腕で水を掻き、足で水面を切り裂いて爆音の中を突き進む。頭から体から全てを流し去るために。水流で
何もかもが後ろに消えてしまうように。息継ぎすら煩わしくて余分なものを胸に入れてしまうようで、頭に
熱がこもるまで顔を空気中へ背けない。酸素が足りなくなって意識が指先から消えて、心臓を激しく鳴らし
ながらそれでも泳ぐことをやめられない。どうしたって、自分の放った言葉が消えることはないとわかって
いるのに。どうしてこんなに愚かなのだろう。
 あれはただの嫉妬だった、今ならはっきりわかっている。学校が違って毎日は会えないことを、本当は自
分の方が気にしていることを思い知ってしまった。いや、それだって嘘だ。きっと、私は。
 ゴーグル越しの視界にプールの壁が迫る。亜美は体を素早く丸めると、上体を捻って方向転換をする。ク
イックターンの間には天井も水面も見えない。気泡と水底だけ見て壁を蹴る。
 泣きたい気もしたけど、ゴーグルが曇るだけだった。わかっているからただ泳ぎ続ける。火曜日の夜、会
員制のプールに人は来ない。なら何も見えなくなってもいいから、ゴーグルを外して泳げばよかったかもし
れない。もし自分がプールに涙を零したとしてそれを掬い上げられる人はいないし、目が赤くなっても塩素
かそうでないかなんてわかる人はいないだろう。
 手が激しく、プールに浮くブイに当たった。肘にまで伝わる衝撃に指が痺れ痛みに思わず立ち上がり、亜
美は胸から上を空気に晒して肩で大きく息を吐いた。ぼたぼたと顔から帽子から水がしたたり落ちる。帽子
とゴーグルを外し、亜美は濡れた前髪を握り締めた。
「バカね。」
 揺れる水に白々とした明かりが落ちている。飛び込み台まである大きなプールは音が茫洋と広がっていっ
て、耳元には返ってこない。他に誰も泳ぐ音もない、誰もいない。大きく開いた口元を掠めて、鼻にくる匂
いがある水がプールへと戻っていく。いくつも波紋を作るのに、それらは重なり合って打ち消しあい、乱雑
な模様を描いた。それらが同心円で出来ていることを、側頭部に残された冷静さが知っている。
 この嫉妬の形が、本当は何なのか知っている。ただ、認めることができなかった。胸の中ですら言葉にで
きない。認めてしまったら、もう、これ以上彼女を好きだと言う権利すら失ってしまう気がする。あんなに、
まるで導のようにまぶしく笑う人なのに、それがどこから生まれてくるものなのかだってわかっていたつも
りなのに。それは自分が嫉妬すべきものではないのに、自分は。
 亜美は頭を振ると顔を上げた。毛先に溜まった水滴が弾け頬を新たに濡らした。プールのちょうど真ん中
で、亜美は酸欠に喘いだ心臓がまだうるさく騒いでいるのを聞いていた。もう半分、泳いでいく気力はどこ
にもなかった。足も腕も鉛の重さをしている。そろそろプールも閉まる頃合いだろう、時刻が知りたくて亜
美は飛び込み台の方にある時計を仰いだ。
「え。」
 額に張り付いた髪の一束から、水が一筋、眉間を通って流れた。水の涼やかさを想起させる白と青で整え
られた施設の中、飛び込み台の真下に違うまばゆい色が一つ輝いている。水平線に上がる一つ星のように彼
女は煌々と輝いて、亜美の瞳を射抜いた。遠くて表情もわからない。ただ珍しく羽織っているパーカーが妙
に印象的だった。
 自分は目が悪くて、彼女の眼が見えない。でも、視線があっていると確信している、なぜか。
「美奈。」
 澄んで、誰よりまっすぐな眼差しが、自分を見つめている。手招きもしてくれなくて、ただ後ろで手を組
んで裸足でタイルを踏んで立ったまま、美奈子が亜美を見つめていた。
 今何時だと思っているの、どうしてここにいるの、どうして来てくれたの。一度にいくつも疑問が背筋を
流れ落ちて、最後に合わせる顔なんて見つからないと日曜日に別れてからずっと考えていたことを思い出し
た。そしてそれを、今、一瞬でも忘れていたことに気付いた。合わせる顔なんてないと思っていたのに、亜
美は気づけば水に潜ってブイをくぐっていた。飛び込み台と25メートルレーンの境を超えて、美奈子の方
へ水を掻く。水面に顔を出したまま、まつ毛に乗った水の粒が目に染みて痛むのも構わないで、まとわりつ
く水の中を走る。飛び込み台は亜美の視界の中で次第に大きくなり、美奈子のことが少しずつ見えてくる。
温水プールの湿気のためか前髪が左寄りで分かれていて、その顔は近づいてくる亜美を追ってわずかずつ角
度を変える。プールは近づくほどに深くなり、顎まで水に浸かって亜美はとうとう泳ぎ始めた。自分の背丈
の何倍も深い水を掻き分けて、美奈子へともがく。荒い呼吸が水面で跳ねて自分にだけ大きく聞こえた。
 プールサイドまであと1メートル。
 亜美は水に浮かんで、美奈子を見上げた。
「美奈。」
 名前を口にした声が、わずか震えていた。
 美奈子は口を引き結んだまま、亜美と目を合わせた。眉にも頬にも、いつだって喜怒哀楽を漲らせていた
面差しが今は白い。怒ってもいない、悲しんでもいない。でも、許してくれているようにも見えなかった。
どれか一つでも見せてくれればいいのに、彼女は何もくれない。全て飲み込んでしまって。
「美奈。」
 水に浸かっているのに、喉は不思議と乾いていた。舌はなめらかに動かない。言わなければならないこと
がいくつもあって、でもそれらの何一つ言葉にならない。泳ぐうちに捨ててきてしまったからだろうか、現
実逃避めいてそう思う。捨ててしまったのなら新たに作らなければならないのに。
「ずいぶん、おそくまで泳いでいるのね。」
 瞬きを美奈子が一つ落とした。震える睫毛の先、伏せた眼差しにわけがわからないまま、亜美は息を飲み
込んだ。もう泣いてはいけない。美奈子が居るから、泣いたらわかってしまう。
 彼女は言葉を降らせる。
「ごめんなさい。
 あたし、あなたがそんなに・・・そう、思ってるなんて気づかなかった。」
 涙を落とせば、美奈子にはわかってしまう。謝らなければならないのは自分の方だとわかっているのに、
だから、卑怯でも黙っているよりほかなかった。飲み込んだ涙が喉にきっと絡んでしまうから。
「たぶんあたし、これからもそんなにちゃんと、わかってあげられないんじゃないかって、思うの。
 そういう、のなかったから。」
 水が跳ねる音がした、美奈子の足元から。外はもう夜だ。白熱灯が天井から強く照らすのに、拭いきれな
い夜闇の気配が背後から忍び寄ってきて、体を浚っていく。この居た堪れなさをなんと言うのだろう。美奈
子の視線が足元を通り、水面を過ぎる。唇を引き結び、そうして、もう一度亜美を見つめた。
「でもこのままじゃ、寂しいわ。」
 微笑んで、美奈子はそう言った。
「さみしい。」
 変な言葉ね、と目を細めて、笑ってみせてくれる。ただ漠然と水に浮かぶ自分に、笑みを映してくれる。
「美奈・・・。」
 私、あなたにわかって欲しかったわけではないの。わかって欲しいから、わかってくれるから、あなたに
いて欲しかったのではないの。
「ごめんなさい。
 わがままを、言ったわ。」
 肺から出た空気が音を作る。それがこんなにも重たい行為だと、今、改めて思い知った。認められない恐
ろしい嫉妬の形はまだ胸の中にあって、心臓がこんなにもうるさいのはきっとそのためだ。
「あなたも、たまにはわがまま言えるのね。」
 美奈子は困ったように、呆れたように眉根を寄せた。快いものだけが、彼女の心中を占めているわけでは
ない。それでも、彼女は手を伸ばしてくれる。
「もうプールはおしまいだって。
 帰りましょう。」
 プールの縁に膝をつき、美奈子が亜美へ手を差し伸べる。水面の光がそのほっそりとした手に反射してい
る。
「あと10分あるわ。」
 亜美は美奈子の手を握った。美奈子の手はあたたかくて、確かな力で握り返してくれた。着衣水泳の授業
で教わったから、簡単にできることはわかっていた。美奈子の姿勢は少し浅かったから。
 亜美は美奈子の手を強く引っ張った。
「え!?」
 運動神経抜群の美奈子がまるで自分の意志で体を操れずに、空中にぱっと飛び出すのを亜美はわずか一秒
にも満たない間だけ、意外な気持ちで眺めた。目を丸く見開いて美奈子が亜美に迫る。
 水飛沫を高く上げて、美奈子は頭っからプールに突っ込んだ。
「ちょっと何するのよ!!」
 バタバタとあわてて水面に顔を出した美奈子が亜美の肩にしがみつく。リボンも解けて髪を頬に張り付か
せて、ぼたぼたと顎から水をしたたらせて怒鳴る。まだ空気を中にためているパーカーが浮き上がり、胸の
あたりで溜まっていた。
「あと10分あるから。」
 亜美は美奈子の背に腕を回した。首筋に頬を寄せて水面に視線を落とす。沈まないように少し体を横たえ
て力を抜くと、美奈子はそれに従った。濡れた長い髪が亜美の視界を一筋過る。
「私、わがままね。
 あなたはあなたで、そこにいてくれれば良いって思ってたのに。」
 美奈子が胸を膨らませて大きな息を吐いた。「そう。」と、胸元に彼女の返事が滑る。不格好な言葉が亜
美の頭の中にいくつか浮かんで、でもあまりに醜くて音にはできなかった。だからただ、耳に唇を寄せた。
卑怯だけれど、勝手にそれで伝わると思いこんでいる。唇から伝わる微かな感触で。
「少しだけ、泳ぎましょう。」
 亜美はそう言って、美奈子の手を引いて水に潜った。飛び込み用のプールは水底まで背丈の二、三倍もあ
って、わずか暗さを覚える程に深く、自由だった。広い水の中、ゴーグルをしていないから視界は滲んでい
る。それでも、見上げた水面の光の中から、美奈子がこちらに向かって泳いでくる笑顔がはっきりと見える。
 後でプールの管理人にも、美奈子にも、ばれたら母にも怒られるだろうから、少し怖いけれど。
 水底で亜美が両手を広げる。美奈子は長い髪に水面の光を湛えて、自分の胸に泳いで来てくれる。その誰
よりまばゆい笑顔が今は何よりうれしかった。