月の真裏









 あと、三十秒。
 はやてはそう胸の淵で唱えた。
 教室のドアに嵌ったガラスの向こうを、廊下を通る生徒の姿がいくつも過る。薄い壁を越して響いてくる
のは足音と、体育の後の開放感にあふれた話声だ。数学の苦痛に塗れ、鬱屈としたこの1ーDの教室を揺る
がす休み時間の囁きが聞こえる。はやては椅子に座り直すと、一足早くシャーペンを筆箱に投げ入れた。
「それじゃあ、来週は小テストをするからな。
 60点以下は再テストだ。」
 まだ三十代前半の若い男の数学教師が告げると、クラスメイトは一斉に『えー!』と不満を揃って噴出さ
せた。やだとかダルいとかいう台詞が各々の口から飛び出す。だけどはやてはそんなことよりも、早く授業
を終わりにして欲しかった。チャイムが鳴るまで、あと二十秒。廊下を通り抜けたジャージ姿の数はもうク
ラスの半分は越えただろう。しゃべりながら歩く女子数人がまたD組のドアの前を通り過ぎる。
「先週から言ってただろう?
 それともワーク10ページを宿題にするか?」
「どっちも嫌です、先生ー!」
 活発で声の大きいソフト部の女子が、教卓に向かって反骨の拳を振り上げた。教室中が彼女と心を同じく
する者の嘆きに埋め尽くされる。けれどはやては、廊下から流れてくる涼やかな声を聞いていた。
「でね、うん、そう。」
 花のある軽やかな音色だった。花びらの上に溢れる朝露のような、その上を跳ねる鈴音のような声。穏や
かな足音と共に近づいてくる、それははやてが待っていた声だった。はやてはノートと教科書をしまい、細
い息を吐き出す。
 チャイムが鳴るまであと、七秒。
「とにかく、来週は小テストをやります。
 それじゃあ日直、」
 教師が授業の終わりを告げる。はやては立ち上がった。
「起立!!」
 未だ充満している生徒の不満げな嘆きを断ち切るはやての一喝に、先生は目を丸くした。だがはやてには
そんなことは関係がなかった。本当はこの時間の号令は、日直の相方である隣の席の子が掛ける事になって
いたけれど、そんなことだって忘れた。
 あと三秒。
 クラスメイトの全員が立ち上がるのを待つ間に、はやては椅子をしまう。はやての席は教室でも窓よりの
方、ドアまでは遠い。
 チャイムの音が学校中に響き渡る。
 はやては号令を張り上げた。
「礼! ありがとうございました!」
『ありがとうございました!』
 教室中で38人の生徒が声を合わせるのを聞き終えるが早いか、はやては踵を返した。机の間を擦り抜け
て、廊下へと駆ける。教室が一斉に五月蝿くなる瞬間を引き裂いて。
 教室の後ろのドアを、勢いよく開いた。
 廊下に満ちる十一月の空気が頬を突き刺す。広がる冷気の中、はやては左手の方を振り返った。
「フェイトちゃん!
 体育終わったん!?」
 ジャージを着て髪を後ろで高く結わえた彼女が、廊下の中央を歩いていた。金色の髪が頬に触れ、白んだ
陽光がその輪郭を淡く縁取る。級友に向けていたその顔が滑らかに動いて、はやてへと向いた。髪が僅かに
揺れた。
「はやて、どうしたの?」
 フェイトが目を細めて笑う。はやては一つ息を飲み込んだ。
 中性的な印象のある微笑みだった。まだ細い肩や体つきが、彼女の雰囲気を変えている。胸もまだ膨らん
ではいなくて、頬の線はあどけなく柔らかい。ふとすれば、男とも女とも判らなくなるような、そんな陰影
だった。
「今日のバレーはリーグ戦をやる言うてたから、どうなったんかなって。
 もちろん、優勝をもぎ取って来たんよね?」
 背が伸び始め、胸も少しあるはやての方が今は少しだけ背が高い。はやては腰を屈めてフェイトを下から
覗き込む。フェイトははやてに歩み寄りながら肩を竦めた。
「勝ちたかったんだけど、やっぱり部活でやってる子が強くって。腕は真っ赤なんだけどね。」
 ハーフパンツから伸びる足がリノリウムの床を捉えて小気味の良い音を立てた。
「スポーツ万能の鉄人フェイトちゃんも、日々の鍛錬には敵わへんのねぇ。いったそー。」
 フェイトの額にはまだ汗が浮いている。捲ったジャージから覗く白い腕は内出血を示して、斑に赤い染み
が滲んでいる。熱を持っていそうな程に膨らんだ肌に、はやてはそっと人差し指を伸ばした。
「ダメだよ、痛いんだから。」
 はやての指に宿る獲物を突く猛禽類の嘴のような鋭さに、フェイトが腕をさっと後ろに回す。はやてとフェ
イト、追う者と追われる者の視線がかち合う。
「嫌よ嫌よも好きのうちやでー、フェイトちゃん。」
 はやては唇をにやにや浮つかせながら、両腕を構えて足を滑らせる。緊迫に空気が息を潜め、フェイトの
上履きの裏が床で擦れる。じりじりと、二人の距離は一定を保ったまま、戦場だけが後退して行く。そのと
き、
「フェイトちゃん、はやてちゃん!」
弾ける高らかな声がフェイトの背後から放物線を描いた。
 編み込まれていた緊張が解けて霧散する。フェイトが弾かれたように振り返る。後ろから駆けてくる人を
迎えて、フェイトが笑顔を零す。
「なのは!」
 結わえた髪が跳ね、金色の光の粒が散る。はやては「おー!」と軽く手を挙げた。
「もう掃除だよー? 二人ともこんなところで堂々とさぼってるの?」
 はやてと手を叩き合い、なのはは二人の顔を交互に見比べた。今年伸ばし始めたばかりのサイドテールが
肩口を擦る。
「ふっふ、私の掃除場所は昇降口やからな、逆にここにおった方が見つからへんねんで。」
 はやての悪代官さながらな含み笑いに、なのはははやての脇腹を小突く。
「うわ、はやてちゃん、わっるーい。」
 はやてがなのはを小突き返し、二人は笑い声を立て合う。フェイトは困ったように頬を掻く。
「えっと、私は、ちゃんと掃除に行くからね?」
 その発言に、はやてが目を剥いた。
 脳天に雷が叩き付けられ、世界が暗黒に染まる、みたいなイメージの背景を負って、悲劇の主人公さなが
らに口元を手で覆い、涙を目の縁に溜めてはやては声を震わせる。
「そ、そんな・・・、フェイトちゃんが私を置いて掃除に行ってしまうなんて。」
 フェイトは口をぽかんと開けて、目を彷徨わせた。なのははフェイトの後ろで呆れているけれど。
「・・・え、いや・・・・え・・・、え?」
 はやては泣いたフリをしながら、フェイトに思い切り良く抱きつこうと、大きく腕を広げた。
「フェイトちゃん、私を置いて掃除になんて行かんとい」

 ごすう、という鈍い音を響かせて、はやての頭がチョップの形に陥没した。
「いいから掃除行きなさいよ!」
 ような気がした。

「いぃったぁ・・、アリサちゃん酷い。」
 はやては頭を抑えてその場に踞り、黄金のチョップを放った人影を見上げた。涙に滲んだそこには、仁王
立ちするアリサと、その半歩後ろで困った笑いを浮かべるすずかが並んでいた。二人ともちゃんとジャージ
を着て、すずかなんて箒も持って、掃除の準備は整えている。
「とーぜんよ、とーぜん。
 掃除くらいさっさと行きなさい! まったく。」
 むぅ、とはやては唇をもごもごさせると、フェイトの背中にこそっと隠れた。
「アンタね。」
 アリサが白い目を向けると、はやてがフェイトの肩に顎を乗せて頬を膨らませた。まるで背が伸びていな
いフェイトの肩に、ほんの少しだけ彼女の背を追い越したはやての顎はこれ以上ないくらいによく収まって
いた。はやてはアリサに向かって不満げに唇を突き出す。
「もうちょっとで、フェイトちゃんの膨らみかけたおっぱいを触れるところやったのに。」

 壮絶な音が、はやての体の中から響いた。

 正面と背後から飛来した思いきりの良い二撃に頭と脇腹を突き刺され、はやては息も絶え絶えにフェイト
の背にしがみついた。
「な・・、なんて野蛮な・・・.」
 恨めしげな呻きに、正面に立った鬼神はこめかみを引き攣らせる。
「アンタがこれ程までに変態に見えた瞬間はなかったわ。」
 背後に立つ白い悪魔は、怒りなのか笑顔なのか判断しかねる表情を浮かべていた。
「はやてちゃん、ちょっと後でお話しようか。」
 経験的に言って、二人のこの種類の笑顔はマズい。アリサには後数日は冷ややかな視線を浴び続けそうだ
し、なのはからはあからさまにけーべつの扱いを受けそうな気がした。けれど、すずかは可笑しそうに笑っ
ていて、間に挟まれたフェイトはまるで自分が怒られているかのように肩をすぼめているばかりで、どちら
もはやてを積極的に援護してはくれなさそうだった。
 だからはやては最後の防御壁を展開した。
「くらえ、フェイトちゃんバリアー!」
 背中からフェイトのお腹に手を回して、ぎゅっとしがみついてくっついて、やけくそ気味にはやては防御
壁に姿を隠す。
「え、ええええ?!」
 突然のことに、それでもフェイトは反射的にバリアーらしく両腕を頭上に掲げた。だけど、なのはとアリ
サの怒った顔と呆れ腐った顔は変わらないどころか、冷酷さを増している。
「フェイトちゃん。」
 なのはが微笑んでフェイトの肩に手を置いた。ジャージの肩口に深い皺が大峡谷のように刻まれる。
「あ、えっと・・、ば・・バリアーだから・・・その。」
 口を戦慄かせてフェイトはすずかに視線を送った。必死の救難信号を、だけどすずかは微笑んで躱した。
はやてはフェイトの背中に引っ付いたまま、本気でフェイトに隠れにかかる。
「あ・・・、えっと・・・。」
 フェイトははやての腕を掴むとそれをぐっと前に向けていた。イメージは戦隊物の最終決戦、敵基地への
突破口を開くレールガンだ。フェイトはそのまま、伝説の合体ロボの名前を叫ぶ。
「いけ、合体ロボはやて!」
 やけっぱちにアリサとなのはに合体ロボは突っ込んで来た。だけど合体ロボの歩調は前後で合っていなく
って、ペンギンみたいなよたよた歩きだった。最終兵器の機関砲ははやてのグー。でも正義の味方らしく、
操縦士フェイト隊員の眼差しは真剣そのものだ。なのはは堪らず吹き出した。
「もうなにそれ、ひどーい!」
 なのはがフェイトの額をぴんと弾くと、フェイトは顔面を真っ赤に染めた。
「合体ロボはやては負けないよ、たぶん!」
 フェイトは耳まで赤くしたまま頬を膨らませて言い放つ。自分で言っていて恥ずかしいのか細い背中が
震えている。
 ぎゅっとフェイトの背中にくっつけられるまま、はやての頬はその頭に触れる。はやては鼻先をフェイ
トの襟首に押し付けて、咲き初める花のように頬を綻ばせた。首筋から体育の後の微かな汗と、フェイト
の匂いがした。


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「アンタ、フェイトの事が好きなの?」
 アリサに顔を覗き込まれた瞬間。
 ぶぼぉっ、と小汚い音を炸裂させ、はやては鼻から勢い良くコーヒー牛乳を噴き出した。
「ごほ、ぐげっほ・・・・、ぶふっ・・。」
 鼻の中を、決してさわやかではないコーヒー牛乳の洪水が流れていく。鼻の奥から喉の裏まで充満する
のは、牛乳の生臭い匂いだ。粘膜を突く鋭い刺激に滲んだ涙を掌で拭いながら、ポケットからティッシュ
を取り出した。咳の衝動に引き攣るその背をすずかが労るようにさする。
「大丈夫? はやてちゃん。」
 すずかの声が優しく耳に触れる。はやてはしきりに頷いてみせながら鼻をかんだ。なんとも言えない液
体が鼻からだらだらと出て行く。すずかが微かにため息を吐いた。
「やっぱりちょっと唐突すぎたんだよ、アリサちゃん。」
「まあ、そうね。まさか鼻から牛乳を吹き出すほどだとは思わなかったわ。ごめんなさいね、はやて。」
 そう口ずさむアリサの態度は、謝っているとは思えないほどに尊大だった。言葉だけが謝っているとは
このことだ。はやては「いや、はぁ。」と曖昧な相槌を返す。
「ちょっと気になるね、って少し前から話してたんだ。
 はやてちゃん、どうするのかなぁーって。アリサちゃんの聞き方は唐突だったけど。」
 すずかが柔らかく言い添えた。はやては隣に座るすずかへと少し目を向けた。C組の一番窓際で、四角
に組んだ机は四つ。はやての隣はすずかで、向かいにはアリサが座っている。けれど、斜向いの机にはお
弁当が開かれているだけで、誰も座ってはいなかった。野菜の彩りも鮮やかで楽しげなお弁当は、持ち主
を待ってただ空気を吸っていた。
「ていうかそもそも、なんで私がフェイトちゃんを、なんていう話になるんかなぁ。」
 はやてはその席から視線を剥がすと、頬杖をついて笑った。右手は自分のお弁当に入ったミニトマトを
箸の先で転がす。一緒に詰められていたハンバーグの欠片が少しついたミニトマトは、表面に油膜が張っ
て鈍く光っていた。
「違うの?」
 すずかの緩くウェーブの掛かる黒髪がカーディガンの肩口を滑る。サンドイッチの端をくわえたまま首
を傾げるその仕草に、はやては小さく吹き出した。
「違うの? って、そもそも女の子同士やで? そんなわけないやろー! こっちがびっくりするわ!」
 腹から息を吐き出して笑って、はやては手でミニトマトを掴み上げた。口に入れるとヘタを指でもぎ、
少し硬い皮を歯で破って中のあまずっぱい実を舌の上に広げる。
「そらぁ、フェイトちゃんって優しいし、美人さんやし、強くて、まあ格好ええし? だからってなあ!」
 トマトの青臭い匂いが鼻を突いた。アリサが素っ気ないそぶりで、お弁当に入ったミートボールを箸で
二つに切り分けていた。その唇から、薄い溜め息が漏れる。
「あれでねぇ。」
 アリサの後ろ窓の向こうで、霞んだ雲が空の一番高い所に層と織り成していた。はやては口の中に残っ
ていたトマトの匂いをぐっと喉の奥に押し込んで、何処か隙間から入り込む枯れ葉の褪めた匂いを吸い込
んだ。
「アンタがまた諦めてるんじゃないなら良いわ。」
 アリサがはやてへと一瞥をくれた。はやてはただ、その景色を眺める。十一月、晩秋の空を切り取る窓
に、アリサの姿は逆光に白く縁取られていた。
「アンタ、変なとこで諦め癖あるから。」
 高台にある五階建ての校舎の五階に位置する中一の教室では、窓の中に街並が一面に広がる。住宅地の
平原と、市街地のビル群を見下ろして、淡く霞んだ空気の向こうに、線のように青黒く冬の海が嵌め込ま
れている。
「まったまたぁ、シリアスやなあ、アリサちゃんは!
 今からそれじゃあ、二十歳になったらはげるんとちゃうの?」
 はやてが声を立てて笑うと、アリサから空になった紙パックが飛んで来た。
 冬の海、暗いブルーの上を吹き晒す風の音はここまで届いてはこない。ただ時折、目に見えない空気の
塊が窓を外側から叩いていた。遠吠えのような風の唸り声が冬を率いていた。


 海の彼方で、太陽が沈んで行こうとしていた。溶銅の輝きを垂らして、海蒼に陽の色を流し込みながら。
広げた両腕よりも広い水平線が目映く乱反射をする。消えて行く光の破片を惜しまれながら、太陽が地球
の裏側へと回って行く。
 夕焼けに裂かれた風が別れて行く。遠く零れる残響のように吠えて。学校の屋上を吹き晒す砂埃が足を
打ち、切ったばかりの髪が耳元で煩く鳴った。
 校庭の隅から立ち上がる部活動の掛け声が流れていく。うなりのように遠く車の排気音が、学校の外を
行く自転車の鈴が、犬の鳴き声が、天球にぶつかり反響した。
 背中を預ける壁が冷たかった。ブレザーを貫いて冷気がしみ込んでくる。広くはない屋上の端、ここに
至る扉の脇に寄りかかり眺める街並は遠い。いくつもの家々の影が、墓標のように突き立つビルが遠景に
霞んでいる。空の際で燃える太陽に縁取られて。
 握り締めた前髪が手の中で折れて小さく悲鳴を上げた。もう時は過ぎてしまった。直に夕日は金色から、
街を焼く赤に変わる。水平線も、雲も、屋上のフェンスも、校舎も。はやての手も。
 夕日に染まる。
 手首にまだ、彼女の手の感触が残っていた。懐がまだ彼女の背中の熱を覚えていた。首筋に押し付けた
鼻先が彼女の香りを追っていた。耳にまだあの声が谺していた。
 目は未だに、夕日の中に彼女の姿を映していた。
 遠くに居る彼女に焦がれている。
 はやては嗤った。後頭部を壁に押し付けて、空を仰いで。東の空は緩やかに夜を迎え始めていた。
 何も諦めてなんかいなかった。
 今までと同じで構わなかったから。小学生の頃と同じ、ただ仲のいい友達で構わなかった。楽しく遊ん
でいられるような、そんな友達でよかった。
 だから、諦めることなんて、はやてには無かった。
 ふ、とはやては笑うと、茜の空に薄く伸びる輝雲を追った。風に吹き抜かれて広がる雲は朧で、あの日
の面影もない。
 ただ少し、思うだけだった。もし、あの時に気付くのでなければと。もう少し後でも先でもいいから、
あの時でさえなければ、少しは自分の考えも違ったのか知れないと。あの夏に、入道雲の立ち上るあの夏
に、あの時に、気付くのでなければと。
 太陽が視界の端で赤く輝いた。
 ドアノブが回る音がした。
 蝶番が嘶いて扉が内側から押し開かれようとしていた。誰かが屋上に出てくる。はやては咄嗟に、階段
室の角を回って後ろに隠れていた。扉から離れて建物の影、学校の裏手側に息を潜めていた。
 抑えた足音が扉が閉ざされる重たい響きに続いた。屋上に上がってきた人が屋上の端の方へ、はやてか
ら離れる方へと歩いて行く。はやては陰の中に息を詰めたまま、その足音の方を振り返った。
 長い影が屋上のタイルに伸びていた。フェンスの投げかける痕の上に、元の形が崩れる程に斜めから吹
き込む残光に煽られた影が床の上を滑って行く。
 それは、髪をサイドで一つに結わえ、肩に掛かる程の毛先を揺らす、細い女子生徒の影だった。
 なのはの影だった。
 放課後も終わろうとしている時刻だった。部活さえ終わろうかという時刻だった。どうして、こんな時
刻になのはが居るのか、と。はやては陰から出て行くことが出来なかった。
 なのはの影がふっ、と立ち止まる。フェンスの方、夕日の方を向いて。スカートが揺れていた。床の上
で、左手の影がフェンスの影を掴む。日差しに赤く焼け付いて。
 そして、金属を打ち鳴らすような緊迫音が甲高く響いた。
 金色の光が一瞬、閃く。
 はやては手を握り締めていた。屋上とその端を走るフェンスと校舎裏ばかりを睨んで、唇を噛む。長い
影が伸びて行く向こう、東の彼方には夜が押し寄せていた。群雲を押し流し紺碧の夜が訪れ、薄片のよう
な月が淡く滲んでいた。頭上で夕焼けが残した咆哮が空を二つに分っていた。
 反射的になんて、隠れなければ良かった。
 伸びる残照の中、床に広がる影は一つ増えていた。
 髪を二つに結わえ、外套を羽織った影が地に足もつけずに浮いている。突き上げた風にその外套を大き
く翻し、影は静かに、なのはの影と重なった。
 涼やかな声が旋律を紡ぐ。
「なのは。」
 フェンスが軋んだ音がした。甘やかな声が応える。
「おかえり、フェイトちゃん。」
 はやては目を閉じてその場に座り込んだ。真っ黒な影の間に座り込んで、膝を抱えて、硬く目を瞑る。
夜の気配を孕んだ風が体を叩いて行く。
「顔、怪我したの?」
 静かな間があった。微かな衣擦れが聞こえた気がした。
「エリオが、ちょっとね。まだやっぱり怖いみたいなんだ。でも大丈夫だから。そんな顔しないで。」
 最後の一言に滲んだ、例えようもない優しさが響き渡る。夕焼けを越えて夜の中にまで。風が運ぶ彼方
にまで。
「無理しないでね。リンディさんもクロノ君も、みんな言わないだけで、凄く心配してるんだよ。」
 なのはが包み込むように優しく、柔らかな音色を編んだ。
「私も、フェイトちゃんのこと心配してる。」
 そして、そっと添えるように一息を零す。
「いつでも。」
 目頭が熱くて、はやては目を見開いて唇を噛んだ。自分の腕と膝頭が視界で滲む。陰の中渾然一体とな
って、形を失う。
 アリサの声がはやての耳を貫く。もう失われた筈の音色が、はやての耳を劈いて、胸部に深々と突き立
つ。アリサはずるい。あんなことを聞いて、あんなことを言って。あんな風に言い放って。
 しかも、なのはが居ないときを選んで。

「ありがとう、なのは。」
 フェンスの軋む音が夕日の中から遠く響いた。


『フェイトの事が好きなの?』


 私には言えない。
 私には入って行けない。


 私は一人、月の真裏で。