地平線まで続く岩石の平原は仄白く燐光を反射し、頬には冷たさが照り映える。彼方に千億の星が散らば
る真っ黒な宇宙空間に包まれ、見下ろした掌に落ちる陰影は淡い。まだ太陽は地平線の上に浮いているとい
うのに、すべてがもうまどろみに沈んでいるようだった。
 太陽から1億4960万キロメートル。月面から見るその光源は、水星の頭上に浮かぶものと比べてあまりに
小さい。大気さえ焼き切られ失ったあの燃える程に熱く、夜には凍てついて寒い星と比べては。
 ここは優しい場所だ。
 すべての星が見守るように、すべての星を見守るように、この月は銀河に輝いている。
 頭上を、マーキュリーは振り仰いだ。黒々とした天球に、青く海を湛え雲に包まれる星がある。穿たれた
ような宇宙の闇に半円の形で明るく、草花の香りと潮騒と風をその身に宿した生命豊かな星。あそこには夕
焼けがあるという。光に満ちた青と白の昼と暗い夜の際、緋色に空を燃やし世界を金色に染めるという時間
が。一日の終わりを告げる真紅に大気が飲まれ、ゆっくりと濃青に滲み、夜に変わっていくというその時。
一日の長さが月のわずか4%にも満たない地球で、そのさらに4%程の、本当に瞬き程度の僅かな間だけ現れる
光景。
 いま、地球に換算して27日と7時間ぶりに月も日没を迎えようとしている。だがこの優しい場所にも、そ
の黄金に燃える空は現れない。ゆっくりと地平に光源が沈んでいくのを見るきりだ。だから焦がれるのだろ
うか。焦がれたのだろうか、過去の人も。
 手を体側に垂らしたまま、マーキュリーは目蓋を下ろした。月に立ったままで、地球の夕焼けなど見える
はずがないのに、どうしてかこの時ばかりは外に出てしまう。地球を見上げるために、シルバーミレニアム
を
 影が、体の上に差した。
 目が反射で開き、腰が落ちて体に力が入る。網膜を通して電気信号となった光が脳内で意味ある像を結ぶ、
頭上を振り裂けみる。
 そして、息が止まった。




 金色の時




 なんの躊躇いもなく屋上へ続く扉の鍵を貸してもらえるのを、単純な信頼の証と捉えられるようになった
のは、高校生になってからだ。中学までは優等生に対するえこひいきか何かだと思っていたし、実際そう思
っても良いだけの言われようをされたこともある。だけど今は不思議と、その頃が遠く感じる。
 亜美は重い鉄の扉を後ろ手に閉めて、そっと寄りかかった。最終下校時刻間近、金網の向こうに夕暮れを
迎える街並みが広がっている。
 勉強の息抜き。それがいつもの言い訳だ。校庭からは部活の掛け声や、ボールが打ち上げられる音が立ち
上り、ぬるい風が前髪を撫でる。ビルの合間に突き刺さる太陽はいよいよ真っ赤に燃え、雲を光の塊に変え、
空を金色に染め上げる。太陽に面して窓も電柱も自分も色づき、背に長い影を伸ばす。空気の一粒一粒さえ、
夕日に照らし出される時。
 亜美は目蓋を下ろした。目映い空気を肺に吸い込むために。
 影が体の上に差した。
 鳥かと最初に思ってでも目蓋は勝手に開き、頭上を振り仰いだ。昼の青と夕焼けの混ざる空を、一人の姿
が切り取っている。
 その長い髪は西日に晒され黄金に輝き、白磁の肌には空と長い影が絡む。整った相貌に宿る目には意志が
光り、自分を見つめて笑っている。
「亜美ちゃん!」
 満面の笑顔で、美奈子は亜美の目の前に降り立った。猫のようにしなやかに軽い足音だけ立てて、しなや
かな仕草で美奈子は一歩、亜美へ近づいた。睫毛の先に乗る夕暮れが、瞬きで煌めく。
 亜美は、自分の喉が一つ鳴ったのに気づいた。
「突然空から降って来たから、天使かと思った。」
 言葉はどこからか自然と零れた。
「そりゃあ、未来のスーパーアイドルですもの!
 天使くらいには見えてくれないと困るわ。」
 にこっと白い歯を見せた美奈子の頭で、赤いリボンが揺れる。自信満々な美奈子はおそらく屋上に出る扉
の上、給水タンクの隣から飛び降りて来たのだろう。いくつになっても相変わらずね、と言おうと思って、
亜美はぎゅっと右手を握った。
「もう、あなたはまたこんなことして!
 どうしてこういうことするのっ。」
 音になった言葉は思いのほか尖っていた。むっと睨むと、美奈子は「えへへ、だってぇ。」と甘えた声で
首を傾げた。意識なのか無意識なのか、その振る舞いの憎めなさに亜美は自分を律した。
「だってじゃありません。
 怪我したらどうするの、困るのは美奈よ!」
「もう、そんなに怒らないでよ、亜美ちゃん。
 あたしの運動神経知ってるでしょ、怪我なんてないないっ。」
 手をパタパタっと振って見せた美奈子に、一歩近づいて亜美は眉間に皺を寄せた。さすがにバツが悪そう
に身を竦ませて、美奈子は唇を尖らせた。
「だって、屋上の扉が開いたから誰かなーって思ったら、亜美ちゃんで。
 だからちょーっとうれしくなっちゃっただけだもん。」
 言われて亜美は、はっとスカートのポケットに入っている鍵を上から触った。安いプラスチックのプレー
トが付いた鍵が固い感触を返す。
「そういえば美奈、どうやって屋上に入って来たの?
 鍵が閉まってたのに。もしかして」
「いやあああ! 亜美ちゃんその話題は危険よ!
 そんなことより亜美ちゃん、またこんなことしてって、なに?
 何かあったっけ?」
 怪訝そうに眉根を寄せ、美奈子が首をひねった。
「美奈ったらとぼけるの?
 前にも突然降って来たじゃない。」
「え、そうだっけ? いつ?」
 そうやって都合が悪いことはなかったことにしようとして、と呟こうとした音が閉じた口の中で割れた。
いつ、だなんて。自分はいつまで経っても、あの瞬間が目に焼き付いて離れないというのに。
 満天の星空の中心、千億の星を身に纏って彼女は頭上に舞っていた。広がった金色の髪の先には、彼方シ
リウスの青い光が滑り、手指には淡い陰影が綾を成していた。星明かりで肌はなお白く映え、唇には微笑み
が、眼差しには意志を宿して、目の前に降って来たあの時。
『突然空から降ってくるから、天使かと思った。』
 見上げていた地球から、降って来たのかと
「あっ。」
 弾かれたように、亜美は美奈子の目を見つめた。「え、なに?」驚いた様子で美奈子がこちらを伺ってく
る、その顔立ちにあるあどけなさを、亜美は一つ一つ確かめる。びっくりしてる眉のカーブや、ニキビがな
んて悩んでいた額に、日焼けした肌。
「亜美ちゃん? どうかした?」
 不安げに美奈子が手を差し伸べてくる。それを右手で拾って、亜美は頭を振った。
「ううん、なんでもないの。
 本当に初めてだって、ちゃんと思い出しただけよ。」
 汗ばんだ掌は初夏の匂いがする。
「でしょ? もう、変なの。」
 美奈子は肩を揺らすと、顔を背けた。屋上の先、金網の向こう、夕日が紅蓮に燃える地平をその眼差しが
映す。もうじき金星の現れる空を。亜美は美奈子の手を握りなおして、隣に並んだ。
「でも、どうやって屋上に忍び込んだのかは教えてもらいますからね。」
 あからさまに嫌そうな声を美奈子が上げる。
 亜美は小さく笑って、彼女の手を握りなおした。