火花が胸の奥で散る感覚。
 精神リンクはそんな感じに似ている。まるで万華鏡のようにその火花に色がついて、胸の奥
を目の前をあざやかに塗り替えていく世界観だ。枯れた冬の野山だって色彩豊かな光の世界に
変わり、夜空の星々の一つ一つが新たな色を持って輝き出す。そんな感触。フェイトと繋がる
ことで初めて目にした新しい世界。
「いつも通らないから、歩くの大変だね。」
 一歩前を行くフェイトが自分の顔に掛かるまでに伸びた背の高い草を右手一つでかき分けた。
左手はバスケットを庇いながら、青臭いトンネルをくぐって行く。その小さな足が土を踏みし
める度、湿った匂いと羽虫が舞い上がる。
「母さん、も通り難いよね、きっと。」
 踏まれた小枝が弾けた。
 同時にぱちんと水泡が弾け、飛沫がアルフの目の奥に焼き付いた万華鏡の輝きを千変万化さ
せる。香り立つ春に咲き誇る花々の煌めきに、一筋風が流れ込むように景色が変わった。透明
の水がなだれ込んで屈折率が変わるのと同じに。
 サンドイッチがいっぱい詰まったバスケットがフェイトの腕の中で揺れる。好き放題に伸び
た薮には人が通った跡は残っていなくて、二人はまるで初めての航海者だった。自分の背丈程
もある草に埋もれたフェイトの足取りは危なっかしく、波間に揺れる小舟のようにアルフの視
界の端で小さな頭が上下する。
「アルフは大丈夫?」
 草で引っ掻いたのか、振り向いたフェイトの頬に一筋薄らと赤い線が走っている。アルフは
それでも、バスケットを代わりに持とうとは思わなかった。後ろから腕を伸ばすと、フェイト
の前を塞ぐ草を大きく薙いだ。湿った黒い地面と茎に止まった甲虫が姿を現した。チョコレー
トのような光沢が羽根の上で照り映える。
「大丈夫。」
 草の中から顔を出したフェイトが正面を見上げた。その目が大きく開かれ、頬に明るさが走
り抜ける。眼前にそびえ立つ蔦で覆われた小山を仰ぎ、フェイトの瞳は空の破片を乱反射する。
「もう着いたからさ。」
 うっそうと茂った薮が、アルフの目の中でだけ幾千の花が咲く園に変わった。
 時の庭園を前にして。
「私、ぜんぜん気付かなかった。」
 緑の絶壁、そんな形容が最も似合うだろう。歩いては到底越えることの出来ない程に巨大で
急な斜面の全てに鬱蒼と蔦を絡み付かせた古代の次元航行船。いつからこの地に埋まっている
のかも、本当はどれほどに大きいのかも誰も知らない、遥かな時を眠り続けている船は、来る
ものを拒むように幾本もの尖塔を空に突き刺している。どう登ろうとしても、恐らく跳ね返さ
れてしまうだろう。
「こんだけ真緑だし、そりゃなかなか気付けないさ。
 あたしだって、フェイトに言われるまであること知らなかったからね。」
 豊かな尾を大きく振って、アルフが胸を反らした。フェイトは小さく吹き出すと、横目でち
らっとアルフを窺う。
「アルフはときどきうっかりさんだもんね。」
「ちょっとフェイト、どういう意味だい。」
 なーんでーもなーい、フェイトがリズムよく口ずさむと、アルフは脅かすように牙を剥いて
みせた。ピンと立てた耳の先、お尻の所では尻尾が風を起こしながら左右に大きく振れていた。
フェイトはくす、と一息笑うと空を穿つ庭園を仰いだ。
「でも、こんなのが本当に飛ぶのかな。
 うちより大きいよ。」
 遠くから木々の葉擦りが流れる。軽やかな音はさぁっと周囲の草花に伝わって、フェイトの
元へ届く。草と花と土の匂いのする風が体を擦り抜け、フェイトを囲む背の高い草を揺らし、
時の庭園に絡む蔦を撫で砕けて行く。
 目映い白の日差しが目を貫いた。強い太陽の下を一瞬通り過ぎた影を、フェイトは空に求め
る。紺碧の空をいつまでもゆらゆらと泳ぐ、それは一羽の大きな鳥だった。遥か頭上を円を描
いて旋回する一羽の鷹。
「リニスが飛ぶ、って言ってたんだから、飛ぶんじゃないか?
 どうやって飛ぶのかは、わかんないけどさ。
 なんか、宝石ついてるし。」
 適当な相槌を打ちながら、アルフはフェイトが歩きやすいようにさくさくと先の草を踏みし
めて、最後の三歩分の道を作り出していく。フェイトが転ばないでちゃんと自分の手で、プレ
シアの元までサンドイッチを持って行けるように。
「アルフよりもずっと大きいもんね。
 ほんと、」
 音も無く風を切る鷹の翼が向きを変えた。空気の流れに乗って、蔦に覆われた尖塔の根元へ
と滑空する。
「飛べちゃいそう、だよね。」
 鷹の翼が蔦の中に消えた。
 太い杉の木の上に作られた、細い枝で出来た巣が不意に脳裏に浮かぶ。真っ白の胸毛を膨ら
ませた鷹が卵を温めている姿が鮮明に描き出される。飛び立った鷹の迫力と、あざやかな黄色
い足が蘇る。去年、リニスとアルフと一緒に見守った鷹の家族。
「よーし、ばっちり!
 フェイト、早く行こうよ!」
 せっせとこしらえた幅一メートルの小道の真ん中で、アルフが拳を振り上げた。フェイトは
アルフに頷いて、バスケットを抱え直す。
「うん、お昼過ぎちゃうもんね。」
 フェイトは足取りを弾ませて、アルフが整えてくれた三歩の道を踏んだ。執事のように慇懃
に礼をしてみせるアルフに、ありがとう、と返して時の庭園の外縁部である通路を覆う蔦を手
で押しのける。
 きっとあの鷹は、巣を尖塔の根元に作っているのだろう。斜面は急だから、どんな獣も鷹の
元へは辿り着けない。夏が過ぎる前には数羽の小さな鳥が羽ばたくのが見られる筈だ。今度も
きっと、三人で。
 蔦のカーテンの奥には、涼しい影が溜まっていた。
 音が変わる。山の煩いまでの生き物の気配が途切れて、冷えた金属の匂いが鼻に触れる。草
の密林も、柱を作る蚊の群れもここには居ない。ただ僅かに吹き込んできた砂だけが靴の裏で
硬く悲鳴を上げた。
 その中心に、一枚の金属の扉がある。
 先が螺旋を描いた蔦が壁と扉の隙間に入り込もうと、身をくねらせてもがいている。フェイ
トはたった5歩の細い通路の端で立ち止まった。
「どうしたんだい、フェイト。
 蛇でもいたのかい?」
 アルフが蔦を手で避けて顔を覗かせた。逆光に焼かれるアルフの髪がオレンジに燃える。草
の緑色の上を舞う羽虫が光の粒になり、アルフは燐光を纏っているかのようだった。
「ううん、なにもいないけど。
 ただちょっと、ドキドキしてきちゃって。」
 眉を垂らしてフェイトはバスケットを抱きしめた。心臓の音に同期して、胸に押し付けたバ
スケットが揺れている気がした。
「ドキドキって・・・、なんだいフェイト、緊張してるのかい?
 久しぶりに会うんだから、飛びついて行きゃいいんだよ!」
 足元の猫じゃらしをまたぎ、アルフはフェイトの背中を大きな手で叩いた。フェイトはつん
のめって、唇を突き出す。
「もう、痛いよアルフ。」
 わざと拗ねた声を上げるフェイトの頭を撫でると、アルフはフェイトの背を押して扉へと促
した。小さなフェイトの後ろ姿が扉へと向かって行く。ツインに結わえた金髪の毛先が歩調に
合わせて左右に揺れた。
 リニスはいつもプレシアの話題を避けていた。フェイトがどれほどプレシアに会いたがって
いるか知っていて、それでもリニスの口からは一度だってプレシアと食事をしようだとか、少
し話をしに行こうだとか、そんな言葉すら出たことはなかった。リニスだけがプレシアと話し、
日々会っているというのに、リニスはアルフがどんなに言ってもプレシアとフェイトを会わせ
ようとはしなかった。何故なのかアルフが強く問い掛けても、リニスはプレシアは忙しいから
としか答えなかった。リニスは何かを怖れていて、何かを悲しんでいた、いつも、フェイトの
背を見守る眼差しで。
 リニスが最期まで口にしなかったその理由は、いくら考えてもアルフにはわからない。ごち
ゃごちゃ考えるのは苦手で、それでも負けずに考えても、わからなかった。だけど、プレシア
はフェイトがこんなにも大好きな人だから、フェイトがこんなにも会いたいと思っているのだ
から、会わせてあげたい。ただそれだけだ。ただそれだけだけど、これが一番だと思っている。
 きっとそこにどんな理由があったとしても、フェイトが会いに行けば喜んでくれるに決まっ
ているから。何度もフェイトから聞いた、フェイトみたいに優しい自慢のお母さんだから、突
然でびっくりするかもしれないけれど、その後にはフェイトと同じ様に目を細めて、つぼみが
解れるように微笑むに決まっているから。忙しくてもきっと、喜んでくれる。
「あ。」
 扉の前に立ったフェイトの口から、ぽろっとうっかり声が転がり落ちた。
「え?」
 連動してアルフの首が90度横に折れた。傾いだ景色の真ん中で、フェイトが力一杯藤のバ
スケットを握り締めた。アルフに向けられた眼差しは雨に濡れた動物だ。
「この前、母さんに頼まれたロストロギア・・・持って来るの失敗しちゃった、よね。
 なのにピクニックなんて、母さん私のこと、悪い子だと思うんじゃ、ないかな。」
 ざらざらとフェイトの背中に冷たい汗が噴き出して流れ落ちて行く。顔色までが褪せていく
フェイトを眺めるアルフの頭にも、五日程前のことが過った。持ち帰るように言われていた夜
を閉じ込めた色の結晶と、その中心に走っていた大きな亀裂。
「いや、まあ、あれはあれで、亀裂が入ってた方が、きれいだったし・・・。」
 フェイトが沈黙した。それが痛くて仕方なくて、アルフは明後日の方向に視線を飛ばす。
「や・・・やっぱり、今度にした方がいい・・・かな。」
 幼い視線がバスケットに掛けた赤いチェックのナフキンに落ちた。チキンの香ばしさを、バ
ターの焼ける匂いを、魚が立ち上らせた湯気をアルフはその奥に思い描く。今朝早起きしてフ
ェイトが作ったサンドイッチだ。
 アルフはフェイトの肩を両腕で強く掴んだ。
「なーに言ってるんだよ、フェイト! せっかく作ったんじゃないか。
 それに、プレシアだって怒ってないって、あれ渡した時だって全然気にしてなかった。
 そうだろ?」
 俯いたフェイトの顔が前髪で隠れる。柔らかなその髪をアルフは手で掻きあげた。丸いおで
こと一緒に、ハの字になってしまった眉毛と伏せられた瞳が現れる。小さな光が睫の先で微か
に震えていた。
「それは、そう、だけど。」
 蔦に陽光が遮られて、ここは少し寒い。けれど、アルフの視界は色を失ってはいなかった。
胸の奥に散る火花がある。これこそが確信だ。
「会いたいんだろ。
 お母さんなんだ、遠慮すること無いじゃないか。」
 フェイトが顔を上げ、アルフを見据えた。火花が散る、アルフの胸の奥で。世界に色を添え
る光が薄い陰の満ちた場所を光のるつぼに変える。
「うん。」
 蔦に半ばまで飲み込まれた扉へとフェイトは右手の平を押し当てた。凍れる金属の冷たさが
手に染み込む。腕を伝って背筋まで忍び込み、体の中心から熱を奪おうとする冷たさがここに
はある。けれどこの奥に、プレシアは居る。朝も昼も夜も、冬だろうと春だろうと、太陽の温
かさも、草の匂いも、風に木々が囁き交わす声も届かない、この奥にずっと。
 忙しいのはわかっている。なにか、大切な仕事をしているともわかっている。それでも、た
った一時だけで良いから会いたかった。そうして、一度で良いから、優しく名前を呼んで欲し
かった。一緒にこの日差しを浴びて、むせる程の草と花の匂いの中、鳴き交わす鳥の声と吸い
込まれそうな青空の下で、たった一声、優しく。
 金色の魔法陣がフェイトの手元で輝く。
 仄かな魔力光だけが点々と照らす暗闇の道が、開かれた扉の先にとおく続いていた。