水温調節器の動作不良がたびたび床を保存液に浸す。
 十年前に設置した水温調節器は十分程の簡単なメンテナンス以外で停止させることなど無くずっ
と使用し続けてきた。水温の維持を片時も怠ることが出来ないための程度の低い管理状況において
十分機能を果たしてきただろう。しかしそれでも、限界は近い。冷却効率はこの数ヶ月で劣化を続
け、水槽と水温調節器とを循環する保存液の殺菌も近頃は頻繁に手入れをしなければ充分な水準を
保つことが出来ない。騒音も増え、パイプラインの腐食によって保存液が床に漏れ出すことも少な
くない。総容量1500リットルの保存液が全て失われることはないが、少量でも決して安価なも
のではない。この維持に掛かる労力も時間も金銭的な負担も、もはや看過しきれるものではなかっ
た。
 だがそれも、もう終わる。
 プレシアは薄青い液体が溜められた水槽に手を触れた。一年前に新しく用意した何の不具合もな
く順調に稼働し続けている培養装置。中に溜められた溶液の温度は体温と同じ36度に保たれてお
り、プレシアの手は分厚いガラス越しにも温かさを感じる。ガラスに頬を寄せ、プレシアは水槽の
中に浮かぶ少女を見上げた。金色の髪を広げた三歳程の幼い少女が薄青い溶液の中で目を閉じ、う
っすらと微笑んでいた。昔と何ら変わらない、天使のような寝顔がそこに広がっている。
「アリシア。」
 研究室の薄闇の中に、恍惚と愛しい名前が響き渡る。
 二十二年はあまりに永かった。たった一人の子を失ってからの日々は、全てが地獄のようだった。
目覚めてはもう二度と動かず微笑むことの無い亡がらを幾度も見て、眠りにつけば夢の中で愛猫と
共に伏しているこの子を抱き上げたあの重みばかりを思い出す。片時も忘れることの出来ないまま、
日増しに鮮明にすらなるようなあの事故の一瞬が毎夜蘇る。あの金色の光が全てを奪った瞬間が。
 それも、もう終わりだ。
 両腕を広げ、プレシアは円筒形の水槽を抱きしめるように触れる。この水槽さえ無ければ、今す
ぐにも眠るアリシアの頬に触れて、包み込んで抱きしめてやりたかった。だがまだ、アリシアは三
歳にしかなっておらず、記憶の書き込みも十分ではない。目覚めるには早い。一刻も早く、この子
のまあるい赤い瞳を見つめたいが、二十二年の時を経た再会は完璧なものでなければならない。だ
から、もう少しだけ、この子にも自分にも我慢が必要だった。
「早く会いたいわ、アリシア。」
 ため息を零し、ガラス越しにプレシアはアリシアの頬を撫でる。本当に、三歳の頃と変わらない
寝顔だった。思えば、この子には寂しい想いばかりをさせてきた。二歳の頃に離婚をしてしまって
から、時折父親を恋しがるのを見る度に、別れて良かったのだろうかと悩むことも多かった。けれ
ど三歳になる頃にはそれを受け入れてくれて、一生懸命、食事の支度や掃除などを手伝おうとして
くれるようになって、本当にこの子の優しさが嬉しかった。研究所の仕事が忙しくなってからまた、
ずっと一人にさせてしまったけれど、もうすぐそれも全て取り戻せる。あの時取ろうと思っていた
長い休みも、アリシアとずっと一緒に過ごす日々も、何もかも戻ってくる。
 このプロジェクトF.A.T.Eで。
 鈍い音が階下から足元を突き上げた。下の階に置かれた水温調節器が立てる作動音だ。また動作
不良を起こしたのだろう、液体が零れる音が微かに響いてくる。下で、冷たい水の中に眠る、あの
子の水槽が立てる音だ。
 鼻を揮発する培養液のすえた匂いがついた。暗闇の中、薄らと光るガラス面にプレシア自身の顔
が映り込んでいる。その奥には温かい水の中で、金色の髪をした少女が微笑むように眠っていた。