獣の咆哮が体を貫いた。
 手指が肌が震えるのを振り切りフェイトは、小山ほどある黒い獣の頭上へと飛び出した。尾
を引く吼え声が耳元で切れる、解き放たれた銀の光条が髪を焼き千切る、けれど、自分の息は
整っている。ハーケンをフェイトは腰だめに据えた、一瞬。
 金の鎌が獣の首を弾いた。
 剛毛に守られた首が胴体と頭に分離し、赤黒い液体が吹き出す。不思議と音は、雨には似て
いなかった。宙を舞った狼の首は回転し、針葉樹をなぎ倒した。口の端が砕けた幹に突き刺さ
れ、歯茎が割れて牙が剥き出しになる。獣の巨体は首を失ったまま、一度だけ尾を振った。
 吹き下ろす山瀬がフェイトの外套を翻した。同時に、むせ返るような生の匂いが鼻と喉を潰
した。血溜まりが地面に広がり、木々の根元へと染み込んで行く。獣の足もぬかるみに沈み、
首を失った胴体が海へと伏していく。血飛沫が数メートル跳ねた。宙にぶら下がったままのフ
ェイトの足先を掠め、元の場所へと戻る。
「だいじょうぶ。」
 確かめる為に、フェイトは口にした。
 獣の首が横向きに転がった。黒ずんだ目が佇むフェイトの方を映している。その目やにのこ
びり付いた目蓋は痙攣し、眼球が小刻みに振動していた。
 フェイトは待っていた。二度三度首が痙攣するのを見ながら、血液と脂の匂いに鼻腔も口腔
も満たされながら、肌に熱が纏わり付くのを感じながら、血が地面に飲み込まれて行く音を聞
きながら、口に溜まった無味の唾液を飲み下しながら。
 その獣が、最後の一息を口から吐き出すのを、待っていた。
 腕に残った重たい感触が、ふっ、と増した。
 金属を打ち鳴らし、ハーケンが消えた。フェイトはバルディッシュを左手に提げると、緩や
かに下降を始める。前髪を一筋、風が煽った。
 死体から、青い光が立ち上った。
 蛍のような小さな光の粒が、血の泥から、獣の首と胴体からゆっくりと立ち上る。吹雪が吹
き出してくるようなそれは、まるで光の坩堝だった。フェイトの頬を撫で、髪を揺らし、光は
上空に散って消えて行く。帯となって、獣の体が解れていく。
 その獣の胸部中央に、一点の白い光が点る。
「あれか・・・。」
 フェイトは投げ出された四肢の間に降り立った。ヒールがぬかるみに突き刺さる。
 一音からなる澄んだ空気の鳴動が鼓膜を揺らす。フェイトは横たわる獣の胸を凝視し続けた。
青い光に包まれて、他には何も見えない。黒い胸毛も、隆々と爪の生えた前足も、足元の水溜
まりも。獣の体が空気になって、その向こうに広がる針葉樹の森が見えた。昼間なのに日の射
さない、真っ暗な夜の森だ。密集して居並んで、他の植物の一つもない。
 森の砂漠。昔、本で読んだ言葉だ。他に何も無く密集した針葉樹林は朝も夜も無く、虫の一
匹も住まない森の砂漠になってしまうと。
 獣の体が蒸発する。最後の青い燐光が吹き散らされた。
 白い小さな宝石が、フェイトの目の前に浮かんでいた。指先程の宝石は流線型の表面に光子
を纏っている。一見して、傷はついていないようだった。フェイトは右手を握り締めると、そ
の掌を宝石へと向けた。指の間に白い輝きを見つめ、魔力流を体から解き放つ。胸から腕を伝
い掌から、金色の光が宙に閃く。
 白銀の面に金色の亀裂が走った。
 咄嗟に、フェイトは腕で顔面を覆った。影が体に差し、噴出する閃光が頬を焼き、爆発が耳
管を射抜く。腕の産毛が焦げるような錯覚だけが、肌に残った。
「大丈夫かい、フェイト。」
 腕を下し、フェイトは目の前に立つ人を振り仰いだ。長い橙の髪を背に流し、太陽に愛され
た豊かな尾を振る。アルフは大きな掌で、フェイトの頭を撫でた。
「うん、大丈夫。」
 くすぐったそうに目を細め、フェイトが頷いた。




 砕ける白波が咆哮を放っている。暗い紺の海に線を引いて、水平線の端から端までを渡って
行く。砂浜を砕いて、跳ねながら水は斜面を登る。その間にも、大きな波が何処か遠くで破裂
する響きが胸を打った。
 黒く濡れた砂を踏み、フェイトは海へと向かった。踵が砂に埋まり、体が揺れる。靴が一セ
ンチ水に浸かる所で足を止めて、手袋を外す。妙に白い手の上を、海風が撫でた。前髪が散る。
「また、はずれだったね。」
 後ろから矢のように言葉が飛んだ。小さい波が押し寄せて、フェイトの靴をくるぶしまで覆
った。強い水流に、フェイトは腰を屈めると手を浸す。汗と脂が冷たい水に溶けた。
「どこにあるのか、はっきりしたんだよ。」
 耳を鋭い風が切った。砂浜の上まで広がった波が引く。その勢いに呑まれ、フェイトの足元
で砂が流れ、海へと帰って行った。立っている所だけ深く沈んで、バランスを崩してフェイト
は手を水の中についた。割れたたくさんの貝殻が掌を引っ掻く。
 砂粒の一つ一つがわかる、透明な水だった。
「管理外世界か。」
 アルフの呟きに、フェイトは頷いた。
 右手のひらに水を掬い、フェイトは立ち上がる。水は指の間からも手首からも垂れて、肘を
濡らし太腿に落ちた。風に微かなさざなみが立って震える水の膜は、指を僅かに開いただけで
空中に散らばった。
「フェイト。」
 耳のすぐ後ろをアルフの声が掠めた。あたたかい二つの腕が後ろからフェイトの肩に回って、
アルフの胸がフェイトを抱きしめた。剥き出しの肩と右頬にアルフのぬくもりが触れる。冷え
た体を溶かそうとするような、熱さがあった。
「どうしたの、アルフ。」
 指先についた水滴が海と空とフェイトを湛えている。薄曇りの空がその球を包んで白らんで
いる。指を折り畳むと潰れて、掌紋の間から影だけが染みだした。
「フェイト、逃げよう。」
 吐き出されたアルフの声が、首筋にぶつかった。アルフの腕に力が籠って、押し付けられた
体の間に熱が生まれる。海風に絡んで広がるオレンジの髪が、フェイトの目尻を擦った。
 ゆるく曲面を描く海が色褪せた空と遠く、判別できない点になって混ざり合っている。その
前に翳された自分の手首は血管の一つも見えて、剥がれかけた瘡蓋の白い縁取りも見えた。内
出血が解け始め、手首は緑色をしている。腕に走っていた腫れも、今は茶色の痕でしかない。
「どこに、逃げるの?」
 手首に張り付いた海の一雫に、フェイトは唇を寄せた。口内に染み込んで、塩辛さと苦さが
広がって、鼻の奥を強い海の匂いが抜けた。
「どこでもいいよ、フェイトが幸せになれるんだったら、どこでもいい。」
 アルフの声は、苦しい声だった。聞いているフェイトだって、胸を掴まれるような。アルフ
の指はフェイトの肩を巻き込んで、その強い力に体が僅かに震えている。心臓の音みたいだっ
た。アルフの心そのものみたいな。
 ジュエルシード。願いを叶えてくれる、古代の宝石。次元航行船が事故に遭い、次元空間に
流出させたというその宝石を追って、ここまで捜してきた。可能な範囲内にある魔力源は全て
断って、あと残されたのは一カ所きり。
 足をまた、波が濡らした。砂が削られて、体がほんの少しだけ沈む。
 フェイトはそっと、喉を鳴らした。
「ねぇ、アルフ。
 何から、逃げるの?」
 アルフの呼吸が一瞬だけ、止んだ気がした。
 ベルトに挟んでいた手袋を取り上げ、フェイトは手を覆う。空っぽの手の中にある、あの鎌
の重みも崩れて流れ出せば良い。絶え間なく常に押し寄せ砕ける波が、体を貫いて耳を撃って、
頭の中身を全て壊していく。波に呑まれれば海に沈んで、砂のように帰らない。それでいい。
波に壊されてしまうようなものなど、自分の中には何も必要ない。
「何も悲しいことなんてないんだよ、アルフ。」
 手袋をした手で、アルフの腕を解く。一瞬、アルフは逆らったけれど、直ぐに離れた。真っ
直ぐ歩き出してしまえば、海しか目に入らない。海と空しかここにはない。フェイトの膝裏を
冷たい水が撫でた。
 海が遠吠えしている。あの獣の遠吠えに思えて、フェイトは海水を見下ろした。もう海の水
は濁って、足は見えない。例えば、どうしてジュエルシードを積んだ船が事故を起こし、厳重
に保管されていた筈のロストロギアを落としたのか、とか。消えない手の中の重み、とか。そ
んなもの、砕けて死んでしまえばいい。
 海に砕かれてしまう私なんて、消えてしまえばいい。
 何も出来ない自分なんて、必要ない。
「第97管理外世界、か。」
 フェイトは呟くと、外套を顕現させた。身に纏い、海底を蹴る。金の光を水と共に空に撒い
て、アルフの目の中でまるで、黄金の夕日みたいだった。
「行こう、アルフ。
 母さんが待ってる。」
 一瞬の閃光は、海に落ちればただの紺の海水だ。振り返らないまま、フェイトが空に上がっ
て行く。外套は翼みたいに広がって、風に乗って空を舞い上がって行く。
「フェイト。」
 振り仰いだら、フェイトの空に消えて行く後ろ姿が青く霞む。
 輝きは、海に沈んでしまった。