バスが西日色の並木道を走って行く。微風に揺れる丸い葉影は、空いた座席の上に模様を次々と描いた。
五人掛けの最後部席にある三つの空白を、バスの吐き出す深い吐息が埋めている。レイは言葉のない三つ目
の呼気を吸い込んだ。まだ耳の奥で、さっき別れたうさぎ達のはしゃぎ声が反響している。隣に座る美奈子
の肩が揺れ、バスが交差点を曲がる。降り積もるのは、あまりに大きく震え疲れた鼓膜を癒す沈黙だった。
二人きりしかいないバスの客席を、窓から色づいた光が帯となって吹き抜けている。
「亜美ちゃんとうさぎ、大丈夫かしら。」
 問いとも呟きとも知れずレイは呟いた。進行方向を変えたバスの窓枠が弾く夕日が網膜を鋭く灼いて、目
蓋をわずか下ろす。まるで昼間、屋外プールで宙を舞ったイルカの体を滑った光に似ている。今も目に突き
刺さったままの破片が眩しい。空中から水中へ戻るイルカは瀑布を作り出し、うさぎと亜美を飲み込んだ。
その瞬間にあがった二人の悲鳴が未だにレイの頭の中をぐるぐると巡っている。水たまり製造機になったう
さぎと亜美は、しっぽも耳もたらした子犬のようだった。
「真夏だもの、大丈夫よ。」
 正面を向いていた美奈子が眦を解き、ゆるやかに答える。
「雨に濡れた子犬を拾うとこにドキッとするって、あんな感じかしらね。」
 涼しげな表情を崩して、美奈子がレイに目をくれた。その瞳の奥に浮かんでいるのがどんな景色か、言わ
ずともレイにはわかる。颯爽とカバンからスポーツタオルを取り出して、まことが大きな微笑みでもって二
人を包み込んでいる。すでに思い出となった今でも暖かな色のついたあの時に立って、レイと美奈子は小さ
な笑いを触れ合わせた。
 口元にあてた美奈子の手が微笑に揺れている。
 長い髪が肩を滑る音さえ聞こえるほど淡く、二人で時を描くのが好きだった、ずっと。
 バスが停留所に止まる。空気の圧搾音が響き、いくつもの足が立てる振動が上がって来る。外を走る車の
騒音やセミの声が大きく膨れ、熱気が共に流れ込んだ。夏をまとった人たちは、思い思い席を選んで腰を下
ろしていく。
「あ、美奈子?」
 乗客の一人から漏れた声が、耳朶を叩いた。美奈子が双眸をわずか見開いて顔を上げる。後部座席へ上が
る段差を踏んで、額に汗を浮かべた少女が立ち止まっていた。丸くした目の中心に、彼女は美奈子を映して
いる。赤いスカーフのセーラー服は芝中の制服だ。大きなスポーツバッグが彼女の背中で動いた。美奈子の
夕日に晒される頬に、見る間に明るい表情がつく。
「ミキ!」
 口の端から歯を見せて、美奈子が軽く腰を浮かせた。高く挙げた手が彼女を呼ぶ。
「どうしたの、部活?」
「やっぱ美奈子じゃん! そうよ、練習試合っていうか合同練習みたいな感じだったけど。」
 首に巻いたスポーツタオルの端を握って、彼女は朗らかに応えた。膨らんだスポーツバッグを美奈子の斜
め前の席におろし、豪快な様子で座席に腰かける。その奥でバスの運転手はドアを閉め、アナウンスと共に
走り出す。つり革が一斉に後ろに揺れた。
「アンタこそ、バスとかめずらしいじゃん!
 いつもおこづかいないとか言ってるから、走ってるんだと思ってた!」
「そうそう、20キロくらいならぜんぜんねー、走って行くんだけどねー、
 今日は30キロあったからちょっと・・・。
 ってねぇ、あたしだってそこまで体力バカじゃないわ!」
 バス内に充満する程の音量で美奈子が威勢よく言い返した。掛け合いの相手はわざとらしく大げさに顔を
驚愕に歪めて見せる。
「えー、うっそー!?
 アンタから体力とったら、ただのバカじゃん。」
「はっきり言わないでくれる!?」
 二人の笑いはぶつかりあって、騒々しいまでの賑やかさで車内を跳ねまわった。その音の衝撃が額を貫い
ていくのを、レイはまるで他人事のように俯瞰した。窓際の自分と、隣の美奈子と、通路を挟んで斜め前に
座ったレイには見知らぬ、けれど美奈子とは旧知の仲である様子の彼女の、歪な三角形を見下ろしている。
床についた黒い擦り跡に西日が伸ばす長い影が流れ、オレンジに染まりだした空気に射抜かれて、急にリズ
ムが一拍狂った呼吸を繰り返している。
「そっちは?」
 ショートカットの黒髪を撫でつけながら、彼女の視線がレイを捉える。
「友達、火野レイちゃん。」
 美奈子の手のひらが宙を舞った。その薄い手で指し示されて、レイは反射的に会釈を返す。「はじめまし
て。」、口にすると彼女は人好きのする表情で「こちらこそ!」と応じた。「すごい美人。」「でっしょー
!?」とその間にも忍ばせているくせにまる聞こえの会話が耳に届く。だけどそんな内容、レイにはどうで
もよかった。背を向けていた美奈子がレイを振り返る。
「こっちは同級生のミキ、バレー部なの。」
 唇で弧を描き、涼しげな眼差しにレイを捉えて、美奈子は級友をレイに紹介した。ほんの1、2か月前に
再会した、懐かしい微笑。だけど肩より高く挙げて、級友を紹介する手指は開かれていて、まるでどこにで
もいるただの中学生のようだった。同じ中学校の同級生は頬杖をついて美奈子を親指で示す。
「美奈子と一緒にいるとたいへんでしょー、いつでも悪口聞くよ。
 まかせといて!」
「ちょっと、本人目の前!」
 美奈子が身を翻すその肩口で跳ねた髪が、夕日に絡んだ。細かな光が反射する。人差し指で美奈子は身を
乗り出した級友のおでこを捉え、くすぐったそうに級友はその指を避けた。彼女は目を伏せて、笑った。
「友達できたんだ、よかったじゃん。」
 私服に身を包んだ美奈子の肩を、レイはなぜか見つめていた。
「うん、ほんっとーよね!」
 どうしてそんなとこを見ていたのか、レイにもよく、わからなかった。
 二人は会話を重ねて、その間にバスは道路を泳いで進み、夕日はゆっくりと夕焼けへと変わっていく。西
の空は緋色に燃え、左手、東の空はゆるく青に染まり、夜の足音を響かせる。ころころと美奈子は笑い、軽
口を飛ばし、慣れた様子で小突きあう。別に、なんら普通の中学生だ。だけど、
『次、停まります。』
 運転手がマイクごしに車内アナウンスを流した。
「あ。あたし次だ。」
 美奈子が運転席の方に取り付けられた電光掲示板を振り仰いだ。オレンジのドットで描かれた文字が右か
ら左へ流れ、外の景色は並木道から住宅街へと移り変わる。
「ん、じゃまた明日ね。」
 軽く手を振る級友に、美奈子は「うん、明日ね。」と応じた。ショルダーバッグを肩に掛けなおし、立つ
ために居住まいを正す。
「また今度ね。今日は楽しかったわ。」
 美奈子はレイにそう告げて目を細めた。バスは路肩に寄る警告音を立てながら、一枚表札が立つきりの停
留所に向かって減速する。
「えぇ、また。」
 自分の口が緩慢に動くのを、レイは感じた。それが自分の意志で動いているのか、反射で動いているのか
わからない。美奈子が腰を上げた。バスが止まり、夕焼けの街が止まり、自分の影が一か所に縫いとめられ
るのを、レイは見ていた。全て止まった世界の中で、美奈子の後ろ姿が地平から吹く夕日を裂いて歩いてい
く。

「待って!」
 声が迸ったのと、それは同時だった。
 手を掴んで引き止める自分の影が窓に映った。振り返る美奈子の目は驚きに見開かれ、互いの体を太陽の
矢が貫いている。街並みごと、バスの中も浚って薙ぎ払おうという黄金の空気の中で、レイは唇を引き結ん
だ。美奈子の手首を握る自分の掌に、ひどく汗を掻いている。震えそうになる息を噛み潰して、得体のしれ
ない衝動をそのまま言葉に変えた。
「あなた、この後、暇でしょう?」
 益々驚きに歪んでいく美奈子を見据えたまま、レイは彼女を引き止める手に強く力を込めた。