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 予報は午後から雨だった。朝日は空を覆う真っ白い雲を透かしてぼんやりと漂い、風が作る細い隙間にだ
け微かな水色が滲んでいる。アスファルトを蹴って走る自分の影も朧で、湿った重たい空気が髪や腕にまと
わりつく。校内の花壇から立ち上る土の香りは、いつもより色濃く鼻についた。日頃より三十分も早い朝の
学校は想像よりずっと人影がまばらだ。普段はうっとうしい程の人も話し声も何一つなく、錆び付いた古い
下駄箱だけが鎮座している。蝶番の軋む音に微か眉間に皺を寄せ、美奈子は上履きへと履き替えた。一足早
く来ていた男子二人が階段を上がっていく背中が見える。
 早く。
 その衝動が胸を内側から叩いている。家からずっと急いで来たせいで、首筋には汗が溜まっていた。美奈
子は大きく息を吐くと、呼吸を整えて階段に足をかけた。外れかかったゴム製の滑り止めが煩く小言を飛ば
すのを無視して、一段一段上がっていく。踊り場の上部にある窓、汚れ薄ぼけたガラスの向こうに広がるの
は一面の曇天だ。
 なんて謝ったら・・・、昨日から幾度となく繰り返している問いが胃の中をひっくり返す。鈍い汗は掌を
湿らせて呼吸を浅くさせる。放課後待っていて欲しいと言われたのに、何の連絡もせず行かなかった。伝言
の一つでも誰かに頼めばよかったのに、それさえせずに学校を出てしまった。部活が終わる前に戻って来れ
るのなんて、ほとんどない望みだと本当はわかっていたのに。たったの一分も、三浦くんのために使ってあ
げられなかった。
 謝りようなんて、あるのだろうか。
 同じ体育館でいつも部活をしているから、三浦くんは自分がバレー部の活動にも参加していないことに気
付いたかもしれない。伝言を頼んだミキに、どうして美奈子が部活にいないか聞いたかもしれない。でもそ
れらは全部、来るって言ってたけど来なかったという一言に集約されてしまう。三浦くんはどう、思っただ
ろうか。
 あの時は、告白であれば良いと思っていたのに、
 カバンの取手を握り締め、美奈子は自分のクラスを通り過ぎ隣の教室を覗き込んだ。三つ程かたまりが出
来てそれぞれ話をしているけれど、探している人の背中は無い。隣のクラスの席順など知らないから、カバ
ンが置いてある机だけ見ても、誰が来ていて誰がいないのか美奈子には判断が付かなかった。教室の後ろで
ふざけあっているグループの中にバレーボール部の顔を見つけて、美奈子は彼女を呼び寄せる。
「おはよ! ねぇ、ちょっといい?」
 振り返った瞬間いつも通り左頬にえくぼを作って、彼女は美奈子に手を振った。
「美奈! おはよ。どしたの早いじゃん!」
 机から飛び降りて、彼女はがたがたと並ぶ椅子の間を縫ってくる。その口は早くも何か言いかけそうに笑
いの形を作っていたけれど、近づいて来るにつれて彼女の視線は美奈子の右頬に吸い込まれた。
「美奈、どうしたのその顔。怪我?」
 頬を真っ直ぐに走るテープの色は肌に近いものにしたけど、目立つのは避けられないようだった。目をま
んまるに見開いて、彼女は美奈子の肩を押して廊下に出た。人なつこい垂れた眉毛が額にきゅっと寄る。
「いやぁ、今朝、寝ぼけてタンスにぶつけちゃってさー、あたしったらドジよねぇ!」
 美奈子は大げさに頭の後ろに手をやって、用意していた笑顔でその心配顔を吹き飛ばそうとした。けれど
もチームメイトは怪訝な表情を崩さずに、じっと美奈子の右頬を凝視する。
「アンタが珍しく・・・こんな早起きした、から?
 どんな転び方よ、それ。」
「いや、まぁ、そんな転び方よ。」
 人差し指の長さ程もある密閉性の高いテープは、傷口から染みだして来たもので白く膨らんでいた。頬骨
の上を走りこめかみにまで迫った傷は深く、丹念に消毒し薬を塗布した今でも鈍く痛んでいる。腫れは納ま
らず熱を持ち、下瞼が押し上げられて右目の視界はやや暗く霞んでいる。だが普通の絆創膏などを貼るより
は早くよくなるだろう。アルテミスの言う通りの処置を正確に施したし、昔に同じような怪我をした時もこ
れで問題なく治った。
「やっぱり早起きは三分の得って言うのは嘘よねぇ。」
 特に心配はない。
「三分ってアンタね。」
 感慨深く頷いてみせた美奈子に、彼女は呆れた様子で項垂れた。笑い声をその短髪に振りかけながら、美
奈子は彼女の肩越しに再度教室を覗き込んだ。同じ作りの筈なのに、クラスが違うとなんとなく雰囲気が違
う。体育教師が担任を務めるこのクラスでは、額に飾られた校訓の隣に先生直筆の暑苦しいスローガンが掲
げられている。
「ね、三浦くん来てる?」
 美奈子はその質問を口にして、カバンを握り締めた。
「まだ。三浦は朝練あるから、いつも始業ぎりぎり。」
 そうなんだ、口の中で小さく返事をして、美奈子は細く息を吐き出した。それが安堵なのか不安なのか自
分でもよくわからない。胃の中で渦巻いていた気持ち悪さが体中に薄く広がっていく。なるべく早く、人に
あまり見られない時間帯にと思って急いで学校に来たけれど、それが無駄になったことだけは明らかだった。
そして、授業の合間、たった十分でどう話しかけたらいいか、想像さえしにくいことも。
「そう! 昨日どうだったのよ?
 部活にも来ないで、まさか美奈・・・・!」
 ぐるっと身を翻して、彼女は美奈子を壁際に追い込んだ。鼻先を近づけてくる彼女に首を振りながら、美
奈子は背中を壁に押し付ける。
「別に何にも無いわよ。」
「えぇー、うっそだぁ! だって、さぁーあ?」
 眼前で爆発した悲鳴に思わず顔をしかめる。その動作がまた傷に障って痛みが頬に走ったけれど、美奈子
はため息を吐いてそれを納めた。知りたがりのバレー部員の後ろを、登校してくる生徒達が次々に通り過ぎ
ていく。どう話すべきか、一晩考えて作り出したどうしようもない言い訳が口から漏れる。
「行けなかったの。
 どうしても、行かなきゃいけない用事が出来て。」
 用事? おうむ返しに問う声に、なんと返したらいいのだろう。結局嘘なんて得意でない自分は、何も話
さないという選択しか採れない。前世からの使命があってだなんて、そんなこと友達には言えない。きっと
信じても貰えないし、それに―――。
 擦った後のあるリノリウムの床を、少し汚れた上履きで踏んでいる。買った時にゴムバンドの上に書かさ
れた愛野という名前は、幾度かの洗濯でわずかに滲んでいた。
「だから、謝ろうと、思って。」
 放課後に、男の子が、私に待っていて欲しいと言った事実が示すカンタンな答えが、自分の期待もみんな
の予想も裏切るものであって欲しい。今、心の底からそうであることを願っている。そうすれば、きっと全
てカンタンに笑ってすませられる。なんだ昨日から悩みすぎちゃったって、みんな騒ぎ過ぎだよって、恥ず
かしがって終わりに出来る。
 あの時は、告白であれば良いと思っていたのに、
「あ。」
 目の前の彼女が横顔を晒した。一重の目を見開いて廊下の先を見通している。息を思わず飲み込んで、美
奈子はそっとそちらを振り返った。長い髪が肩を流れるせせらぎが、微か耳に残った。
「み、うらくん。」
 やさしそうな目元をわずかに解き、彼が廊下を歩いてくる。

 今はあれが、告白じゃなければ良いのにと、心の底から願っている。

「ああ、おはよ。」
 彼は二人を一瞥し、軽く手をあげた。体操着とバッシュを入れた使い古しのスポーツバッグのベルトに、
ボタンを留めていない上着の裾が挟まって皺が寄っていた。
「アンタ今日、朝練は?」
 右足を左足に絡めて立って、二人の共通の友人は彼を見上げた。ややつっけんどんにも聞こえる声音は騒
々しさを増し始めた廊下を通って、歩いてくる彼の所へ違わず届く。彼が踏み越える窓枠の形をした朝日は
朧だ。
「寝坊したから、休んだ。」
 いつも体育館で真剣にバスケをしている所ばかり見ていたからか、なんとなく意外かも、と美奈子は他人
事めいて思った。まだ眠気が残っているのだろうか、俯きがちな目元に影を溜めて彼は瞬きをした。その眼
差しは美奈子の上では止まらずに、背後の教室へとすっと流れていってしまう。まるで、昨日なんて存在し
なかったみたいな素っ気なさだった。
「昨日は、ごめんね。
 急に予定が入っちゃって、どうしても放課後待っていられなくて。」
 きっと、昨日の放課後に待っていたのは、自分や友人達が想像したことではなかったんだ。彼の冷めた様
子に安堵して、美奈子は通り過ぎようというその肩に声をかける。
「用って、」
 言いかける美奈子の顔を、
「何だったの?」
 彼の目が初めて見つめた。
 こんなカンタンに言わなければ良かったと、言い切る前に気付いた。黒い瞳の表面に美奈子を映して、で
も彼は美奈子を見てはいなかった。彼の薄い唇が開く。
「大したことじゃないから。」
 窓の外、校舎裏の鉄塔が仄暗く霞んでいる。目の前を過る彼の背と、それは刹那重なった。
「忘れていいよ。」
 素っ気なく彼はそう言って、教室のドアをくぐって行った。