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 木枯らしが耳元を過ぎてゆき、前を行くうさぎが肩を震わせた。マフラーで口元まで覆い、おだんごを心
無しかしょげさせて呻く。
「うぅ、さむい・・・。レイちゃんちに行くまでにしんじゃうよ。」
 そんな大げさな、とまことが笑ったとき、亜美がちらと振り仰いで来た。風に吹き散らされ、額が覗く。
「まこちゃん、こたつ出したのよね?」
 なんの気ない風に言った亜美の言葉の隣で、うさぎが目を輝かせて振り返った。乾いて舞う砂粒さえ光の
破片に変えてしまいそうな笑顔で、まことは思わず目を細めた。
「えぇー! いきたいいきたい!!
 ねぇーえ、まこちゃん! 今日はまこちゃんちでお勉強会にしよ? ねっ?」
 服の裾を掴んで背伸びをして鼻先を近づけて訴えるうさぎに、まことはダメという術など持っていない。
頬を掻きながら部屋がきれいであったかを頭の中で確認する。下した結論は、まあアウトとは言い切れない。
「いいけど、レイちゃんと美奈子ちゃんには、うさぎちゃんから電話してくれよ?」
「やったー! まこちゃんだーいすき!!」
 調子良く飛び跳ねて腰に抱きついて来たうさぎの背を、まことはぽんぽんと軽く叩く。亜美はさも微笑ま
しいといった眼差しで、まことに小首を傾げてみせた。してやられた、とその澄んだ額を見て思う。さっき
こたつについて口にしたときから、亜美はこれを狙っていたのだ。まことは亜美を見つめ返しながら、音に
はしないで形だけで、あまやかしすぎ、と怒ったフリをしてみせた。
 ほとんど残っていないなけなしのお小遣いの中から取り出した二十円とうさぎが、手帳を見ながら公衆電
話のボタンを押している。
「美奈、まだ家を出てないといいけど。」
 いいながら亜美がガードレールに片足を引っかけてよりかかるまことの隣に並んだ。白い息が膨らんでは、
車の掻き乱す風に呑まれて流れていく。色とりどりの車も看板も街路樹の枝振りも、冬の中では霞んで見え
るから不思議だ。
「ん、そうだね。」
 その寒色の世界に、オレンジ色の光を灯すこたつは確かに魅力的だよなぁ、とまことは他人事のように思
う。みんながうちに来てくれれば、一人暮らしの家はあたたかさに包まれるだろう。だけど、まことが持っ
ているのは正方形の小さなこたつだ。五人で入るには少し窮屈だ。勉強会というお題目の割に、おそらく勉
強はしにくい。特に並んで座らなければならない二人分は。
 順当に行けば、小柄なうさぎと亜美が並んで座るのがいいところだろう。一番ひんぱんに亜美に泣きつく
のもうさぎだから、二つの意味で合理的だ。
「こたつね。」
 寒さで赤くした耳を晒して、亜美は目の前のビルを振り仰いでいた。もしかしたら、晴れた空を見上げて
いるのかも知れない。
 恋をしあっている人。
 まことはカバンを握る手に、わずか力を込めた。出来るなら、自分が隣に座りたいと思う。不便さも、ま
だ仲間達に打ち明けていないことも、何もかも吹き飛ばして。傍にいられる時間を逃したくない、わずかな
距離だって。
 そしてそれは今、こっそり亜美に耳打ちするか、すんなり隣に座ってしまえば簡単に、できる。
 きっと亜美はいやがらない、と思う。うぬぼれかも、しれないけど。
「うちはこたつないから、少したのしみ。」
 亜美が上機嫌に唇を解いた。
 こたつで隣に座れるかどうか、気にしてるなんて変だろうか。頭の片隅で、冷静な自分が疑問を差し挟む。
でもきっとそれは、臆病な、自分だ。まことは息を吸い込んだ。
「ねぇ、亜美ちゃん。こたつなんだけどさ」
「電話オッケー!!
 二人とも来るってー!」
 うさぎが大きくピースサインを出しながら、電話ボックスから飛び出した。ぱっと振り返った亜美の背で、
セーラーカラーが翻るのを眺めて、まことは一つ苦笑した。

「こたつだー!!」
 リビングに飛び込んだうさぎが歓声をあげた。踊りだしそうな様子にまことと亜美は顔を見合わせて小さ
く笑う。外よりは幾分あたたかいけれど、日中ずっと留守にしていた部屋は冷えていた。
「うぅ、さむぅい。」
 うさぎはいそいそとこたつに両手両足を突っ込んでまるくなる。まことは手早くこたつのスイッチを入れ、
電気ストーブに火を灯すとキッチンへと立った。
「紅茶でいいかい? アールグレイしかないけど。」
「まこちゃん、私も手伝うわ。」
 うさぎの歓声に重なって、後ろをぺたぺたとついてくる亜美の足音がした。その気配がうれしくて、まこ
とはいつもそれを断れないでいる。お客さんだから座っててなんて言葉、どこかに消えてしまう。
「いつもありがとう。」
 代わりに紡いだその音で口元がにやけるのを見られたくなくて、まことはヤカンを戸棚から下ろす腕で顔
を隠した。
「いいの。そうしたいだけ、だから。」
 亜美はマグカップとティーポットを取り出して、お盆の上に並べた。ティーコゼーの場所だって、亜美は
もうわかっていてくれる。たぶん、自分の今の生活を、一番知ってくれている人。
 コンロを回す音がぱちんと響いた。
「あのさ、亜美ちゃん。」
 何気ない風に言ったつもりだった。
「どうかした?」
 上手く行ったかはわからないけど、亜美はいつもと同じ調子で応じた。他の二人も直ぐに来ることを予想
して、カップは五つ用意されている。横に添えられたシュガーポットの中身を、亜美は蓋をずらしてちらと
確認した。ティースプーンの銀色した曲面に、彼女の横顔が映っている。
「あのさ、うちのこたつ小さいだろ?
 だから、」
 まことは亜美の肩口を見つめた。セーラーカラーに少し伸びた襟足が掛かっている。
「勉強会、しにくくないかなぁ、ってちょっと心配でさ。」
 臆病者。
 まことはからっと笑って頭に手を当てながら、内心で自分を罵った。亜美は少し思案顔で背伸びして、リ
ビングのこたつを眺めた。そこではうさぎがストーブに一番近い場所でこたつに入って丸くなっている。残
りのこたつはあと三辺。
「たしかに五人いるから、窮屈になっちゃう人も出ちゃうけど。
 でも、大丈夫じゃないかしら。」
「亜美ちゃんがそういうなら、大丈夫かな。」
 唇に笑みを引いて、まことは亜美に頷き返した。亜美は少し自信がなさそうだったけれど、視線が触れ合
うと目を細めた。リビングの床に投げ出されたまことの学生鞄の留め具から、西日が反射して二人の間を吹
き抜けている。眩しい模様は食器棚に光の道を描いた。
 ヤカンがふつふつと音を立てる。
「沸いたね。」
 呟いてまことはコンロからヤカンを取り上げると、空のポットに半分程お湯を入れて火に戻した。亜美は
ポットに蓋を取り上げると、容器全体があたたまるように円を描いて二、三回揺らす。幾分ぬるくなったお
湯は三つのカップに全て注ぐ。
「カップそれぞれに一杯ずつ、ポットの分で一杯、だよ。
 覚えた?」
 茶葉の缶を開けながら、まことは少しだけいじわるく亜美を流し見た。あまり家で紅茶を飲まないという
亜美は、最初に手伝ってもらったとき、二人なのに四人分くらいの茶葉をポットにさらさらさらっと入れて
しまった。
「もう大丈夫よ。」
 む、と拗ねたように唇を尖らせてみせる亜美の仕草と眉間に寄った浅い皺に、まことは思わず破顔した。
ポットに茶葉を入れると、火を止めて百度のお湯を流し込む。赤味を帯びたアールグレイが透明な湯の中に
螺旋を描いて広がっていく。解けない輪は幾つも無限に溢れて、ゆたかな香りと深い味で、お湯を紅茶へと
染め上げていく。
「いこっか。」
 まことは紅茶を載せたお盆を手にすると、リビングへ亜美を促した。
「わー! ありがとうー!!」
 こたつでぐずぐずと丸まっていたうさぎが、ぴこんと顔を上げた。にこにこと眦をゆるめて、頬を明るく
染めるうさぎを見ると、多少のわがままも許せてしまうし、つい甘やかしてしまいたくなるのはきっとまこ
とだけではない。亜美だってきっとそう。
 テーブルの真ん中に紅茶のお盆を置くまことの視界の端で、亜美はまだ誰も座っていない右の一辺に腰を
下ろした。
 自分はうさぎの対面で、亜美は右側。一人一辺でこたつに座る。当然だよな、とまことはぼんやり思った。
まだ二人は来ていないうちに、並んで座る理由がない。まことは自分にわずか呆れながら、腰を下ろす。ま
ことの小指がこたつの天板に掠めた。

 こたつから光が迸った。
 それは窒息の錯覚を起こす程の光の洪水。
 うさぎと亜美の悲鳴すら押し流す怒濤の中で、まことは手で顔を覆った。わずか作り出した影の合間から、
光の渦の中心を眇見る。部屋を吹き飛ばす程の目映さの中、人影を見た。
 こたつがあった筈の場所に立ちはだかる異形。
 人を模してしかし、人には在らざる存在。燃えるような赤い肌は内側に炎を抱いているのか揺らめき、首
は天板ごと貫いてこたつを纏っている。口から響くのは、言葉ならざる鳴き声。素体としたものの名を、こ
たつを連呼して作り上げる一種の咆哮。
 亜美の呟きが、汗とともに滑り落ちた。
「ダイモーン。」
 立ち上がれない三人の真ん中で、異形の怪物は青い舌で唇を舐めた。

「うさぎちゃん!」
 亜美が床を蹴るのと、ダイモーンが動くのは同時だった。うさぎの前に飛び出した亜美へ、奇声と共にダ
イモーンがこたつ布団を翻す。天板の裏に隠された発熱体がオレンジの熱線を亜美へと放射した。
「ああぁっ!」
 炎上を錯覚させる灼熱が、噛み締めた奥歯を割って亜美から悲鳴を絞り出す。まことを刹那に憤りが貫い
た。
「この野郎!!」
 ダイモーンの膝裏目がけ、まことは右足を振り抜いた。感触は硬い、しかし、許せない負ける訳にはいか
ない、足の甲から頭まで貫く痛みを引き千切って足を蹴り抜く。ダイモーンは仰向けに回転し、重力によっ
て床へと倒された。
「うさぎちゃん、変身だ!」
 亜美の肩を抱いていたうさぎが、決然と顔を上げた。胸のブローチに手を掛け、その身を変える言葉を解
き放つ。
「ムーン・コズミック・パワー! メイクアップ!」
「うわあああっ!」
 まことの体が宙を掻いた。意志を離れて視界が巡り、床へと引きずり倒される。フローリングへ強かに顎
を打ち付けてまことは這いつくばった。足を何かが縛り上げている。「まこちゃん!」亜美の叫びが部屋を
射抜く。しかしダイモーンが伸ばしたコードが足を絡めとり、まことは立ち上がることが出来ない。取り落
とした変身ペンに手は届かない。
「コッターツ!!」
 身を起こしたダイモーンが勝鬨めいて吼える。額に刻まれた黒い星がまことを見据える。揺れるまことの
目がダイモーンを見上げた。
 ダイモーンは、まことのピュアな心を狙っている。亜美は手近の鞄をひったくった。変身するうさぎの放
つ光の帯を後ろに、ダイモーンへ向かって生身で駆ける。変身している暇などない。
「まこちゃんを、」
 振り返ったダイモーンが、再び灼熱の光を放った。亜美は咄嗟に鞄を盾に顔を庇う。それでも晒された手
足に燃える苦痛が走る。だが止まることはできない怯むことなどできない、歯を食いしばって亜美は熱波を
踏み越える。まことの前へ、まこととダイモーンの間へ、まことを背に立ちはだかる。
「放しなさい!」
 そして、参考書が詰まった重たい鞄を、思いっきり振りかぶった。

 額に光の感触がある。
 うさぎはゆっくりと息を解いた。降り注ぐようで、うちから溢れるようで、自分と常に共にある光の手触
り。月明かりを守護するティアラが現れ、髪にオーブの輝きが嵌る。指の先にまで漲るのは、一筋の決意だ。
セーラームーンは目蓋を押し上げた。
 大切な人を守るために。

 目の前を、吹き飛ばされる亜美の体が舞った。

 出来の悪い冗談みたいに、小石のようなぞんざいさで、亜美の体が壁へと吹き飛ばされる。投げ出された
足がソファの背に引っかかり、彼女の体はぐるっと回転して床に叩き付けられた。骨が木に当たる音と、服
が擦れる音と、肌が叩かれる音となんだろうか全てが綯い交ぜに一つの音になって、それっきり。ソファの
向こうにはもう、身じろぎの気配もない。
「亜美ちゃん!」
 ひっくり返った悲鳴がまことの喉を切り裂いた。しかし倒れたまま伸ばした腕はカーペットの端にすら手
が届かない、這ったままでは空気しか掴めない。住み慣れた広くもない自分の部屋の筈なのに、大切な人の
姿すら見えない。
「コターツッ!」
 その背中へ、ダイモーンの額の星から暴力が炸裂する。転がるまことの背を射抜き、不可視の腕がその心
臓を握り締めた。意識も鼓動も破壊し体のうちを押し潰す圧力に、息が一瞬詰まる。だが絶叫はその窒息を
ぶち抜いてまことの体から弾けた。
「ああああああああっ!!!」
 セーラームーンの頭から、音を立てて血の気が滑り落ちる。
「まこちゃん!!」
「ヴィーナス・ラブ・ミー・チェーン!」
 女神の鎖が戦場を貫いた。
 戦場に朗々と響くそれは一筋の旋律だ。黄金の輝きは扉の奥に蟠る薄闇から生まれ出で、異形の影を絡め
とる。後ろから強く引かれこたつダイモーンは仰け反り、まことを襲う黒い波動が天井に逸れた。
「バーニング・マンダラー!」
 炎の渦が扉から部屋へなだれ込んだ。白い壁を赤々と染め上げ、空気を熱風へと変化させダイモーンへ襲
いかかる。悲鳴すら許さずに悪意を飲み込み炎は爆ぜる。
 火のゆらめきの奥に、二つの人影が立っている。
「乙女の大事な放課後を踏みにじり、まこちゃんちをめちゃくちゃにするなんて許せない!
 このセーラーヴィーナスが、愛の天罰、落とさせていただきます!」
 流れる金色の髪が琥珀に燃え、澄んだ瞳に炎が滲む。セーラーヴィーナスが手を高々と振り上げて名乗り
を上げた。並び立つマーズは険しい眼差しで部屋を見渡す。未だ揺れる炎は部屋の中心にあり、奥にはセー
ラームーンが目の端に涙を浮かべて立っている。
「セーラームーン、二人は大丈夫なの!?」
 心が取り出される前に、マーズとヴィーナスの攻撃はあたった筈だ。外まで聞こえたまことの絶叫は止ま
った、だがいる筈の亜美の姿が見当たらない。
「まこちゃんは、」
 セーラームーンの眼差しに赤熱する火が映った。両目の表面で影が震える。まことを助け出さなければな
らない。今までの経験もある、この攻撃で倒せると思ってはいない。だが、見えない炎へと闇雲にセーラー
ムーンの力を振るわせるのは得策ではない。技を放つまでの間は無防備になるし、まことを盾にされる可能
性もある。
 マーズは腰を落とし、意識を研ぎ澄ました。この炎が途切れた時、再び戦場の時は動き出す。空気を食ら
う火炎という生き物は、天井を舐り三人の姿を緋色に煽る。滲み出た汗が肌に浮く。
 炎が膨れ上がった。
 塊となった焔が飛び散る。ヴィーナスは咄嗟にマーズを引き倒し床に身を伏せた。その頭上を熱がなぶり、
髪の幾本かが焼けて死ぬ。ヴィーナスの額を熱さのためだけではない汗が一筋伝い鼻筋を辿った。
 火は晴れた。部屋の中央はぽっかりと穴が空いている。静寂の最中で、炎熱を従えたダイモーンがまこと
を踏みつけに瞳を輝かせている。その唇が三日月に割れる。
「ヴィーナス・ウインクチェーンソード!」
 振り抜いた女神の手から伸びる鎖が、求めに応じて剣の姿を顕現させた。

 左頬が熱い。鼓動と同じに疼いて、じくじくと痛みにわめく。こじ開けた視界に見えたのは、ソファの裏
に落ちた埃だった。空気を吸い込んだ喉に何かが絡む。瞬いて焦点を合わせる薄暗い目の前、床に一滴の色
が落ちた。光沢を持った鈍い赤は水よりも平たく、鉄のような味がする。頬の内と舌が裂け、溢れた血液が
歯の隙間にすら染みて口の端から滴り落ちていた。血塗れの口内が気持ち悪くて吐き出したかったけど、家
の中ではできない。息を詰めて血餅を飲み込むと、なまぬるさと不快な匂いが喉を通った。
 それでも、こわくない、と思った。蹴られた頬が腫れている。けど、なぜか怖くなかった。ただ手が、起
き上がるために床についた右手が震えていた、その理由はわからない。それでもやるべきことがわかってい
る、やりたいことも。亜美は左手でポケットを探った。
 変身ペンが無かった。そこにある筈の、命の片割れと言っても良い筈の変身ペンがない。身を起こし亜美
は周囲を見渡した。だが、蹴り飛ばされた時に何処かに落としてしまったのだろう、手元には見当たらない。
この狭い室内に於ける混戦の最中、変身ペンを探すことができるだろうか。難しいと、冷静な声が返す。で
は生身で何かできるのか。難しいと、分析的な思考が返す。
 じゃあ、何も出来ずに見ているの?
 問いかけた時、まことの悲鳴が亜美を貫いた。亜美は震える右手を握り締めた。血が手の甲に落ちる。
「まこちゃんの心は、渡せないわ。」
 問い掛けに返す声は、音になった。

 耳に焼け付くまことの叫びを、亜美は意識の外に弾き出す。今の自分に残されているのはただ一つ、宿命
づけられた知性だけだ。
「ああああああああ!!」
 冷静さを貫かねばならない、必ず。例え苛烈なまことの絶叫に憤りが募ろうとも焦ろうとも、感情に浚わ
れてはならない。あのダイモーンに誰の攻撃がどれほど通るのか、明らかな弱点は存在するのか、皆の体力
はどれほど残っているのか、
「このっ!」
 ヴィーナスの声が走った。亜美は弾かれて顔を上げ、ソファの裏に座り込んだままベランダへ出る大きな
窓を仰いだ。ヴィーナスとダイモーンの影が冬に霞む窓ガラスの中で激突する。緋色の熱線と黄金の火花が
部屋の中央から飛び散り、壁や天井で跳ね回って目を焼いた。閃光は思わず翳した亜美の手をも貫き、網膜
に眩しさが焼き付いて視界がオレンジの洪水に呑み込まれる。
「ヴィーナスちゃん!!」
 劈く悲鳴と激しい衝撃が壁面から天井へ届き建物を震わせた。伝播して痛みは亜美まで聞こえ、残響の中
に鈍いヴィーナスの呻きが落ちる。幾つも接がれる途切れがちな喘ぎに、憤る炎が空気を一筋焼き切った。
「よくも!」
「ダメよ、マーズ。」
 通信機へ亜美は鋭く言い放った。回線の向こうから聞こえる美奈子の荒い息に、亜美は声が震えないよう
左膝を掴んだ。自分の浅慮がこの状況に皆を陥れた、わかっている。だからこそ、レイをも激情のままに動
かしてはならない。
「ヴィーナス、あなたはダイモーンをチェーンで拘束して。マーズはその援護を。
 その隙に、セーラームーンはムーン・ティアラ・アクションでコードを切って。」
 ぜあっ、と美奈子が咳とも嗚咽ともつかない鈍い呼吸をした。『でも、』レイが返答を濁し、うさぎの躊
躇いが続いた。きっとその目は美奈子を見ているのだろう、亜美が思うより怪我をしているのかもしれない。
だけど、二人のやさしい戸惑いに亜美は沈黙で答えた。
『マーキュリー・・・、マーズの攻撃はアイツには相性が悪いわ。
 コードも、今のままじゃとても狙えない。まこちゃんに当たる。』
 そして美奈子は喉に何かが絡む濁った声で答えた。亜美は口の内側を噛んだ。苦しい息を呑み込む間のう
ちに、続く言葉が亜美には見える。美奈子が普段の笑顔の奥に隠し持っているものを知っているから。
『でも、あたしは動けるわ。』
 せわしない呼吸を零しながらそれでも答えてくれる、そんな美奈子が嬉しくて、辛かった。
「その穴は私が埋めるわ。
 みんな、お願い。」
 亜美は膝を立て腰を浮かせた。関節が曲がるのと逆方向に力を受けた膝は熱を持って鈍く痛んでいる。だ
が既に心は決まっている。自分はまことを救い出す。それさえ出来るなら、どんな怪我をしたって構わない。
仲間を、まことを失うこと以外に痛みなど何も無い。その前にこわいことなど何一つ存在しない。
 金色の光が走った。
「ヴィーナス・ラブ・ミー・チェーン!」
 セーラーヴィーナスが光の鎖を解き放ち、ソファの影から戦場へ亜美は躍り出た。「亜美ちゃん!?」セ
ーラームーンの驚愕が亜美を襲い、セーラーマーズが張り上げる炎の咆哮はダイモーンを撃った、亜美の足
はソファの座面を捉える。鎖に縛られ天井すら舐める炎に巻かれ、ダイモーンは尚も戦場の中心に君臨して
いる。その額からは黒い波動が放たれ続け、まことを踏みつけにその心をむしり取る。まことは床に這いつ
くばったままもはや腕すらコードに絡めとられ、喉を劈く絶叫すら嗄れようとしている。蒼白なまことの顔
を見た。
「まこちゃん!」
 叫んだ亜美の口から血の破片が飛んだ。
 まことの心は渡せない、何があったって、何をしたって。うさぎの背を撫でる笑みも、キッチンで肩を並
べる時間も、何一つ失えない。
 カーペットの端に落ちるまことの変身ペンを亜美は拾い上げた。ダイモーンへはあと二歩、床を踏みしめ
る亜美の足は止まらない。まことの元へ、まことの前へ、体は走る。自分が今、何をしようとしているかわ
かっている。これは無謀ではなく果断なる術計だと感情は勝手に思い込んでこわくなくって、うまくいく筈
だと馬鹿な頭が思っている。
「まこちゃん・・・っ!」
 だって、あなたをなくすより怖くなんて、ないから。

 亜美は最後の一歩を踏み込んだ。
 ダイモーンとまことの間へ、その胸を抉る黒い星の暴力を、自らの身で受け止めるために。
「亜美ちゃん!」

 全身殴り飛ばされたような衝撃で視界が真っ黒に吹き飛ばされた。赤熱した金属が胸の中心を突き通す燃
える痛みの形がわかって、歯を食いしばって目蓋を押し上げる。だいじょうぶ、大丈夫立っている、自分は
まだ立ちはだかっている。もう耳も聞こえない煩いのか静かなのかもわからない全ての器官が真っ黒になっ
てただあるのは床を踏む感触だけだ。でもまだ目は開ける手は動かせる。
「ファイアー・ソウル・バード!」
 力ある言葉が茫洋と遠くから響き暗闇に灯りが差した。歪に持ち上げた目蓋の隙間からようやく胸元に翳
した掌がわずか見える、そこには悪意の黒色は零れていない。それら全て、狙い通りに自分の体が吸い込ん
でいる、まことには当たっていない。亜美はまことの足を縛り上げるコードに手を掛けた。手探りでビニル
コードの感触を掴んで脹脛との間に指をねじ込んで、まことの爪先の方へただ力を込めて引っ張った。だが
ダイモーンの意志が通ったコードはまことの足との間にねじ込んだ亜美の指ごと締め上げる。
「クレッセント・ビーム!」
 金色が闇を射抜き、コードの力が緩んだ。亜美は指に引っかかる線を渾身の力で引き剥がした。喉が意志
を離れて叫ぶ。
「セーラームーン!」
 亜美が振り抜いた腕の長さだけ、コードがまことからも亜美からも離れて宙に舞う。セーラームーンはあ
わてふためきそうな泣き虫うさぎを奮い立たせ息を引き絞る。皆が全てを費やして作り出したこの隙を、逃
す訳にはいかない。意志に応じてティアラは光の円盤に変化する。
「ムーン・ティアラ・アクション!」
 月の雫で描かれた軌跡が振り上げたコードを断ち切る。その光の帯を最後、亜美は見た。もう目の前には
色さえ無かった。握っていたまことの変身ペンと共に、全てが滑り落ちていく。
「セーラームーン、二人を!」
 両腕にチェーンを硬く巻き付けて、ヴィーナスが震える息で叫んだ。額を汗に濡らしながら、全ての力で
ダイモーンを押さえている彼女の限界が見える。マーズが彼女を援護しようと踏み出した時、ダイモーンが
動いた。
 ダイモーンが上体を捻り、身を縛るチェーンを引っ張った。「あっ」ヴィーナスの体が宙に浮いて弧を描
く。受け身も取れずに壁に肉薄するヴィーナスの前に、マーズが体を滑り込ませた。衝撃は二人を呑み込み
悲鳴と体が砕けて混ざる。こたつダイモーンを縛っていた鎖が金色の粒となって溶け消えた。こたつ布団が
翻り、悪意ある電熱線が

 赤い。
 それは、繰り返す終わりにいつも見た色。過去も今をも越えて未来さえ貫く色だ。吹き出した血の色だっ
たし、閉じた目蓋を最期に貫いた陽光の色だった。まことは赤に霞んだ目を、ゆっくりと瞬いた。
「あ、み・・・ちゃ・・。」
 唇から落ちた名の意味する所がわからない。何故か嗄れている喉で、なぜだか記憶も朧になっている頭で、
歪んだ目に映るものを捉える。血液のように赤く、血のように熱い光が、一つの影を縁取っている。その影
の顔立ちと体つきを知っている。でもその色と表情が記憶と一致しない。彼女はパステル色だった、木漏れ
日を零して笑い、そよ風のようにやさしく指先は自分の手を浚った。
「まこ、ちゃん。」
 赤色で、力なく唇を動かす、こんな人形のような人じゃなかった。
「あみちゃん。」
 不思議なひらがながまことの唇から紡がれる。頭上へ、彼女へ伸ばした手を、しかし彼女は繋いでくれな
かった。その頬は手の傍を通り過ぎ、体がまことの上に落ちて来る。重く、力の無い体がまことの両腕に納
まり胸の上に乗る。華奢で、力強く抱きしめれば折ってしまえそうな体。頬に触れた髪から、知っている香
りがする。そう、この人を知っている。この人は、
「亜美ちゃん。」
 まことは揺れる目を見開いた。


 それは空が割れる音だった。

 雷光が天地を貫いた。閃光は真っ白に世界を消し去り、残響は存在を揺さぶる。ダイモーンは壁際に吹き
飛ばされ、戦場の中心を譲っていた。マーズはヴィーナスを横たえて身を起こし、膝をついていたセーラー
ムーンはゆっくりと顔を上げた。輝きの前に翳していた手を、静かに下ろす。
「シビれるくらい、後悔させるよ。」
 緑色したセーラーカラーが彼女が纏う力に煽られ翻る。ショートブーツから伸びる長い足は意志を持って
床を捉え、ピンク色した腰のリボンは華やかに広がっている。栗色の髪がわずか掛かる耳にはバラのピアス
が一つ光っていた。
「ジュピター!」
 その両腕で亜美を抱き上げて、セーラージュピターが立っていた。
 セーラームーンが頬を輝かせる。ジュピターは肩越しに振り返り、小さく笑い掛けた。
「行くよ、セーラームーン。」
「うん!」
 ジュピターは亜美をソファにそっと横たえると、セーラームーンと並び立った。コードを切られ、こたつ
布団と天板にいくらか傷を負ったダイモーンへ、セーラームーンは朗々と言い放つ。
「いろいろやってくれちゃったけど、ここいらが年貢の納め時よ!
 このセーラームーンが、月にかわっておしおきよ!」
「コターツッ!」
 ダイモーンが再びこたつ布団を翻す。保護の戦士セーラージュピターはセーラームーンの前に出た。穏や
かな眼差しが鋭く細められ、合わせた掌の間で電撃が炸裂する。迸る雷光がジュピターの頬を仄白く照らし、
放電の衝撃は甲高い音となって耳を劈いた。雷はその掌中で塊となる。
「スパークリング・ワイド・プレッシャー!!」
 迸る赤い熱線を真っ白い雷光が貫いた。激しい雷光が獲物を食らって熱く輝く。こたつダイモーンは悲鳴
を上げて真っ黒に焦げた。ジュピターはセーラームーンを呼ぶ。
「今だ、セーラームーン!」
 ジュピターの呼び声をセーラームーンは待っていた。スティックを手にした横顔が澄んでいく。大切な人
を守るための勇気が指の先まで満ちて来る。
「ムーン・スパイラル・ハートエイク!」
 淡い光がダイモーンを撃ち、部屋を、皆を包んだ。




「まこちゃん亜美ちゃん、よかったよぉおおおー!」
「よしよし。」
 びゃんびゃん泣くうさぎに抱きつかれてどれくらいだろう、疲れてきたまことは片手を後ろについてうさ
ぎの背をとんとんと軽く撫でていた。ダイモーンの卵を追い出したらこたつは元通り、部屋もうまいこと元
通りになってくれてよかったけれど、茶葉が浸かり過ぎて飲めなくなった紅茶と各々の怪我は治らない。
「あー、これは腫れちゃうわね。」
 しばらく顔に当てていた氷水のビニル袋を外させて、レイは亜美の顔を覗き込んだ。最初に蹴り飛ばされ
た時の衝撃は内出血になって、左目の辺りまで赤くなっていた。冷やしたら痛みが治まったという膝は問題
なさそうだけど、顔は直に青紫に腫れてしまうだろう。明るい色の目が頬に添えたレイの手の傍で瞬きをす
る。
「ホント無茶するんだから。
 あんまり心配させないで欲しいものね。」
 こたつにごろんと横になった美奈子が背中を向けたまま言った。まこと手作りの座布団を二つ折りの枕に
し、部屋の隅に転がっていた亜美の変身ペンを器用に回している。尊大な顔をしている頭のリボンをソファ
の上から見下ろして、レイは鼻を鳴らした。
「アンタもでしょ、バカ。」
 変身ペンの金色がちらと光を弾いた。「美奈子ちゃぁん。」とうさぎがずるずる後ろに伸びる涙声で呼べ
ば、美奈子はひらひらと軽薄そうに手を振った。
「ぜーんぜんあたしは元気よ。
 だって、お勉強会なしになったんだもーん!」
 にやっと笑って起き上がった美奈子の前髪が機嫌良く跳ねた。泣きべそをかいていたうさぎがぱあっと瞳
を輝かせる。
「おおっ! そうなの!?」
「美奈、何言ってるの。」
 亜美はむっと唇を結んで、喜色満面のうさぎと美奈子をちらと眇め見た。「えぇ〜だってー。」と間延び
する返事をしながら美奈子はこたつの天板に顎を乗せたまま、ソファに腰掛ける亜美を足先から頭のてっぺ
んまで眺める。膝、右手、左頬と順繰りに視線が辿れば亜美は何か気付いたように眉を寄せた。美奈子の眉
は悪戯っぽく弧を象った。
「そーんな怪我で勉強しても頭に入って来ないでしょ?
 痛くて気になりますってカオしてるわ。」
 でも、と動かすと頬の裏側と舌を抉った傷が熱を持って騒ぎ、亜美は鼻梁に皺を微か寄せた。顔の左半分
が鼓動に合わせて膨れるようでじくじくと痛む。その顎を、横から伸びて来たレイの手が掴んだ。やわらか
な強制は亜美の顔をレイの方へと導き、目の前に丁度よく切られた湿布を突きつける。呆れ顔のレイと視線
が合った。
「あたしも、休んだ方が良い時もあると思うわ。」
 セロハンから湿布を剥がす仕草のうちに、レイが音なく彼女の名前を形作った。目を伏せると、湿布を持
ったレイの手が頬に触れる。ソファの上に置かれたセロハンがくしゃくしゃに光を飲み込んでいるのを亜美
の瞳は吸い込めば、目蓋は自然と降りた。頬とこめかみに貼られる冷たい感触を意識の中で探りながら、亜
美はなるべく明るく、呆れた振りをして彼女に応じた。
「もう、美奈ったら。今日だけよ。」
『やったー!』
 美奈子とうさぎが歓声を重ねた。勢いよく抱きつき直してきたうさぎに、まことはバランスを崩してカー
ペットに転がった。上下逆さまになった視界で空になった床を見上げると、埃がうっすらとフローリングの
上に散っていた。
「はい、終わり。
 まこちゃん、救急箱どこに片付ければいい?」
 レイに問われ、まことは「ああ。」と頷いた。上にへばりついているうさぎを高い高いの要領で剥がし横
に置くと、救急箱をレイから受け取った。
「いいよ、あたしが片付けるから。
 ついでに紅茶いれなおしてくるから、手伝ってくれる?」
「ええ、もちろん。」
 立ち上がったレイの隣で、亜美があっ、と小さな声を漏らした。まことは微かに眉を寄せ、口元を笑みの
形にする。腫れた頬に貼られた湿布が、窓から注ぐ冬の日差しに白々と鮮明だった。
「だーめ、亜美ちゃんはお留守番。
 こたつにでも入っててよ。」
 しゅんと拗ねた犬のように不満げな亜美がおかしくて、まことは小さく笑った。救急箱を片付けがてら、
レイと一緒にキッチンへ向かう。一歩ずつ遠ざかるたび、残して来た三人の声がわずかずつ遠くなる。キッ
チンに置いた収納棚の一番下、雑貨置き場に救急箱を押し込むとき膝が床に硬く当たった。その鈍い音は、
二人の間にだけ響いた。対面式のキッチンで、同じ空気で亜美と、うさぎと、美奈子と繋がっているのに、
三人を包んでいる日差しだってカウンターを通して吹き込んでいるのに。
 レイの黒い目と、目を合わせれば、なぜか、静かだった。
 レイが、凪いだ夜の湖面みたいな目で、まことを見つめているからかも知れない。
「茶葉、どこ?」
 まるで決闘に望むかのような、潔い声音だった。長い黒髪が腰の辺りで揺れるのを、まことは跪いたまま
見上げた。
「左から三番目の引き出し。銀色の缶だよ。」
 そ、とレイは手短に答えて引き出しを開いた。一滴もカップに注がれること無く出がらしとなった茶葉と
紅茶を三角コーナーに空け、レイは馴れた様子でティーポットを洗う。まことは腰をあげることなく、ぺた
りとフローリングに座り込んでいた。キッチンカウンターの向こうから、美奈子とうさぎがふざける声が放
物線を描き飛んで来ては床に転がった。
「大丈夫だと思うわ。
 まぁ、美奈はあとで、手足縛ってでも病院につれていくけど。」
 バカだからやせ我慢しか知らないのよ、レイの声に洗剤を流す水飛沫が重なった。まことは、うん、と小
さく頷いて、戸棚に背を預けた。引き出しの丸い取っ手が腰に当たって痛くて、でもその居心地の悪さもな
んだってよかった。前髪が、右手の中で潰れた。
「ほんとう・・・どうしようかと、おもった。」
 長いため息を吐くと、体がゆっくりと崩れていく。床に意識と共に流れ出していって、手の裏で視界は微
かな暗闇に染まった。
 全部、失ってしまうかと思った。ずっと遠い未来とか、来年とか来週とか明日とかでもなくて、今を、す
べて失ってしまうかと、思った。今、目の前に、隣にいるというただそれだけのことすら、なくしてしまう
かと思った。あの赤い色のうちに。
「亜美ちゃんが、しんじゃうかと・・・おもった。」
 絞り出した声にレイが、やめてよ、と小さく返した。それは、微かに震えていた。
 ただずっと、ただひたすらに、隣にいたいと思っていた。30世紀なんて遠過ぎて見えなくても、毎日懸
命に生きていれば辿り着ける平穏があると信じていた。死によって別れた記憶が一度ならずあるくせに、バ
カみたいに信じていた。
 なくす怖さも、自分の無力さも忘れて。
「あたし、もっとみんなを・・・守れるようになりたい。」
 抱えた膝に顔を埋めたままで、声はくぐもった。
 茶葉をポットに入れる音がぱらぱらと降る。熱湯が茶葉に注がれ、カップの不要なお湯はシンクに流され
る。お盆にカップを並べる音が五回した。
「あたしもよ。」
 そして、レイがまことを振り返った。
 眉間に皺を寄せた厳しい相貌で、下ろされた右手が握り締められている。薄らとその内には、白い筋が浮
かび上がっていた。
「行きましょ、うさぎと美奈がうるさいわ。」
 それでもふっと笑ってみせたレイの頬を、二人の声が撫でた。肩を滑り落ちる黒髪を視線の縁で追い、ま
ことは短く頷いて腰を上げた。なんとなく重かったけれど、足はしっかりと床を踏みしめる。
「すっかりレイちゃんにやらせちゃったね。ありがと。」
 軽く肩を揺らすと、レイは「じゃ、まこちゃん持って来てね。」と上機嫌に応じた。白地に深い緑で蔦の
模様が描かれたお盆を取り上げると、まことは紅茶を零さないよう慎重に皆の元へ戻って行く。充分温めら
れてうっすらと湯気の立ち上る空のカップが5つ、冬の冷えが少し残る空気の中で触れ合う。
「待ってましたー!」
「ありがとー!」
 うさぎと美奈子が四つ角のうち二つに座って身を乗り出した。
「はいはい、おまたせー。」
 小さな正方形のこたつの中心にまことがお盆を置くと、レイがソファの前の一辺に座った。まことはお盆
を持って来た格好のまま、キッチンに一番近い最後の一辺に腰を下ろす。そうして、まだソファに身を預け
ている亜美を振り返る。声をかける前にこちらに向いた亜美と視線が絡んだ。パステル色した彼女の肩口で
髪が流れる。
「亜美ちゃん、こっちおいでよ。」
 やわらかな亜美の頬が、花がほころぶようにそっと、あわく微笑みにそまった。不思議と胸の奥がぎゅっ
と痛くて、まことは不器用に笑う。くしゃっと細めた目にかかる睫が、こたつの天板で反射する陽光と絡み
眩しい。
「ええ。」
 亜美が歩いてこちらに来る。たった三歩を待つ間が長くて、でも終わって欲しくなかった。少し端に詰め
たまことの隣へ、小さなこたつで一番窮屈なまことの隣へ、亜美が入って来る。こたつ布団を捲って、折り
曲げた膝をあたたかいオレンジ色に包む。
 肩が触れ合う、窮屈なこたつの隣。
「そうそうそれでね、まもちゃんったらさー!」
「はいはい、まもるさんがかっこよくってよかったわねー。」
「もう、美奈子ちゃんってばぁ! 聞いてよぉ〜!」
 うさぎと美奈子が騒々しく話すのを、レイが紅茶に口を付けながらぼんやりと眺めている。レイと同じく
途中参加のまことも話の流れがわからなくて、ちらと紅茶に手を伸ばす亜美を見た。亜美は珍しく背中を丸
めて座り、両手の平でマグカップを挟んでいる。熱いのかセーラーの袖口で手を半ばまで覆っていた。
 立ち上る湯気越しに、亜美がまことを上目遣いに見た。
「まこちゃん。」
 体があったまったのか、湿布に覆われていない右頬に熱が滲んでいる。晒された左の目蓋も少し腫れぼっ
たくていつもより少し目が細くて、痛くない痛みがまことにはもどかしかった。けれど、亜美は紅茶の香気
と同じに頬を解く。
「ありがとう。」
 え、と首を傾げるまことには答えないで、亜美は手を伸ばして自分のカップをテーブルの中央に寄せた。
まことに見せる横顔は何故か少し真剣味を帯びていた。水晶に宿るものを素直に描いたらきっと、今の亜美
の横顔になるだろう。なめらかな鼻筋を亜美は微かに俯けた。
 そして、ころんと、亜美の体がまことに寄りかかる。
 頭をまことの肩に預けて、亜美は穏やかな呼吸を繰り返す。飛び跳ねたまことの心臓と急な息を呑んだ肺
が、腕に肩に触れるぬくもりを伝え、亜美の匂いでまことの内を浚った。うさぎと美奈子はやかましく話し
続けている筈なのに、何故かそれすら遠く感じる程、鼓動が煩い。視界の端でレイが頬杖をついて向きを変
え、うさぎと美奈子の輪に加わった。
「わがまま・・・、きいてくれてありがとう。」
 囁くような亜美の声は、耳をそばだてないと聞こえない。振り返れば亜美のショートヘアだけ見えて、ま
ことは手の指を折り曲げた。
「ほんとうは、ね。私が、まこちゃんの家に来たかったの。
 それで・・・・、それでね。」
 言葉を飲み込むと、亜美の手がこたつ布団の中でまことの左手を握った。ゆるく握っていた指を両手で解
かれて、亜美の細い指が絡められる。華奢な手だ。この手で、亜美は全てを懸けて自分の前に立ちはだかっ
てくれた。さっきは求めても握れなかった手。
 まことはぎゅっと、亜美の手を握り返した。
「うん、あたしも、」
 こたつで隣に座りたいと思った。
 それはささいなことなんかじゃない、例えようもなく大切な今の形だ。でも、もうそれだけじゃ足りない。
もっとずっと傍にいたい、もっとずっと傍にいられるようにしたい。今も、未来までずっと、隣に居たい。
ずっと隣にいられる、そんな自分になりたい。
 さっきまで君に恋をしていたけど、

「あたしも、亜美ちゃんといっしょ。」
 まことは亜美の手を握り締めながらそっと、触れ合う肩のぬくもりを想う。

 これを、いつまでも続く愛にしていきたいと、今、思っている。