小さな月明かりが、ぽつぽつと降っている。
 薄く開いたカーテンの隙間から差し込む仄青い月光が、小さな水滴を夜に浮かぶ光の粒に変える。音もな
く生み出される小さな雫は顎先から解かれて、空を過ぎり毛布に吸い込まれていく。震える右手で、彼女は
顔を覆っていた。濡れた手首は淡い逆光でちらちらと瞬き、頬に落ちる髪の影に横顔が隠れている。膝を握
り締める左手に、筋が白く浮かんでいた。
「美奈。」
 喉を押し開いてそのか細い肩に呼びかけることが精一杯だった。何かを飲み込む仕草を見せて、美奈は右
手を顔から引き剥がした。そっと、その手がカーテンの隙間に伸びる。
「だいじょうぶ。」
 声は鍵が下ろされる音に重なった。
 開いた窓から、夜風が部屋に滑り込んだ。夜に青く染まったカーテンを大きく膨らませて、美奈の髪を吹
き流し、ボクの体を打って、まだ冬の名残がある春の風が鼻先を掠める。少し湿って、花の香りを孕んだ空
気に、美奈は前髪をかきあげる。大人びた仕草だった。美奈は口の端から歯を微かに見せて、眩しそうに目
を細める。
「少し、暑かっただけだから。」
 美奈のやわらかな目元から零れる止まらない涙が、頬をぽろぽろと落ちていった。窓の外、散った桜の花
弁を半月が照らしている。
 声を殺して泣くことを覚えた君を、ボクはただ立ち尽くして見つめていた。





 月明かり





「美・奈・子!」
 軽い足音と弾んだ声、いつものショルダータックルの気配をビンカンに察知して、美奈子は振り返りざま
に半歩左へと身を引いた。
「わっ!」
 渾身の一撃をかわされた悪友は三歩行き過ぎて教室の窓に激突した。汗ばんだ両手の平がガラスに貼りつ
く湿った音は掃除直後のざわめきに飲まれる。
「ふ! あたしの背後をとろうなんて、100年早いっ!」
 胸を張って腕を組み、美奈子は鼻をつんと上向かせた。「腹立つー。」、とバレー部仲間の彼女は抱きし
めていた窓から離れると、窓際前から三番目の美奈子の席に腰を下ろした。持って帰られることのほとんど
ない家庭科やら技術の教科書がプリントと共に引き出しからはみ出している。
「運動神経とカンだけは異常にいいんだから。」
「だけは余計よ!」
 仁王立ちした美奈子は、一昨日前髪を切りすぎたというその額を中指でぴんと弾いた。六月の暑くなり始
めた日差しが斜めに差し込んで、彼女のセーラーを焦がしている。衣替えは来週月曜日、それまであと二日
この暑苦しい長袖を我慢すれば、しばらく冬服とはお別れだ。
「まったく、こんなののどこがいいんだか。」
 中身がなく薄い美奈子のカバンが置かれた机に頬杖をついて、彼女は不満げに呟いた。
「こんなのとは何よー!」
 ぶすっと頬を膨らませると、悪友はいかにも悪友らしく悪そうに眉で弧を描いた。何かたくらみごとのあ
るカオだ、見覚えのある表情に美奈子は警戒半分、興味半分で彼女を見下ろした。彼女と企んで悪い結果に
なることも多々あるけれど、つまらなかったことは一度もない。
「なぁーに、そのカオ。」
 机の端に美奈子が手をついたとき、教室前方の扉が開かれた。ホームルーム始めるぞ、と学級日誌を片手
に先生が入ってくる。今日、担任の先生は休みで、臨時に来たのは学年主任の国語教師だった。教室中にち
らばって思い思い談笑していたクラスメイト達はけだるげに席へと戻り始める。椅子が引かれる騒音がけた
たましく重なった。
「部活終わったら、教室で待っててって。」
 たぶん、美奈子にだけ聞こえる潜めた声音だった。振り返った美奈子の視界にはからっぽの椅子だけが映
る。彼女は一足早く美奈子の脇を通り過ぎ、廊下側にある自分の席を目指して歩き出していた。
「え?」
 思わず漏れた声が、動揺したつま先に蹴飛ばされた。彼女の背を視線で追う自分の影が、椅子と机の間で
歪に動いた。肩越しに振り返り、彼女は口の形だけでその名を象る。
 やさしそうな目元でいつも話しかけてきてくれる、彼の顔が浮かんだ。
「じゃ、期待してるから!」
 悪友は下手なウィンクを美奈子にぶつけると、小走りに自分の席へと戻っていった。

 と・・・・・、
 とうとう、来た。

 口元がにやけてめくれ上がろうとするのを、机の下で握りこぶしを作って抑え込む。しかしあふれかえる
期待の鼓動が体の内側を叩いて、笑みが顔面へと突き抜けるのをどうにも止められない。そう、だって、と
てもカンタンでわかりきった答えがそこにはある。放課後に、男の子が、私に待っていて欲しい、というこ
とはつまり。
 とうとう来たのね、あたしの時代が!
 心の中でガッツポーズを決めて叫ぶのと同時、ホームルームの終了を告げる号令が響いた。部活の後はい
つもみんなで帰るのにどうやって抜け出してくればいいのかしらとか、部活の後だなんて汗臭くってサイア
クじゃないそろそろ制汗スプレーなくなりそうだったのにだいじょうぶかなとか、きっとバスケ部のほうが
終わるの遅いからちょっと待つんだろうなぁどんなカオしていればいいのかしらとか、妙に高まった鼓動の
周りを疑問がぐるぐると回転する。めまいを起こしそうで、美奈子は手のひらで胸の真ん中を押さえた。
 彼は隣のクラスだ、いつもホームルームが美奈子のクラスより長いから、部活前に様子なんて窺えない。
ああわざわざ自分を放課後に呼び出した彼の事情が明かされるのもその糸口が見えるのも、あと二時間は先
だ。頭のてっぺんからつま先まで、いつもより速い血が勢いよく巡っている。美奈子は赤いスカーフごと胸
を掴んだ。
「美奈子、先行ってるよー。」
 同じバレー部の三人がいつまでも突っ立ったままの美奈子に向かって手を振った。その三人に一様に浮か
んだニヤニヤ顔に、美奈子はべっと舌を出して答える。
「先行ってて、すぐ行くから!」
 大声で返事をしてサブバックを開く。昨日の夜、お母さんが畳んで置いてくれたまま、お行儀よく体操着
が眠っている。あぁ、でも、どうしたらいいんだろう。みうらくん、三浦くんかぁ、と実感と夢見心地をな
い交ぜに胸中で名前を繰り返す。なんて答えたら良いんだろう、ずっとカッコイイなって思ってましたとか、
突然そう言われても心の準備がとか、だけどそんなんじゃあ気が利かない、でも、三浦くんだって気が利い
たカッコイイ台詞を用意してくるかわからないし。考えるうちに体操着を取り出してバッグの上に広げた。
左胸に縫い付けられた名札にしわがよって、色濃い影が落ちている。とにかく、早く用意をして体育館にい
かなくちゃ。
 電子音がポケットの中で鳴った。
 単調な機械音は、妙に大きく響いた。耳を澄まさなければ聞こえない程度の音量でポケットの中で呻いて
いるだけなのに、それは教室の端まで届く。埃の溜まる教室の角にまで染みこんでいくその音源を捜して、
クラスメイトの視線が教室をさまよった。
 午後四時の日差しが美奈子を逆光で切り取っている。
「愛野?」
 生意気な日焼け顔が美奈子を窺った。教卓にどかっと置いた荷物に凭れ掛かって、彼は眉間にしわを寄せ
ている。黒板は掃除の直後だから妙にきれいだ。美奈子の足元にわだかまる影は椅子と机に貫かれて、何の
形もしていなかった。
「何よ、あたしじゃないわよ!」
 思いっきり爽快に言い放つと、美奈子はカバンを引っつかんで踵を返した。もう通信音は止まっている。
美奈子は体操着を丸めてサブバッグに押し込んだ。
「あ、なにお前、帰んの?」
「帰んないわよ!」
 釈然としない様子で自分を注目している同級生達を押しのけて、美奈子は廊下へと飛び出した。行かなけ
ればいけない、その確信が体を貫いている。嫌な予感は冷や汗となって背中を伝っていった。妖魔の出現で
あれば一刻も早く倒さねばならないし、相手の正体に近づいたのであればこの機会を逃すことは出来ない。
ダークエージェンシーは結局、敵の下部組織に過ぎなかった。組織の本体も、規模も、彼らの今後の動向も
いまだ明確にはなっていない。ただ前世からの敵であること、そして、何者である可能性が最も高いのかし
かわかっていない。
 足早に廊下を歩きすぎる。気の早い男子が振り回すテニスラケットを避け、開放感に満ちる談笑の隙間を
抜けて、階段へと足をかける。その時、奥のクラスで一斉に椅子が引かれるけたたましい騒音が響いた。彼
のクラスのホームルームが終わったことを言外に知らせるシグナル。
 つま先が階段の端につけられたゴム製の滑り止めに突っかかって止まった。冷たい石の手すりを左手が掴
む。その石が持つ冷気から、言葉が、体の底にこだまする。
 あの人が最期、自分に言い置いた言葉。
 美奈子は唇をそっと噛んだ。見下ろした踊り場にある窓から、グラウンドが覗いている。陽光が砂に反射
して、細い光が粉々に目に突き立った。体操服姿の生徒達は外を駆け回り、部活の準備を始めていた。端に
立つ時計は、四時五分を指している。
 放課後のうちに、戻って来られるだろうか。
 太陽に眩む目を伏せて、美奈子は薄暗い階段を駆け下りる。