も
う限界と思えた。真摯な響きにどうしてはぐらかすように笑みを浮かべていられるだろう
と。場面にそぐわない。だから、フェイトは笑みを解いて目蓋を開いた。
 はやてがフェイトを見つめていた。
「しんどいなら私の所に来たらええやん。
 いつだってかまへんよ、それが、その日でも。」
 電飾が色を変えた。明滅を繰り返し、幾重にもはやてとフェイトの影がそこここに折り
重なって投げ出される。壁にも床にも、天井にさえ。
 痛い。
 熱い言葉が滲んだ。胸の一番奥の、体の中心の方から、熱が広がるようにその言葉が浮
かぶ。この日だけは、いけないと思っていた。この日だけは特別な日だから、普通にして
いなければならなかった。この日だけは。
「はやて。」
 何かが喉に絡んだ。
 目の前が滲んで、唇を噛むとはやての手が背中を撫でた。優しい腕が抱き寄せてくれて、
押し付けた胸から鼓動が聞こえた。自分の汗の匂いと、はやての纏う仄かな香りが交差し
た。
「うん。」
 小さく頷いて、はやてがフェイトの肩に顔を埋めた。