眩しい赤が弾け飛んだ。生まれたばかりの真紅は空中で飛沫を描き、目に焼き付いた。彼女の背後、ビル
の谷間を貫いた太陽の反射が眩しかったからかも知れない。
 日差しの中を舞った水滴は、アスファルトにばらばらと落ちた。
「あ、みちゃん・・・。」
 喉から漏れ出た声が乾いて、擦れている。目の前、もう手を少しあげれば触れられるそこで、息すら交わ
る距離で、彼女の柔和な顔が潰れている。歯を深く食い込ませて唇を噛み、眉間に皺を刻んでこじ開けた青
い目が滲んでいる。汗がその額から吹き出した。彼女の体が倒れかかる、レイは震える手を伸ばした。抱き
とめ、支えようとした右手。
「撃って。」
 澄んだ声は、レイの右手を拒絶した。
 苦痛に握り締められた彼女の拳は解かれることなくレイの手の甲を退けた。レイを突き放し、彼女は一人
で地面に倒れていく。細い髪が視界の端で散り、転がった彼女の背から溢れたあたたかい液体が跳ねて、レ
イの足にかかった。
 陽光が体を貫いた。
 急に、何もかもクリアだ。
 自分の前に立つものは何もなく、音はこの世から消え去り、ビルの窓で弾ける一条の光だけがレイの目を
射抜いている。掌で、背で、体の中心で熱が迸る。たった一つのやるべきことが、この上なく明確に突きつ
けられている。レイは炎の弓を引く。この世でただ一人、自分だけが持つ運命の力を解き放つために。
「マーズ・フレイム・スナイパー!!」


 死に至る病


 灰色のカーディガンを羽織った後ろ姿が、危なげなく廊下を歩いて行く。右手には相変わらず参考書など
が詰まった重たいカバンを提げ、左肩には体操着の入ったサブバッグをかけて、彼女はマンションの一室へ
と迷い無く進む。
「ごめんなさい、レイちゃん。
 送らせてしまって。」
 言いながら亜美は肩越しにレイに微笑んだ。やわらかな眦をゆるめる匂い立つような笑み。その笑顔と、
レイが貸したカーディガンだけでうさぎもまことも美奈子も彼女は退けてしまった。本当に? ほんとうに
大丈夫なの? 泣きそうに顔をくしゃくしゃにしたうさぎすらなだめ、病院に駆け込もうとしたまことも抑
えて。
「そんな怪我で一人で帰らせるわけいかないわ。
 当然でしょう。」
 結局、どう言っても聞かなかったレイだけ、皆の後押しもあってついて来ただけだ。
「ほんとうに大丈夫なのに。」
 まるでレイの方が駄々っ子であるかのように亜美は眉根を寄せた。筋肉も傷ついていないし浅い傷だって
説明したじゃない、口の中でぼやくのがレイの耳に触れる。それはたぶん信頼に足る言葉だと、レイもわか
っている。本当にどうしようもない怪我を隠すなんて、後々自分が困ることになるような嘘を彼女は吐いた
りしないとわかっているからだ。
 水野と表札がかかったドアの前で、亜美が立ち止まってレイを仰いだ。
「レイちゃん、ありがとう。」
 わかっているけど、このまま帰したくない。
 自然と見下ろした亜美の顔をレイは覗き込む。なめらかな頬にはまだ倒れた時に着いた砂粒がいくつか残
り、蛍光灯でちらちらと硬質な光を反射していた。
「背中、自分じゃ手当できないでしょう。
 やってあげるから、入れなさいよ。」
 口から飛び出たのが喧嘩でも売っているみたいな強ばった声音で、自分でもかすかに驚いた。額に妙に力
が籠っているのがわかる。きっと亜美は自分の険しい表情をまざまざと目にしているのだろう、気まずげに
息を呑んだのが見えた。それでも亜美は掌をそっと開いた。細い指先はやわらかくレイの肩を押し、家路へ
と促す。
「もう、レイちゃんの家遠いんだから、帰るの本当に遅くなっちゃうわ。
 夜道心配だもの、早く帰らないと。ね?」
 気遣うように触れてくる彼女の指先を、いつも好きだと思っていた。制服越しに伝わる感触も、その先に
ある彼女の意志も。でも今、そう思えない。そんな穏やかな気持ちで、そんなやわらかな気持ちで、彼女を
想うことなど出来ない。レイは亜美の手首を掴んだ。気遣いのオブラートに包んで、自分達は言い争いをし
ている。
「遅くなったら泊めてくれればいいじゃない、いつもそうでしょう。
 大したこと無い怪我だって、あたしはあなたが心配なの。
 なんでそんなに頑ななの。」
「レイちゃんこそ、今日は頑固よ。」
 諭す調子で言い亜美は首を傾けた。髪が数本額に貼り付いて、流れないで固まっている。
「意味のない意地をはっているのはあなたでしょう。
 あなたの怪我をあたしが心配するの、そんなにおかしい?」
 跳ね上がりそうな声のトーンを抑えるのには力が必要で、気付けば亜美の手首を握り締めていた。真上か
ら注ぐ蛍光灯の光が足元に黒い影を蟠らせている。強引に握った手が影を繋いで、床の上でだけ一つに見え
る。亜美は手を拳にしていた。
「おかしくはないけど、心配しすぎよ。」
 廊下の奥からエレベーターが到着する電子音が響いた。いくつかの足音と気配が壁と床にぶつかって、レ
イと亜美の間を吹き抜ける。人が来るわ、亜美の小さな呟きに、レイは手を離した。
「じゃあ、カーディガンここで返して。
 それで今この場で、怪我が大したこと無いって証明して、そうしたら帰るわ。」
 カーディガンを借りたいと亜美が言い出したのは、制服に血が染みる可能性を考えてのことだった。背中
を血に汚したまま街中を歩いて帰って来るわけにはいかないから。レイだってそれをわかっていて貸した。
ちゃんと洗って返すからでもたぶん汚れたりしないわと、皆に聞こえないよう囁いた亜美の言葉をそれなり
に信じて渡したのだ。亜美の顔が俯く。その視線を遮るよう、レイは手を突き出した。
「大したこと無いなら、それではっきりするでしょう。
 早く、帰るの遅くなっちゃうわ。」
 揺れる瞳がレイの掌を映した。眼差しはレイの腕を伝い、首筋を這って、最後、レイの両目を見つめた。
「もし、あなたの目には大変な怪我に見えて、それでも私があなたを帰したらどうするの?」
 亜美の手の中で握り締められた鍵が擦れあう鈍い音が、レイにも聞こえた。レイは小さく笑いすら込めて、
亜美に告げる。
「そのときはマンションの管理人室に駆け込んで、救急車を呼んであげるから安心して。
 あたしに心配されるよりは確実でしょう。」
 皮肉を込めて言い放つと、亜美は観念した様子で首を振り、そっと部屋の扉を開け放った。

 電気をつけると、リビングは相変わらず整然と片付いていた。母は今日帰って来ないわ、言いながら亜美
は自分の部屋へ入って行く。いつもの習慣でその後ろにくっついてレイも彼女の部屋に足を踏み入れた。ベ
ッドと机と大きな本棚が二台並んだ部屋の隅に、亜美がカバンを下ろす。カーテンを素早く引いた背が大き
く息を吐くのを、レイは背中で部屋の扉をしめながら眺めていた。
「あたしのこと入れるってことは、やっぱり大きな傷なのね?」
「レイちゃんが、どうあっても納得してくれそうになかったからよ。」
 ふぅん、気の無い風に返事をしながら、レイはドアに背を預けたまま座り込んだ。
「怪我、手当てするんでしょう?」
 抱えた膝に顎を乗せたレイを、亜美はちらと横目で見遣る。
「そこにいられると気になるわ。」
「いまさら気にすること?」
 鼻を鳴らして応じると、めずらしく亜美が不愉快さを顔に表した。苛立った様子で横を向くと、カーディ
ガンのボタンに指をかける。大きな子供でも留められるようなボタンを外す仕草がもたついている。二度三
度指を引っかけ、ようやく一つが外れる。漏れ聞こえる息が浅い。おそらく普通の倍以上の時間を掛けてボ
タンを外すと、亜美はカーディガンの裾を掴んだ。だがその姿勢で動きが止まる。袖から腕を抜くことを、
どうしても背中を捩らないではできない。亜美は殆ど棒立ちのまま、ぎこちない動作で袖口を掴んで脱ごう
とするけれど、カーディガンは制服と擦れあって離れない。
「―――っぅ。」
 唇の隙間から漏れる微かな呻き声だけ、彼女から簡単に剥がれ落ちて行く。短い髪に隠れた横顔が青白い。
 ねぇ、本当は我慢していただけなんでしょう。泣きたいくらいに痛いのを。
 そう言ってしまえればいいのに、意味も無く互いに頑なであり続けた後遺症で、きっと気遣いや心配に入
る筈のその言葉さえ、音にはならない。命を持って、息を伴ってこの世界には生まれて来ない。
「手、下ろして。」
 レイは亜美の後ろに立って、カーディガンの肩口を掴んでいた。少しだけこちらに傾いた亜美の顔は覗け
なくて、けれども首筋に滲んだ脂汗がぬるぬると鈍い光を湛えているのだけ目に入った。
「お願い。」
 懇願に頷いた時、血の匂いが鼻孔を満たした。
 嘘つき。
 その一言が体の中心で破裂した。右肩から左の脇腹まで斜めに真っ直ぐ、染みた血が模様を作っている。
肌が少し切れただけの浅い傷だなんて嘘だ。真っ白い十番中学校の制服を内側から鮮烈に染め上げ、血液は
確かな重みを持って背中に貼り付いている。
「カーディガン、汚しちゃった?」
 亜美が場違いな言葉を吐いた。レイに向き直って、背中を窓の方に向けて亜美は小首を傾げてみせる。弧
を描いた唇は今、隠しようもなく青い。でもそんなこと彼女は気にも留ていない様子で、制服のリボンを解
いた。
「服なんて気にしてる場合?!
 ふざけないでよ! ちょっと、電話」
 身を翻したレイの黒髪が宙を舞った。刹那、その毛先が何かに引っかかって止まり、レイは思わず悲鳴を
上げて身を強ばらせた。振り返れば髪の先を亜美が掴み、さっきと同じ眼差しでレイを見上げている。レイ
の方を駄々っ子に仕立て上げてしまう、あの理不尽な表情で。
「なに考えてるのよ、その傷で! 放しなさい。」
「嫌よ。」
 明確な意志が顔面に当たって、レイは表情を引き攣らせた。口の端があからさまに痙攣するのを止められ
ない。強引に腕を振り払い、扉の方へと踵を返した。だけど、あのとき自分を拒絶した彼女の手は、レイを
離さなかった。
「ちょっ」
 言いかけたレイの背を、もう一方の手が掻き抱く。倒れかかってくる亜美の体重が全て自分にかかって、
レイはよろめいてその場に膝をついた。二度三度、床に手足をぶつける鈍い痛みが頭まで響く。でも亜美は
背中に強くしがみついてレイを離さない。彼女から溢れる熱が背中から伝わって来る。震える息が背骨に当
たる。
「あなた、何考えてるの。」
 震えているのは息だけではない、縋り付く指先も、背中に押し当てられた胸も、彼女は全身引き攣らせて
呼吸を繰り返している。きっと、あの倒れる刹那に見せたのと同じ表情で、唇を噛み潰しながら。レイは床
に着いた自分の手が憤りで硬く握り込まれていることに気付いた。白く筋が浮かんで、掌には爪が突き立っ
て神経に障る。
 ささやき程の小さな呟きが、ぽつっとレイの背中を滑った。
「レイちゃん、怒ってる。」
 ふざけないでよ、絞り出した言葉は確かに、怒りに戦慄いていた。

「怒るに、決まってるでしょう。」
 唾を飲み込んでも、握り締めた手がひしゃげるのを止められない。二人しかいない筈の部屋の中が妙に煩
い。地の底から響く早鐘が閉じ込められた空気を揺さぶっている。自分の心臓の音だ。
「大したことないだなんて嘘ついて一人で帰ろうとして、これが怒らないでいられるとでも思ってるの!?
 バカにしないでよ!」
 怒鳴り声が壁に激突して反響する。レイは強引に体をよじると、髪に絡んだ亜美の手を捻った。何本か千
切れる感触が在って痛みが走るけれど気になどしていられない。しがみつく亜美と自分の背中の間に右肘を
ねじ込むと、力任せに彼女を引き剥がす。だけど彼女の手は、レイの手首を掴んで離さなかった。爪すら立
てて、剥がされまいと抗う。
「離しなさい。」
 腕を突っ張り、拳を亜美の肩に押し付けて突き放す。俯いた彼女の表情は、前髪に隠れて見えない。そろ
そろ切らないとなんて話していたのんきだった昼間が脳裏を掠めた。全てもう遥か遠い。
「いや。」
 否定の一言が床を転がった。
 亜美が怪我をしていることも、傷が深いことも背中が血塗れのことも関係ない、その細い体を思いっきり
突き飛ばしてやろうと思った。胸から湧き起こった衝動が二の腕を走り手首まで伝播した瞬間、
「だってレイちゃん、怒ってるもの。」
 涙を目の縁に溜めて、亜美がレイを見つめた。
 衝動は瓦礫の山へと砕け散った。残された破片は困惑という形をとって、胸のあたりを詰まらせる。息す
ら吸い難くする硬い塊だ。
「何言ってるの・・・さっきから。」
 額に当てた手に冷たい汗が滲んでいる。さして広くもない部屋の何処にも、この疑問を解く術は転がって
いない。あるのは床の片隅に投げ捨てられた灰色のカーディガンくらいだ。内側に赤黒い染みを点々とつけ、
無造作に丸まっている。
「あなたが怪我をちゃんと見せないことと、あたしが怒っていることがどう関係するの?
 あたしが嫌なら、美奈にでもまこちゃんにでも頼めばよかったじゃない!」
 泣き出しそうな亜美の瞳に、感情的な自分の叫びが映っている。
「それともなに・・・あたしが来なければあなたは一人で病院に行ったの?」
 恐ろしい筈の問い掛けは、感情に任せて止められずに溢れた。
 今も、亜美の華奢な背中から血が流れているかと思うと、怖くて、涙が込み上げそうなのに、彼女はそれ
を許してくれない。彼女の行動が作った疑問が、自分から泣く権利を奪ってしまう。突き飛ばそうとさえし
た腕から力が抜ける。セーラーカラーを引っ掻くだけになった指先に触れる空気は澱んで、暑さも寒さもそ
こにはなかった。
 亜美はレイの機微などまるで気付いていない様子で、ただゆっくりと首を振った。
「この時間までやってる病院って、母が働いているところだもの。
 こんな怪我、説明つけられないのに。
 心配、かけられないわ。」
 どちらが動いた拍子に引っ掻いたのだろうか、レイの手首が三カ所、爪の形に裂かれていた。血液の粒が
膨れ上がり、亜美の爪の間に染み込んで割れた。
「みんなにも。」
 しずかに亜美の指がレイの手首から離れていく。引っ掻き傷に流れ込む空気が障って、レイは眉根を寄せ
る。
「ごめんなさい。」
 自分に怪我をさせたことを謝るより、もっと他のことを謝って欲しい、そう頭の内で腹立たしく亜美を罵
った。ただ、口をついて出たのは、違う形の息だった。
「なに、それ。
 じゃあ、あたしはなんなの?」
 妙に細切れになって問い掛けると、亜美はレイのスカートを握って、下を向いたまま頷いた。
「レイちゃんなら・・・、って。」
 それは酷く子供っぽい仕草だった。
 呆れなのか、諦めなのか、わからないけど好くはない気分が体に広がっていく。他の誰にも心配はかけら
れないけど、自分になら構わないと思っていただなんて。こんな状況で、こんな理由で言われても少しも嬉
しくはなかった。
「あたしには甘えたかったけど、怒ってるから困っちゃったって、わけ?
 ほんと、どうしようもないわ、あなたって。」
 微笑んで皆を退けて、それでも結局レイを連れて来たのは元から彼女のどうしようもない我がままの一貫
だったのだ。服はほつれてさえいないのにあの怪我をして病院に行けば説明に困るだとか、警察でも呼ばれ
たらどうしようだとか、そういう心配があるのはわかる。けど、それで彼女の行動を認める気には到底なれ
なかった。
「その怪我隠して怒らないわけないでしょう。」
 ため息を吐けば重たくて、レイは引っ掻かれた手首を眺めた。爪痕は治りが悪い、きっとしばらく手首に
この傷は残るだろう。皮膚の微かなおうとつに薄く伸びた血はもう固まっている。
「違うわ。
 レイちゃん、その前からずっと怒ってる。」
 静まり返った室内を波紋が揺らした。
 塗り潰したような黒い目が、亜美に縫いつけられる。
「私が庇ったとき、から、ずっと。」
 時が、交わらない二人の視線の間で止まった。遠く、窓の外、夜景へと落ちた街並からぼうっと、駆け抜
ける車の排気音が流れ込んだ。レイは唾液を一つ飲んだ。
「あたしが手当するわ。
 用意してくるから、待ってて。」
 それだけやっと言うと、レイは今度こそ優しく、亜美の手を解いた。

 むせ返る程の消毒液の匂いに溺れる。上半身裸になり、血が染みていたスカートも脱いで下着一枚になっ
た亜美の背中を、レイは消毒液に浸した綿をピンセットで摘み観察していた。薄い肉が華奢な骨格を覆った
だけの細い背中を、傷は右肩から左の脇腹まで真っ直ぐに走っている。出血は殆ど止まっていて、傷口にい
くつか雫が浮いてぬめっているくらいだった。けれど血が流れた跡は背中から腰まで伝い、肌にこびり付い
ている。浅い傷だというのが本当なのか嘘なのか、もうレイには判断をつけられなかった。
「染みるけど、」
 我慢してねと言おうとして、やめた。裸足の彼女の爪先が、カーペットを擦って力を込めるのだけ、視界
の端にひっかかった。
 肩口に消毒液を押し付けると、体が震えた。真っ白い綿はすぐに赤黒く染まり、わずか二、三センチ傷口
を撫でただけで変えるよう訴えて来る。ゴミ箱はきっとすぐにいっぱいになるだろう。プリント類の束が刺
さったゴミ箱に、レイは綿を捨てた。
 ピンセットが瓶と当たって音を立てる。頭を下げた亜美が前髪を握り締めた。うなじが電灯の元に晒され、
脂汗が肌には浮いていた。レイは黙って傷口に新しい綿を押し付ける。
「っく、・・・ぅ、」
 染みだした消毒液が狭間に肉と血液を覗かせた傷口へ吸い込まれていく。噛み殺しきれなかった呻きが亜
美から漏れて、レイの耳朶を叩いた。苛立たしく彼女の指が頭皮を掻くのが聞こえる。
「やめなさいよ、それ。」
 触れる度にわずか反る背や、露になった裸体が呼吸を震わせていて、きっとそうでもしなければ耐えられ
ない痛みなのだろうと思ったけれど。もう一方の彼女の手は、毛足の短いカーペットを毟りそうな程に硬く
爪を立てている。
「・・・ふ、っ・・・。」
 ゴミ箱に綿を捨てると、先にいた紙の束が騒いだ。亜美が肩で慎重に息を吐いて、わずかの間に呼吸を整
える。その小さな動作でも背の傷はよじれる。まだ手当は傷の端をつついているだけだ、これから先は長い。
傷から流れ落ちた血が腰までまとわりつく背中を見下ろして、レイは目を眇める。我慢しなければならない
のは、こちらも同じ気がした。
「お・・・ねがい、何か、話して。」
 真っ青な顔で亜美がレイを振り返った。額から外された手指の間には、抜けた髪が数本挟まっている。吹
き出す汗のついた手が、レイの膝をスカートの上から掴んだ。
「面白い話なんて、なにも無いわ。」
 冷たい返事だけど、本当のことだった。レイはピンセットを持ち直して、亜美に背中を向けるよう顎で指
示する。だが亜美はレイの上で握った手を解こうとしなかった。レイは嘆息をつくと、膝で歩いて半歩彼女
に近づいた。互いの太腿があたる。腕さえ回せば抱き合える近さで、ただ唇を引き結んだ。そうして何もか
もその中に飲み込んで、止まっていた手を動かす。
 亜美の押し殺しきれない苦痛に塗れた吐息だけ、夜を震わせている。
 熱を孕んだ声を聞きたくなくて、けれど逃げ場などなかった。思考の海になど入ってはいけない、何も考
えたくなどない。彼女の気を紛らわせるための愉快な話題を探すためだろうと、この声を意識から追い出す
ためだろうとなんだろうと、何一つ思考へと繋げたくなかった。
 考えれば行き着いてしまう。
 なぜ、あの瞬間から怒っていたのか。本当は、
「ねぇ、どうして、怒ってるの。」
 呻きに変わってしまいそうな擦れた声で、亜美が言った。
「だまりなさい、舌噛むわ。」
 レイが傷口に消毒液を塗り込むと、短い悲鳴を上げて亜美が唇に歯を立てた。斜めに座っているせいで彼
女の表情が見えてしまうのが嫌だった。転んだ擦り傷を洗うのだって痛いのに、今、彼女が背に負っている
ものがどれほどなのかわかってしまうから。
「私・・・間違っては、いなかったわ。」
 それでも亜美は、塞がってしまいそうな目をこじ開けて、レイを見据えた。目蓋の縁が赤いのは痛みに耐
えているためだろう。でも奥にある意志は形を崩してはいない。
「気を紛らわす話題には、最低なんじゃない?」
 憔悴した頬を手の甲で押して、レイは亜美の体を背けた。背骨の上に到った消毒の行程はあと半分。こち
らに体の右側を向けていられるとやりにくくてしかたなかった。
「でも、怒ってるのは・・・、それなんで、しょう。」
 傷口に深く消毒液を染み込ませると、亜美の言葉は呻きに塗り潰される。ゴミ箱は血の塊が山となって、
ピンセットから伝った液はレイの指を濡らしていた。けれどもう鼻は麻痺してしまって、どの匂いも感じら
れなかった。
「しつこい。」
「じゃあ、代わりに何か・・・話していて。」
 哀願にも似て、亜美はそう口にする。
「ないわ。話題なんて、一つも。」
 涙が絡んでいるようにさえ聞こえる声で、亜美がレイを呼んだ。ないだなんて否定の返答は、結局話がさ
っきの場所に戻ることを意味している。だけど、亜美だってあれ以外に何を話すべきか見つけられないのに、
自分が探し出せる訳が無い。考えることを何もかも放棄しようとしている自分になど。
「どう・・・、して。」
 亜美の背が血に汚れている。
 右肩から左の脇腹にまで真っ直ぐ走った傷から溢れた血液で、腰までべったりと。その赤はもう眩しさな
ど失い、黒ずんで泥と乾いた薄片とに成り果てている。あの瞬間、レイを射抜いた陽光は地表から失われて、
カーテンも閉め切れば星明かりさえないのに。体の中、薄皮一枚剥いた所に、まだあの刹那が灼き付いてい
る。
 振り返ればすぐに、自分はあの時に立ち戻ってしまう。
 返りたくないあの瞬間に。噛み合う奥歯が不愉快な感触を脳に響かせた。
「あなたに敵を倒す力はなくって、あたしにはあった。
 加えてあの瞬間、あたしが攻撃できたなら敵を倒すチャンスだった。戦闘中、最大の。」
 口が勝手に動いている。その最中にも手当を続ける手が、生々しい背中の傷にピンセットを向ける手が揺
れている。亜美が痛みをこらえているからではない、レイの指が揺れていた。小刻みに、自分でも理解出来
ない何かで。揺らがないのは、声だけだ。
「だからあなたはあたしを庇って攻撃のチャンスを作った。
 そして狙い通りに敵を倒せた。
 それであなたは自分の行動が間違ってないって言ってるんでしょう。」
 脇腹にぎゅっと綿を押し付ける。
「あ・・・っ、いっ・・・。」
 カーペットを両手で掴んで亜美が背を丸めた。腕に籠った恐ろしい力に、皮膚の内側に白く筋が浮かぶ。
「こんな怪我をすること、わかっていて。」
 切れ切れの息の合間に、彼女は否定はしなかった。汗が首筋を伝う。消毒はこれで終わりだ、レイは使い
終わった綿をゴミ箱に投げ入れた。勢い余って一緒に放り込まれたピンセットがプラスチックの縁にぶつか
った。
「あたし、亜美ちゃんのそういうところ、大嫌い。
 だいっ嫌いよ!!」

 青が、翻った。

 短い髪が宙に広がり、目がこちらを見つめる。傷ついた青い目に、歪むレイの顔が映る。涙が薄く滲んだ
目。レイの右手は殆ど叩くように、彼女の頬を押して顔を背けさせる。
 あなたに、傷つく権利なんてない。
 自分が正しいと確信して、疑問すら抱かないあなたに。
 レイの手が細い亜美の裸体に回る。彼女の胸で交差した手で肩を掴んで、自分の内に彼女を抱き込める。
折ってしまえそうな体を。
「いっ・・・!」
 制服のリボンが傷口に引っかかるのがわかった。彼女が思わず反らした喉を掌で包み、顎を掴んで逃げる
体を強引に引き寄せる。空気も、この世の他の何も、間に入っては来れないように。
「血が・・・つくわ。離して。」
 いっそその染みた血で自分の肌まで灼いてくれればいい。流れるのが、自分の血であればもっと、よかっ
たのに。でもきっと、そんなことは起こらない。もしあなたに力があって、あたしにあなたの代わりが出来
れば、なんて、そんなこと、ありえないから。
「れ、いちゃん・・・。」
 目が熱い。込み上げて来るやわらかい感触が視界の縁を歪めた。レイは彼女の肩口に顔を埋める、その込
み上げる衝動を認めたくなくて。
 だって、
「レイちゃん。」
 あたしに泣く権利はない。
「もう二度と、こんなことしないで。」
 俯いた瞬間、熱い水滴が目から零れて、亜美の背を伝った。いくつかの軌跡が血に汚れた背を転がり落ち
る。泣く権利なんて、ないのに。
 あたし、あなたに恋をしているの。
 あなたの微笑みがあれば一日が幸福になって、手を繋げばやさしさに満たされて。あたしはあなたに、恋
を、しているの。けれど、選ぶのよ。その時がくれば何度だって。
 あの氷原と同じに。
「あたしにもう、選ばせないでよ。」
 ふ、と亜美から力が抜けた。でも決して、潔癖な彼女は頷きはしなかった。嘘に終わる約束を、彼女はし
ない。自分も彼女を頷かせることはできない。だって、本当はわかっているから。彼女の選択は正しかった
って。
 あたし達が何より大切に思うものを守るためなら、彼女の選択は正しかったって、思っている。
 だから、あたし達は何度だって、あの極寒の地に立ち戻るのだ。
 運命が巡る度、永劫に繰り返して。
 レイは鼻先を亜美の髪に埋めて、耳朶を舐め上げた。舌先にピアスの留め金が掠める、唾液の音を立て耳
たぶを齧る。亜美の唇から漏れるのは、押し付けたレイの体が傷口を無遠慮に掻き壊すための喘ぎだ。
「やっ、め、て・・・。」
 指先で胸に触れる。掌で押しつぶして弄んで、逃れようとする亜美を床に押さえつける。右手で肩を縫い
止めて、レイは身を起こした。血で傷に貼り付いた制服のリボンがわずかな手応えを残して剥がれる。服は
斑に血がついて、でもそれは決してレイの肌にまでは染みて来なかった。表面を少し汚しただけ。折角、我
慢して消毒したのに、と他人事のように思った。
 カーペットに頬を押し付けられた亜美の横顔が、頬に掛かる髪の合間からレイを見上げていた。せわしな
い呼気が背を上下させる。非難ではないけれど、その眼差しが何を言いたいのかわからない。ただ鼻筋を横
切って流れた涙の跡は、痛みのためだろうと思った。
「だいきらいよ、亜美ちゃんのことなんて。」
 自分の頬を伝った水の感触が、夜に冷えていくのを感じていた。
 唇を亜美の背に落とす。生臭い鉄の味がした。悲鳴が迸るのを聞きながら、背骨を走る傷口を舐める。
「いっ―――! あっ、や、痛い!」
 傷の持つ熱も痛みも憎くて、歯を立てて噛んだ。なんの遠慮も我慢も無くして痛みにのたうつ彼女の両腕
を、回した手で絡めとって抵抗を奪う。体重をかけて背を押さえつけて、悲鳴と脂汗しか許さない。
「やめて、レイちゃ・・・、やっ!」
 傷を噛む。血の味に口の中全て満たされても、亜美が憚らず泣いて請うても。
 この傷を自分が奪えたらいいのに。あの日、死を選んだのが自分で、それを認めて先に進んだのが彼女で
あればよかったのに。これから先もそうであればよかったのに。
「お願い! レイちゃん、やめ・・・て!」
 運命が巡る度に、あなたは大切な人のために身を捨て、
 あたしはあなたのその選択を受け入れる。
「レイちゃん!」
 この先、何度だって、永遠に。

 双眸から涙が溢れて、亜美の背に落ちる。

 あたしはあなたに、恋をしているの。
 微笑んでくれればうれしくて、手を繋げば満たされて、想えば涙が出そうな程に。あたしは、あなたが。
「好きよ、亜美ちゃん。」
 透明な涙が赤黒い血に紛れて、濁っていくのを視界の端に見た。

 死に至る、恋を、している。