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 忘れていいよ。
 素っ気ない、アスファルトに落ちる小石みたいな声音だった。それなのに、いつまで経ってもそれの転が
る音が頭の中で止まらない。角にぶつかり路面で跳ねて、体の中を引っ掻いて、何カ所にも繰り返し、同じ
言葉を刻み付ける。
 大したことじゃないから、忘れていいよ。
 その言葉は、確かに望んだ通りの形をしていた筈なのに。
 机の上で握り締めた手に、夕日の緋色が走っている。ビル街の後ろ姿を焼き切って紅蓮に燃える夕焼けの
飛沫は頬を打ち、空っぽの教室を凪ぎ払い、見渡す限りの街並に吹きつけている。上空を靡く細い雲には火
がついて、東の空に焦げた破片が散っている。
 美奈子は目を瞑った。それでも頬に当たる日差しは無くならなくて、机に組んだ腕に頭を埋める。額を木
の盤面に押し付けて、わずか拳程の隙間で苦しく熱い息を零す。自分の呼吸だけ、はっきりした形を持って
いた。部活の掛け声はもう途切れがちで、グラウンドから人の気配が薄れていく。
 謝りようなんて、もうない。
 右頬の傷が焼けつくように痛い。テープに周りの皮膚はかぶれだして痒いのに、傷口だけは心臓の音に合
わせて何度も何度も神経に障る。熱と痛みが頭の中で鳴り響く。もうどうしたらいいのかわからない。大し
たことじゃないから忘れて、来週からまたいつもと同じ顔をして、夏服に着替えて登校することなんてきっ
とカンタンだ。彼とはクラスが違うからきっと、いくらでも避けて過ごせる。いくらでも忘れたことに出来
る。いくらでも、昨日なんてなかったことに、してしまえる。
 いくらでも、彼の気持ちなんて、なかったことにしてしまえる。
「美奈子。」
 聞き馴染んだ声が、名前を呼んだ。
 足音が一つ、前方から聞こえた。たった一度、床を軽く擦った音。それが、誰なのか、顔を上げないうち
からわかっている。太陽が放つ真紅の残光が、教室を貫いて美奈子も彼女も赤く塗り潰していた。息を呑み
顔を上げた美奈子の睫を、地平の隙間に煌々と輝く夕日が透かしている。
 昨日、彼の名前を教えてくれた時と、彼女は何一つ変わりはしないのに。
「ねぇ、どうして・・・・行ってもあげなかったの?」
 まるで、違う人であるかのように、褪めた眼差しであたしを映している。
 歪に差し込む西日が彼女の影を、長く黒板に貼り付けていた。右手でスカートを握り締め、二つの目は瞬
きすら忘れて美奈子を見つめている。彼女が零す息すら見えてしまいそうな程、その肩に力が込められてい
る。
「どうしても、行かなきゃいけない用事が出来て。」
 美奈子の口から出て来たのは、今日一日何度も繰り返して罅の入った、脆い言い訳だった。朝も、昼も、
同じように答えて、そして、一度だって彼女を納得させられなかった言い訳。口にする度、彼女を傷つけて
いる気がする。朝は驚いて、昼には困惑して、今、
「誰にも、伝言一つできないような?」
 泣き出しそうな顔で美奈子を見ている。でも、いくら探しても美奈子には彼女に渡せるまともな言葉がな
かった。前世からの使命があってだなんて、そんなの友達には言えない。きっと信じても貰えないし、それ
に、言ってもどうしようもないから。
「言えないの? ちょっとも? わたしにも?」
 真剣な彼女の目が、美奈子を映して揺れている。黒板に長く伸びた影は美奈子へ向かってわずかに動いた。
「ごめん・・・。」
 擦れて、語尾も聞き取れないような呟きしか、彼女に渡せない。
「どうして・・・。」
 絞り出されて震えた彼女の声を聞いていられなくて、美奈子は視線を落とした。錆びの浮かんだ椅子や机
のパイプが幾重にも並んで、まるで閉じ込められているみたいだった。昨日、彼も放課後、こうやって黄昏
の中に立ち尽くしたんだ、きっと。
「美奈子、ひどいよ。」
 涙で歪んだ目であたしを見る、彼女と同じに。
 大したことじゃないから、彼、忘れていいって言っていたわ。体の中で、色だけは熱くてそのくせなんの
温度もしない残照の中で、冷めた誰かの声がそう言う。あたしは彼をどう思っていたわけでもない。話を聞
いたって断ったなら結果は一緒じゃない、って、そう囁く冷たい声は聞こえるのに。あたしの心臓は止まら
ない。
 大したことじゃないなんてうそだって、本当は気付いている。
「言われるの、迷惑だって言う子もいるけど。
 美奈子は、相手をどう思ってたって、それでも、絶対に聞いてあげる人だと思ってた。」

 誰もあれを恋だなんて言ってないのに。

「アンタ、バカでいい加減だけど、人の気持ちだけは無視したりしなかったじゃない!」

 誰もあれを恋だなんて言えてなかったのに、あたしは、

 あたしは彼の言葉が、
 恋じゃなければ良いのにと、心の底から願っていた。

 ふるえる息がこぼれた。目に映る両手が震えている。どうして、あたしがこんなに動揺するの、ただ一方
的に向けられていたに過ぎない、はっきりと耳で聞いてもいない言葉なのに、どうして。
「そんな後悔するなら、どうしてあんなことしたのよ!!」
 彼女の怒鳴り声が静まり返った校舎に響き渡った時、夕暮れの街並から六時を告げる放送が木霊した。