「すっごいんだよ!
 まずね、2時からペンギンさんがおさんぽするんだよ!
 それでねそれでね、一番おっきな水槽で水中ショーをやって、
 あとねイルカのショーもあるんだよ!」
 うさぎの力説が揺れるバスの中で跳ね回った。
「声大きいわよ、静かになさい。」
 路線バスの一番後ろから運転席まで飛んでいきそうなその声をたぐり寄せようと、レイがため息混じりに
うさぎを窘める。
「だってだって、たのしみなんだもん!」
 喜色満面のうさぎの笑顔は、隣に座る亜美にぶつかってレイの顔面に突き刺さった。亜美は小さく肩を震
わせて笑い、レイは諦めた風に「あと二十分くらいこれか。」と呟く。だけど、口振りの割りにレイはどこ
となく楽しそうだ、五人揃ってカーブで右に傾きながらまことはそう思った。灼熱の真昼を走る車内に吹く
強い冷房が、レイの前髪を数本ピンと立てているからかもしれない。
「まこちゃんもそうだよね! ねっ!」
 うさぎがまことを振り仰いだ。
 緑の街路樹の下を、バスはなめらかに走っていく。
「うん! 魚ってかわいいよな。
 あたしさー、いつか熱帯魚飼ってみたいんだよー。」
「わかるー! 熱帯魚いいよねぇ!!」
 夏休みを目前に控えた平日の昼間、いつもは教室から眺めているだけの景色を、歓声と共に進んでいく。
魚の名前は曖昧に、でもかわいいと思っている魚のイメージは明確に、二人は黄色い声を上げる。
「Vちゃんは!? Vちゃんはペンギンさん飼いたーい!とか思ったことある?」
 まことの影からにょきっと顔を出して、うさぎは窓際に座る美奈子を覗き込んだ。対岸の窓だろうか、美
奈子はどこか違うところに顔を向けていた。
「んー、ペンギンはないかしら。」
 曖昧に答えながら、美奈子の視線がうさぎの方へ戻って来る。前の座席に頬杖をついていたレイも、上機
嫌な様子でうさぎとまことの横顔を眺めていた亜美も美奈子を見遣る。
 美奈子の気の強そうな眼差しが小さく笑った。
「でもアザラシはだっこしてみたいって思ったことあるかな。」
「わたしもあるーっ!!
 とくにちっちゃーいあかちゃんの時とかさー、ふわふわしててかわいいよねぇ!
 今度みんなで海行くとき、ばったり会えないかな?!」
 うさぎちゃんったら、口にあてた指の間から、亜美の笑い声が漏れた。

 水面の鏡面世界に浮き上がった気泡が割れる。絶え間なく、幾つもの泡が空気の境目で砕け、銀色の欠片
となって消えていく。乳白色の裸体を晒す一匹の魚は揺れる銀盤に映り、2つの世界を泳ぐ。長く透ける尾
びれは穏やかな水流を描き、静寂の内をたゆたっていた。
「わーっ! みてみてまこちゃん!」
「うっわぁ、キレイだね!」
 大はしゃぎの二人の声が亜美の耳を真っ直ぐに射抜いた。二つ先の熱帯水槽に貼り付いて、うさぎとまこ
とはまるで周りを走り回る小学生やもっと小さい子供たちと同じだ。二人の横顔に嵌る瞳に、水面から零れ
る光が震えている。散乱する光はその様を眺めるレイの頬をも照らしていた。
「みんな子供みたいね。」
 思わず亜美の口をそんな言葉がついて出た。隣に立っていた美奈子が、答えながら亜美の肩口を追い抜い
て行く。
「しかたないわ、ようやく何もかも終わったんだもの。」
 うさぎとまことは先にあるトンネル水槽に走り込む。その後ろ姿を見送って、レイはようやく空いた熱帯
水槽の前に立った。赤やブラウンの珊瑚が花のように咲き、その上を蝶々や水晶の破片のような魚が泳ぐ鮮
やかな水にレイが吸い込まれていく。
「そうね。」
 美奈子の足は隣の水槽で止まった。底砂が敷かれ、岩がいくつか配されただけの簡素なレイアウトの中に、
数匹の魚が泳いでいる。一枚の金属で作られたかのような魚だった。うろこについた傷に、硬質な光がいく
つも埋まっている。
 鉱石の眼差しだ。口を閉ざして一匹の魚を見つめる相貌に、ふとそんな言葉が過る。出会った頃と同じ、
澄んだ色をしている。結晶面は高い連続性を保ち、瞳はその奥まで透けてしまいそうだった。使命の前に、
躊躇いすらなく向かって行ったあの時のまま。
 亜美は隣に並んで、そっと同じ魚を覗き込んだ。青い光が台に置いた手を染めている。
「不思議ね。
 また、こんな風に過ごせるなんて。」
 10センチメートル程の小さな魚が、目の前で身を翻した。そうして尾を左右に振って、また深みへと潜
って行く。
 覚悟はできてる、そう放った彼女の双眸に惹かれて全てを投げ打った時。また目を開けられるかどうかな
ど、考えもしなかった。後にも先にも何も無かった、もし、メタリアに呑まれた二人を救えるなら。もし、
あの人が自ら胸に立てた剣を、ただの悪夢にしてしまえるなら。
「おぉっきい! エイだよエイ!!」
 トンネル水槽で大きく身を逸らすうさぎの大声が反響する。そのまま後ろに転びそうになるうさぎの背を、
まことが慌てて支えていた。
「なにやってんのよ、うさぎ!」
 レイはするどく言い放つと、肩を竦めて亜美へと一瞥をくれた。きっとそういう仕方ないところが、うさ
ぎちゃんの良いところよなんて返したら、レイに甘やかし過ぎと怒られてしまいそうで、亜美はただ微笑み
を彼女に返した。幾千億の歳月を越えて、前世の因縁の全てを超越して、今、うさぎが照れ、まことが笑い、
「まだ、夢のつづきを見てるみたい。」
 美奈子は、両手の平を見下ろしていた。海の切り抜きに呑まれた手に、魚の影が過る。銀の魚が美奈子を
見つめて通り過ぎていく。深海に突き抜けるような真っ黒く、何も反射しない真円の目だ。
「どうか、したの?」
 レイが美奈子を振り返った。硬いへらのようなひれで水を掻き、魚が言葉の間を泳ぐ。青白い水影に浸っ
ていた両手を握り、美奈子がレイへ向き直った。
「ん、どうもしないわ。」
 亜美にはその声と、わずか眉根をよせるレイの顔しか見えなかった。手が理由もわからぬまま、美奈子の
肩に伸びる。美奈子は彷徨う指先になど気付かず、ただ勢いよく振り向いた。
「いきましょ、亜美ちゃん。」
 名前を紡ぎ、美奈子がまぶしく笑った。