薄青い夜が訪れる。太陽が地球の影に隠れ、地表が光を失えば、物はたちまち姿を失っていく。机の上に
ついていた手もゆっくりと輪郭をなくし、青色に霞んでいく。窓の外、色の落ちた街並には電灯が点り始め、
水底のような世界にぽつぽつと穴をあける。だけどその光のどれも、空に靡く雲にさえ届かない。
「怒らせちゃった・・・。」
 誰も居ない空白の教室で、呟いた言葉は消えた。残るのは目に見えぬ熱だけだ。閉め切った教室内に籠る
昼の名残り。頬を抉る傷の腫れは、燃えあがる程の熱さで鼓動している。
 本当は、悲しませたのかも知れない。ガサツだけど人のことをよく気に留めている、優しい彼女を。だか
ら、三浦くんも彼女に言づてを頼んだのだろう。だから、
 だから、さっき彼女が投げた言葉が、痛くてたまらない。
 どうして、たった一言、明日にねとも伝えられなかったのだろう。どこに行くのだろう、あたしが無視し
たものの全ては、声に出来なかった想いの全ては、一体どこへ。

 左腕を長剣が貫いた。

 熱い痛みが迸り、血液が怒濤のように噴き出す。思わず両目を硬く瞑って、腕を握り締めた。これは、た
だの、ただのフラッシュバックだ。戦慄く右手を動かして、貫かれた左腕を握り締める。そこには長袖の制
服の感触があって、血なんて一滴も垂れていない。刃など生えてはいない。あたしは、今、
『ヴィーナス! ダメ、戻って!
 あなたを今失ったら、わたしたちは!!』
 通信機から鳴るマーキュリーの声を引き千切って走る。退くことなんて出来ない、今しかない。今、もう
数秒で埋まるこの人垣の中に開いた道を少しでも先へ駆け抜けることが、たった一つこの戦いを素早く終息
させる方法なのよ。挟撃も後方の防衛ライン構築も待ってなんかいられない。でなければあたしたちは
 違う、ちがう、違う!
 あたしは今、そうじゃない、それは過去で前世だ。あたしは、今、
「・・・・っ。」
 視界が歪む。勝手に、抗い難い力でイメージが頭の中に押し寄せる。どうして、こんなときに。どうして、
いつも、自分ではどうしようもなく勝手に、思い出すの。
「どう、して・・・っ!」
 夜が来る。
 あわい月明かりを連れて、青黒い夜が訪れる。薄らと廊下側の窓が明るくなり、膝はその場で崩れ落ちた。
椅子の背もたれを掴んで額を押し付けて唇を噛んで、それでも溢れてくるイメージが止まらない。目を開け
れば月明かりが突き刺さり、閉じれば、空が、真っ黒に染まっている。
『ヴィーナス!』
 雷が天を割り、破壊音が月世界を揺るがした。真っ二つに切り裂かれた宇宙が断末魔の絶叫を迸らせ、死
の間際に放つ閃光が晴れの海を真っ白に刹那染め上げる。わかっているわ、あたしが今突き進むのが何の上
であるかなど。このやわらかく湿った塊たちがなんであるか、見なくてもわかっている。折り重なるように
倒れて絶命する月の戦士たちを、頭部すら失って息絶える地球人の死体を、あたしは踏み越えてでも突き進
む。
 彼を、倒すために。
「クレッセント・ビーム・シャワー!」
 爪先から頭まで全身に満ちる力を指先から放ち、黄金の光矢で虚空を射抜く。晴れの海を、見渡す限りの
茫漠たる月の荒野を埋める大軍勢の頭上で、矢は雨となって降り注ぐ。彼が自軍の人間まで切り捨てて作っ
た死体の道は、ご丁寧に彼の元まで続いている。その道をまだ、埋められる訳にはいかない。
『ヴィーナス行かないで!! 罠に決まってるわ、やめて!』
 腕がなくなれば食らいつき、内臓が破れても剣を振るい、頭が潰れても心臓の音がなくなっても、生命の
最後の一滴まで絞り出して殺戮のために燃やす、圧倒的な狂気に満ちた地球人達との戦いは部隊を分断して
の各個撃破であるべきよ。マーキュリーの戦略はその後に展開させなければならない。そして、あたしには
ここで大局を動かし、そう出来るだけの能力が在る。あたしは、マーキュリーより力が強く、マーズより決
断力に優れ、ジュピターよりも先見に長けた四守護神のリーダー。この国の全てを守るべき戦士。あたしは
今この場で、敵左翼部隊を叩き壊す。
「ヴィーナス・ラブ・ミー・チェーン!」
 黄金の豪雨を貫いて、鎖が戦場を走る。狙い通りに鎖が遠方で何かに巻き付いた手応え上がる、それがな
んであっても構わない。やわらかい人間だった何かの一部を蹴り、中空へ飛び出した。宙に舞い上がったあ
たしの足元を斬撃が貫く。正面で背後で、咆哮と悲鳴が爆発する。二つの星に住む人々の悲鳴が、同じ悲壮
さで空を射抜く。
『あなたを激昂させて誘っているのよ!
 わからないの!? ヴィーナス!』
 あたしは激昂などしていない。元より覚悟はしていたのだから、彼と戦う覚悟を。あの地球に漂う不穏を
見たときから、頬を斬りつけられたときから、いくつも覚悟を積んで来たのよ。あたしたちは立場が異なる
から、彼は地球の全軍を指揮する四天王の長で、あたしは。それなのに今更、激昂などはしない。ただ、後
方に防衛線を築くために部隊ごと下がろうとしたあたしを止めるためだけに、自軍の人間ごとあたしに斬り
つけるだなんて、彼が守るべき地球の人間をもその手にかけるだなんて、あたしを殺すために、守るべき国
の民を自らの手で斬り捨てるだなんて、そんなこと。
 あなたが守るべき人々を殺したあなたが、
 あたしが守るべき人々を殺したあなたが、あたしは
「赦せないだけよ!」
 月に降る雨が止む。残光は網膜の中でわずか赤い軌跡を残し、血と土煙の舞う地表が染まる。彼は、あた
しのチェーンを首に巻き付けた男の先に立っていた。夜明け前にほの白く瞬く星明かりを集めたような長い
髪。群衆の中にあってなお彼の握る剣は一際光沢を放っている。遠くてあたしからは視認出来ない両眼は、
でも確かにあたしを捉えていた。かつては、やさしそうにあたしを見つめた目が、今は見えない。
「クンツァイト!!」
 これから先、見ることはない。
 渾身の力でチェーンを引き、空中で進路を急激に変更する。クンツァイトに向かって、鎖の描く軌道に乗
って一直線に宙を駆ける。耳元で切れる風の絶叫など置き去りに、あたしの絶叫だけが先へと進む。
「ローリング・ハート・バイブレーション!」
 両腕から放った光弾は渦を巻き、強い振動で空気を打って駆ける。クンツァイトを過たずに撃ち抜きエネ
ルギーがその場で炸裂する。周囲に群れていた人間を吹き飛ばし打ち砕き、死骸が大きな広場を作る。その
左手寄りにあたしは降り立った。ヒールに地を満たす液体が跳ねると同時大きく前方へと跳び、右手に掴ん
だチェーンへ意志を通す。音も無く鎖は姿を変え、先端を剣へと進化させる。立ち上る土煙はあたしの背を
遥か越えクンツァイトの様子など窺えないけど今の一撃で倒せたとは考えられない。振り抜いた右手の先で
鎖が声を立てる。
 地面と空が逆転した。
 星が巡って宇宙に足が投げ出され、大地があたしの頭を叩いた。

 転ん、だ?
 違う、転ばされた? でも、なぜ、足が、こんなにも熱く痛むの。左手が、無意識に伸ばしていた左手が、
太腿に触れた。足の付け根からそっと、膝へ向かって指を滑らせる。皮膚がなめらかに続いている筈の足に、
指が何本も入ってしまう大きな亀裂があった。
「ぁ・・・っ、ああ・・・っ!」
 血液が溢れ出して滝となって伝い、地面に音を立てて落ちていく。音を立てて血が頭から引いていく。
「つ、ぅ・・・っあ、ぁ・・・。」 
 あたし、今、立ち上がれない。
 転がっている、地面の上に。目の前に人間の腕があった。手首から腕の半ばくらいまでしかない。もう絶
命した人間にくっついていた腕。地面に転がってる部品全部、何ももう生命など巡っていない。あたしも、
こんな骸の間に這いつくばっているわけにはいかない。こんなもがいている場合じゃない、悶えている場合
じゃないのに。
「く、ぐ・・・っ! ううぁっ。」
 左腕に突き刺さったままだった折れた剣が、太腿を握り締めた拍子に肉の中で動いた。痺れが指先まで走
っていく。もう、左手も足も動かせなくなるかも、しれない。読み誤った。あたしの予想より、一回り強い。
でも、やはり、こうするべきだった。二回考えてもそうなのだから、間違いは無い、きっと。
 千億時間を超えた星々の輝きが、見上げる空一面に広がっている。見慣れて、見飽きることの無い、この
嘘みたいに膨大な月世界の中で、茫漠と続く月の荒野の中で、あたしの息だけバカみたいに熱く、震えてい
る。そのくせ、背中からは恐ろしく冷たい汗が大量に流れ落ちる。
「クンツァイト!」
 顔を振り上げた瞬間、脂汗が目に染みた。
 身を起こしたあたしの視界。真っ黒く深淵へと落ちる宇宙に、幾千億の星と銀河が散らばっている。その
中心、人々が埋め尽くす月の地平線の先に、青く、一つの星が輝いている。紺碧の海を湛えた、命ある星。
 地球を背に、クンツァイトはあたしの前に立ちはだかっていた。折れた剣を捨て、傍の兵士から新たな長
剣を受け取る。曇りの無い刀身を彼の腕が高々と振り上げていく。白銀の刃が、揺らぎ一つない宇宙の中心
で翻る。地球をその身に映して。
「ヴィーナス。」
 突如としてみせた人垣ごと叩き斬る攻撃が何度もそう放てるわけがないだとか、なぜ、あなたが守るべき
地球の人々を切り捨て、なぜ人々は仲間が自軍の指揮官に斬り殺されても顔色一つ変えないのか、とか。疑
問はあたしの耳元を掠めて流れていった。あたしの右手と右足は動いて、彼の力ある斬撃は通常の剣ほど早
く二回振るうことはできなくて。そして、剣を返すより早くあたしは彼の懐に飛び込むことが出来るという
事実があった。彼も、彼らも、あたしの予想より一回り強い。だけど、あたしが掴む結果は変わらない、そ
の確信は揺らがない。
 クンツァイトが剣を振り下ろす、あたしを斬り殺す力を纏って。
 右足で地面を蹴りつけて、切っ先を左に躱した。凶刃は二の腕を掠めて、後方へ遥か突き進む。衝撃に視
界が揺らいだけれど、あたしの体は戦場を渡る。彼の剣が戻ってくるより、あたしの足が間合いに踏み込む
方が一歩早い。あたしは左腕に突き刺さっていた折れた刃を抜き放ち、両手で握り締めた。クンツァイトが
振り抜いた腕を引き戻そうと歯を食いしばる、その呼吸が見える。厚い胸板が息を吸って膨らみ、鼻筋に汗
が滲む。
 あたしはクンツァイトの胸の中心へ、折れた剣を突き立てた。
 肋骨を破り、胸の中心へ剣を突き立てる感触は重く、力が必要だった。唇を噛み、息を絞り、持てる全て
の力で彼の、クンツァイトの胸へ剣を埋めていく。服を突き破り、肉へと食い込んでいく剣を伝って、血が
あたしの腕に足に滴り落ちる。彼の心臓はまだ動き、筋肉の震えが感触となって伝わってくる。右足に体重
をかけ、全身で刃をさらに押し込み心臓を抉る。掌に刀身が深々と食い込んでいってもなお、彼の命に刃を
立てる。
 わずか数秒そうやって、そして手の中で、何かが切れる気配がした。
 急激に重みを増した体が上から落ちてくる。頭からのしかかられて、あたしの左足は支えきれずにあっさ
りと地面に膝をついた。生温かい血が顔にかかる。胸の傷から溢れる血が前髪を濡らし、右目を覆って顎ま
で垂れる。こんなにもあたしに全てを乗せているのに、そこには何も無い。胸の上下も、指先に通る意志の
気配も、全て、ただの錘のようになり、動かない。
 あたしがあの道を走り出したときに求めていた結果の、全てがここにある。
 未だ後方からは戦いの砲火が聞こえ、回線が開かれたままの通信機からはマーキュリーの指示が止むこと
無く続いている。主戦場から離れたこの一軍は指揮官を失ったというのに前進を止めない、そう言っている。
攻め込んで来た人間達の人であることを捨てたような戦い方を目にしたときから、欲しかった答えだった。
『後方の部隊が追いついたわ。
 今から、あなたの戦った部隊を挟撃するから。
 怪我、酷いのでしょう。一度戻って。』
 マーキュリーの声がくぐもっている。きっと、また唇の内側を噛んでいる。やめなさいと何度言ってもな
くせない、マーキュリーの悪い癖。今頃、口の中は血塗れだろう。
「ごめんね。辛いことは全部、いつもあなたに押し付けてる。」
 およそ人間性の全てをかなぐり捨てた人間達が指揮官を失ったらどうするのか、少しでも早く知りたかっ
た。最悪の答えがそこにあるのであれば、分断して各個撃破に持っていけるようにしたかった。答えはこれ。
発狂した集団は、指揮官がいなくなっても変わらない集団は死の間際まで戦いをやめない。いえ、他に誰一
人いなくなっても、最後の鼓動が尽きてもこのパレスに向かって突進する。
「黒幕、とか・・・いるのかしら。
 もし、いるならマーキュリー、あなたが、早く見つけて。
 でなければ、あたしたちは、」
 出会うもの全てを殺していく戦いをしなくちゃならない。皆殺しにするしかない。
 地球の狂った戦士達が駆け抜けていく。あたしは死んでいると思われているのかもしれない。だけど、こ
のあたしを擦り抜けて、シルバーミレニアムを攻撃するなんてそんなことはさせない。そんなことは赦さな
い。掌に食い込んだ刃を放し、のしかかる体を避ける。睫に絡んだ血が目に映り、黒い塊が視界を覆ってい
る。地に伏したクンツァイトの髪の先が、血で固まっているのだけ、見た。
 覚悟していたわ。
 仕える者が違い、守るべきものが違い、生まれた星が違った時から。永劫の幸福が築けなければ、きっと、
こうなる未来もあると。わかっていたわ。あたしがあなたを殺すことも、ありえると。
「あたしの後ろには、王国の幾万もの人の命があって!
 尊い人の命があるのよ!」
 あたしは、何も、間違ってないわ。
 傷ついた左足で地面を踏みしめ立ち上がると、強烈な痛みが脳幹を貫いた。太腿からヒールまで血が覆い、
錆臭い匂いを撒き散らしながら貼り付く。もう今、誰の血で汚れているのかわからない。何が、この体を濡
らしているのかわからない。
 睨みつけた先、鈍く充血した兵士達の目が居並ぶ。その向こう。青く、地球が輝いている。雲と、風と、
草木の香りを纏って、晴れた大きな海を広げて。
「だから、あたしの前に立ちはだかるものは、誰であっても赦さないわ!」
 あの青い星を見るたび、いつも、そこにいるあなたを想ったわ。
 もう、何処にもいないあなたを。
「あたしはセーラーヴィーナス!
 この先には、絶対に行かせないわ!!」
 握り締めた掌から、左腕から、足から、痛みと熱が迸る。体に走る力で全身が熱い。でも、頬が熱い。そ
んなもの全て超えて、頬が熱い理由を教えて。目が熱い理由を。例えそれが、涙でも、返り血であっても構
わないから。誰か。
 だれか
「ああああああああああああっ!!」 
 手の骨が床に強かに当たり涙が滲んだ。首の後ろに掻いた汗が髪を喉に貼り付かせる。息が、知らないう
ちに荒れている。体が濡れているのは、汗のせいだ。美奈子は両手の平を開いた。影が濃くて色もわからな
い、ただ掌紋の間に溜まる汗が何処からか漏れ入ってくる光を受けて、小さな煌めきを零している。
「また・・・、」
 握り潰した前髪が微かに呻いた。自分は間違っていない、それだけがわかる。昔も、今も、目の前には脅
威が在り、後ろには守るべきものがある。ただそれだけだ。他のものなど総べて、運命という道に転がる石
に過ぎない。目を伏せて立ち上がる。外は夜に落ち、ガラスに薄ぼんやりと自分のシルエットが映り込んで
いた。
 あたしは好きになった男の人を、自分の手でたおしていく運命なの? いつか口にした言葉が宙を舞う。
運命かは知らないけれど、きっと、使命の前に立ちはだかったならそうなるのだろう。あたしは、今までも、
これからも、ずっと。
「恋占いなんて、サイテーよ。」
 人の恋を、なければよかったなんて。あたしの恋なんて、かなうわけないのに。
 窓の外に水滴が一粒落ちた。予報を外れた雨が、いまさら、降り出そうとしている。