旅立つあなたに花束を @





 いつからなのかははっきりとしない。
 ただ元気よくかけずり回っていて、そしてよく転ぶ子だ、なんて言われていたことを
微かに覚えている。
 それが、微笑ましいことではなくなったのは、3つの頃だった。
 足を何処にぶつけたのか、爪が割れて血が出ていた。しかし、そのことに自分で気付
かなかった。腫れているというのに、痛みを全く感じていなかったのだ。その発覚すら、
床に血の跡が着いているのを母親が見つけたからだった。病院に行って判ったのは、指
先の感覚と機能が低下していることだった。
 それでも遊び回るのが大好きなころだ。両親の心配は、推し量ることしか出来ないが、
相当に複雑な心境であったことだけは判る。原因のわからないその機能不全は、回復の
兆しの見えぬままありつづけた。


 転機が訪れたのは、2か月も経ってからだろうか。
 公園で遊んでいたとき、母親の元に駆け寄ろうとして転んで、そのまま立ち上がれな
くなった。 恐らく、思い付く限りの検査を行ったが、それがはっきりとさせたのは、
原因が不明であることと、少しずつ麻痺の範囲が広がっていることだった。その結論を
得る頃には、自分の意思で足の指を曲げることすらかなわなくなっていた。
 4歳になろうとしていた。
  思えばその頃は泣いてばかりいた気がする。
 段々消えて行く足の感覚。そして使わない足が筋力を衰えさせていき、日に日に細く
しぼんで行くのが恐ろしかった。爪先から死んでいくみたいだった。両親はそれでも、
安心させるように笑いかけてくれた。家は改築され、車椅子で移動が可能になった。
 6歳のころだ。
 幼稚園にはあんまり行けなかったけど、小学校は頑張っちゃおうね、はやて。友達1
00人作っちゃおう。両親とそんな約束をした。うれしくて、指折り入学式の日を待っ
た。
 背負うことは出来ないけど、ぴかぴかのランドセルを買って貰って、文房具もばっち
りで。毎日楽しみで夜眠れなかった。まだ2ヵ月もあるのに、はやては気が早いんやな、
と言いながら父親は毎日カメラを磨いていた。早くはやての制服姿が見たいわ、と母親
は目を輝かせていた。 
 結局、二人共、入学式には来られなかった。
 制服が届いたのは、二人が事故に遭った次の日だった。

  一人で出た入学式は、寂しかった。


 麻痺は膝まで来ており、新たな治療を始めたこともあって、小学校にはろくに通えな
かった。家にいる時間よりも、病院にいる時間の方が長くなった。
 泣かなくなった。
 泣き虫は治りつつあったけど、それにもまして泣かなくなった。
 あんなに元気で、優しかった両親の突然の死は、いづれくる自分の死を受け入れさせ
た。死は自分の中にあるものとなった。 
 ただ、ほんの少し。一人きりの夜に降り積もる、寂しさにさえ耐えられれば、生きて
いられた。
 9歳の誕生日までは。


「はやて、もう少しだよっ!」
「はやてちゃん、頑張って。」
 ヴィータとシャマルの声援と、シグナムとザフィーラの食い入るような視線を浴びな
がら、はやては床を掴む足に力を込めた。転んだ時に、ぶつかるようなものを片付けて、
いつもより随分すっきりとした八神家のリビングで、はやては自力で立ち上がろうとし
ていた。力は目一杯込めている。でも、車椅子から腰が上がらない。
「これでも、目一杯頑張ってるんやで…っ。」
 シグナムが車椅子を抑えていることを確認して、はやては肘掛けを力いっぱい押す。
すると少し腰が浮いたが、立ち上がるまでには足りない。自分の体重を支え切れなくて、
足が震えそうだった。後少し。そう思うのに、後少しがうまく行かない。破れかぶれで、
はやては肘掛けをぐっと押した。すると、バランスを失った体が前に倒れる。
 咄嗟に足を出すなんていう、普通ならなんてことない芸当も、はやてには出来なくて。
「はやて!!」
皆のはやてを呼ぶ声が重なって。
 気付けばはやてはシャマルの腕の中に収まっていた。
「もう。あんまり無理しないで下さい。
 心臓が止まるかと思っちゃいました。」
 そう言って、安心したように自分の頭を撫でるシャマルの顔が、いつもより近くにあ
った。立っているのを見上げるのよりは近く、抱き上げられているときより遠い。
「はやて!立ってる!立ってるよはやて!」
 ヴィータが飛び上がって喜んだのを見て、はやてはやっと気がついた。シャマルに抱
き付いてほとんど体重を支えて貰っているけれども、自分の足はちゃんと、床を捕らえ
ていた。
「わ…わたし、本当に立っとる?
 立っとるの?」
 突然のことに混乱して、はやては助けを求めるようシャマルを振り仰いだ。シャマル
は目尻に少し涙を浮かべながら、大きく頷いた。
「うん。はやてちゃん、自分の足でしっかり立ってるよ。」
「やったあ!」
 飛んで喜ぶことが出来ない替わりに、はやてはぎゅっとシャマルを抱き締めた。後ろ
で澄ました顔をしていたシグナムが、至極まじめな声で言った。
「今日は赤飯だな。」
  それは小学4年生の冬のことだった。