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 配管を蹴って夕焼けの空に舞い上がった。重力を引きちぎったかと錯覚する一瞬、上下の感覚は入れ替わ
り、吸い込まれそうな空がこの一瞬だけは地面だ。足はオレンジになびく薄い雲を視覚の中だけで踏み、膝
の裏を冷え始めた空気が吹きぬける。
 次で終わりだ。
 腰に帯びたチェーンを解き放ち、右手を勢いよく虚空へ振り抜いた。見上げるビル街は夕日色に沈み、西
を向く窓ガラスは万華鏡の輝きを湛えている。その奥底、影の落ちる路地に黒い影がある。とどめを刺す。
自由落下する耳元へ長い髪が翻り、空気が甲高く叫んで切れていく。
「ヴィーナス! ラブ・ミー」
 従えた鎖の先に輝ける星の力が漲る。見開いた両目は刹那、わだかまる影が腕を掲げるのを捉える。迸る
力の予感はチェーンが届くよりも早い。奥歯をかみ締め自由の利かない中空で、ヴィーナスは渾身の力で身
を捩る。鋭い閃光が眼前を埋め尽くす。呼吸を飲み込み首を逸らす、その右頬が深く切り裂かれた。
「チェーン!!」
 喉の奥から怒鳴り声を搾り出し、ヴィーナスは力ある鎖を解き放った。
 血液が頬にばらばらと降る。

「クンツァイト。」
 狭窄音を鋭く吐き出し、あたしは彼を睨めつけた。右の頬に痛みが燃え上がり、鼓動にあわせて神経に障
る。体のうちと同じで温度を感じない液体が頬を伝い落ちる。ためらいなくセーラーを汚した血液に、触ら
ずともその深さを知る。
「どういうつもり。
 あたしはプリンセスを探しに来ただけと言ったはずよ。」
 首をなぞり服の隙間に流れ込む不快な血を拭うことはしなかった。腰に手を当てる仕草のうちに、見えな
い角度でチェーンに指をかける。
「プリンスを惑わし、この国を乱すのはやめていただこう。」
 振り抜いた細身の剣がクンツァイトの眼前で月光を湛える。白銀の刀身に一筋伝うのは、今しがた彼が切
りつけたあたしの血だ。硬い金属と頬骨がこすれあう嫌な感触はまだ頭蓋の中に木霊している。彼は確かに、
「何を言っているのかわからないわ。」
 あたしを殺すつもりだった。
 夜風が遠い木々を揺らして近づいてくる。一足一刀、斬り合う間合いに立つあたし達の体を、森の豊かな
芳香が撫でていく。触れ合う枝はささやきを降らし、月明かりを散らせる青い木漏れ日はクンツァイトの姿
をうっすら彩っている。星はうるさいほどに瞬き、雲を照らして天空への道を作り出していた。やさしそう
な目元で話しかけてくれたあの時と、きっと何一つ変わりはしないのに。
「月の支配を、これ以上受けるつもりはないということです。」
 まるで、違う人であるかのように、褪めた眼差しがあたしを映している。
「わずかな間に、随分意見が変わったのね。」
 瞳の表面にだけ。
 額にすっと冷ややかな意識が滑り込む。それに呼応するように体の奥底、背を通って頭を突き抜けて、激
情にも似た力の衝動が巻き起こる。太陽系第二惑星、燃えるがごとく熱い星。夜と昼の境に最も強く輝く星
の目映さが体の内を駆け巡る。
「プリンセスは無事なんでしょうね。」
 この夜空で、月を除いてあたしより強く輝く星はない。クンツァイト、たった一欠けの石など、あたしは
容易く砕いてみせる。例え昨日まであたしがあなたを、
 肩にかけたマントを翻し、彼は一息も漏らさずに、血塗れた剣の切っ先をあたしに向けた。

 どう想っていたのだとして。

 落ち葉を踏む乾いた音が耳に触れた。
「ヴィーナス?」
 ためらいがちな幼い声。反射的に大きく後ろに跳び退り、クンツァイトと彼女の間に、あたしは身を盾に
立ちはだかる。肌を貫いて溢れ出すクンツァイトの怒気があたしの肩を通り過ぎ、背後、プリンセス・セレ
ニティへと注がれる。踏まれた下草が足元で微かな悲鳴を上げた。
「何をしている。」
 プリンス・エンディミオンが肩口を掠めて通り過ぎた。逞しい腕を横に伸ばし、あたしの前に立ってセレ
ニティとクンツァイトの視線を断つ。プリンセスがおびえた様子であたしの腕に触れた。
「プリンス、まだ月の者と通じておられるのですか。
 あなたがそのようだから、いつまでも月の支配に屈したままなのです。」
 言葉の端々に宿る憤りが額で弾ける。どれ程までに憎悪に満ちていようとプリンスに刃を向けることはで
きないのか、クンツァイトの剣は地面へと下ろされている。だけど白々と光沢を放つ切っ先は鞘に収められ
ることはない。
「誰にそんな考えを吹き込まれた。
 お前達の考えは戦いと憎しみを呼び込むものだ。」
 そう、憎悪だ。
 唇を噛むと、傷口から押し出された血が顔を過ぎって、唇に染みた。錆び臭い感触が口腔を満たす。
「だまされているのはあなたの方です。」
 クンツァイトはそれだけ言い捨てると身を翻した。庭園の小道に差し掛かる葉陰をくぐり、見慣れていた
はずの背中が小さくなっていく。暗闇に紛れてマントの裾も長い髪も、何一つわからなくなるまでずっと、
剣の一筋は剣呑にあり続けた。 
「すまなかった、送ろう。」
 夜風が傷口に染みる。
 プリンスが振り返り、プリンセスはようやく長いため息を吐き出した。あたしの腕を掴んでいた強い指先
がそっと離れる。細い、月明かりと同じにやわらかな指先。
「ヴィーナス、その傷。」
 息を呑んだ気配に、あたしは咄嗟に頬を手で覆った。
「ヴィーナス!」
 あたしを覗き込んだプリンセスの顔が蒼白になる。掌一枚で隠せるような出血ではなかった。首を伝った
血は乾き、髪の数本が絡み付いている。腫れだした傷口が熱をもって疼く。あたしはでも、なるべく軽く笑
って言う。
「枝で切っただけです。だいじょうぶですから。」
 彼は黙って拳を握り締めた。何言ってるの、プリンセスがそう訴えるのを、あたしはもう一度笑ってなだ
める。
「みな、心配しますから。戻りましょう。」
 大きな目に今にもこぼれそうな涙がいっぱいに震えている。これが例えばジュピター相手なら、頬の一つ
でもつねって形だけでも無理やり笑わせてカンタンにことが済むのに。マーキュリーやマーズなら、事情を
話せただろうけど。
「だめだよ、そんなの。」
 慈しみに満ちて伸ばされるその手を、あたしはそっと左手で避ける。受け止めた手を一つの動作で下ろし、
あたしはプリンスを振り仰いだ。
「プリンス。もし、王国に剣が向けられたのであれば、あたしたちは対抗せざるを得ません。」
 地球と国をあげて戦いたくはない。そう思えばあたしの傷など、枝で引っかいた怪我と変わりない。プリ
ンスは息を引き絞る。地球の大地を踏みしめて、黒髪が月光になお艶やかにある。
「あなたが、治めてくれなければ。いずれ。」
 それだけ告げると、あたしはプリンセスを促して月へと至る道を踏んだ。


 蛇口から勢いよく流れ出る水に、夕暮れが溶けている。手の甲に差し込む残照はなめらかな淡い紫色だ。
公園の片隅にある水道に、新緑の木々をやまなりに越え子供の声が飛んでくる。
「乙女の顔に傷つけるなんて、どういうつもりかしら!」
 美奈子は水道の上に座るアルテミスに向かって、苛立ち紛れに声を荒げた。トレードマークの赤いリボン
は今は髪を緩く結ぶのに使われている。蛇口の水を手で掬い、美奈子は首筋を洗い流す。
「痕残ったらどうしてくれんのよ、まったく!」
 首を伝って落ちた水は赤い色素が混じっている。水流の中で渦巻く血は溜まっている砂粒に乱されながら、
排水溝へと吸い込まれていく。襟に冷たさが滲む。制服に血が染みたらイヤね、と頭の片隅で思った。
「傷薬あるから、戻ったらちゃんと手当てしよう。」
 白い尻尾が蛇口の横に垂れる。
「猫が作った傷薬ねぇー。信じていいのかしら。」
 言いながら美奈子はもう一度水を掬った。絶対に染みるからイヤだけれど、頬にこびり付いた血を落とさ
ないわけにはいかない。顔面を真っ赤にしたままで街中を歩いていたら、まず間違いなく補導されて午後の
ニュースになってしまうだろう。それにおまわりさんは苦手だけれど、存在しない通り魔なり凶悪犯なりを
探させるのは気がひける。
 まだ止まっていない血の一滴が、俯いた美奈子の鼻先を伝って石の上に落ちた。
「昔のも、治ったろ。」
 アルテミスが呟いた。
「そうね。」
 美奈子は短く返事をすると、痛む頬の傷に水を浴びせかけた。いったぁ、思わずうめき声が唇を割る。こ
んな傷を負わされたなんて悔しいけれど成果はあった。可能性は確信に変わり、すべきことは明確になった。
敵の目的を阻み、月の王国を取り戻す道筋。
「っつー・・・・。」
 乾いた血はなかなか落ちない。染みる傷に顔をしかめながら、美奈子は親指の腹で血の破片を剥がす。も
うそろそろ水で洗うのを終わりにしたいけれど、あまりに大胆にタオルに血がついたら、きっとお母さんも
お父さんも酷く心配をするだろうことを考えると、もう少し水で落としておきたかった。
 ねぇ、ほんとにだいじょうぶなの?
 遠い記憶の中で、少女が手を伸ばす。月明かりが下から照らす王宮の柱廊で、端正な眉を額に寄せて、彼
女はヴィーナスの頬へと手を伸ばした。本当は何があったの、教えて、なんと言ってその質問を遮ったかは
忘れてしまったけれど、彼女には決して傷にも血にも触れさせなかった。自分の手袋は赤黒く濡れ、話すだ
けで貼りついた血液が突っ張って表情を歪ませた。
 どうして、いつもそうやって、何も教えてくれないの。
 記憶の中で鮮明に刻まれた守るべき人の姿。やわらかな頬をまるで自分が痛んでいるかのように潰して、
顔を覗き込んでくる。長いスカートの裾が水のように広がっていた。傷の理由も何もかも、今、彼女に知ら
せることはない。大切な人。傷つかずにずっと、欠くことない月明かりと同じに透き通ったまま、瞬いてい
て欲しい。
 もし・・・、もしわたしが同じ戦士だったら教えてくれた?
 彼女は両手を胸の前でぎゅっと握り締めて、そう、ためらう唇で紡いだ。
『そんな、プリンセスであるあなたを戦わせたり出来ません。
 あなたを守るために、あたしたちはいるのですから。』
 かつて答えた言葉を、美奈子は脳裏で繰り返した。濡れた頬を指先で探れば、肌の感触がある。大方の汚
れは落ちたようだった。手をふらっと上げると、察したアルテミスがフェイスタオルをよこした。服が濡れ
ないように俯いたまま、美奈子はタオルで水を拭う。首筋から顎を上り、傷口ごと頬を押さえる。起毛が繊
細な傷口に触って、唇を噛んだ。
 久方振りにあげた視界に映るのは、青く霞みだした公園だった。電灯がそこここで点り、腕を伸ばす木を
平たい白で照らしている。砂利の地面はそこだけ切り取れば、砂漠にも荒野にも、晴れの海にも見えた。
「あーぁ、本当に治るかしら。」
 止血にと強くタオルの上から頬を押さえて、美奈子は頭上を振り仰ぐ。西の果てに太陽は沈み、その残光
だけが空には残っている。浅黄色を辿ってラベンダーへ、薄青い夜へ、天球はグラデーションを描いている。
まあるい空の最中、ビルの隙間に薄っすらと半月が現れていた。薄墨で描いたような朧な月影を美奈子は見
つめる。
 もし、わたしが
 あの月の白い宮殿で、彼女がどう続けたのか、もう思い出せない。
「ちゃんと治るよ、だいじょうぶ。」
 アルテミスの返事がセーラー服に当たった。サブバッグからはみ出したぐしゃぐしゃの体操着を、アルテ
ミスは前足で器用に直し始める。公園の片隅に佇む二人の上を、六時を告げる放送が渡って行った。