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「はあっ! ぜぁっ、あっ」
 空気が鉛になって息が吸えない。呼吸する度に肋骨が軋み息をするほどに鉛が肺に流れ込んで苦しい。だ
けど体は勝手に空気を求めて喘ぐ。
「っあ、ぜっ! はっ」
 喉に唾液が絡んで気管が詰まる。塊を飲み込み咳き込んで動かす足が爪先から震えている。背に負った彼
女の体が重たい。気を失い泥のようになり地面へ落ちていこうとする体を繋ぎ止める指は、彼女の太腿に食
い込んで痙攣している。それでも肌を伝う血液が手を滑らせさらに力を要求する、マーズは指の第一関節を
深く折り曲げた。
「く、っう。は。」
 腰を落としヴィーナスを背負い直す。軽く背を跳ねさせる動作のうちに髪が頬に貼り付く。汗が眦から右
目に染みる痛みに硬く目蓋を閉じて、拭うことも擦ることも出来ないまま錆びた足でふらつきながら走った。
ヴィーナスから零れ出る生温かい液体が背中に染みる。左耳には彼女の頬が触れているのに、息遣いさえ鼓
膜に届かない。だらしなく口を開けて酸素を求めて体を引き摺るマーズには、砂が喉を削るような煩い自分
の呼吸と鼓動以外に何も聞こえない。生きているのだろうか、まだ。確かめようがない、今膝をついたらも
う立ち上がれない。咳をして吐きながら踞ってしまう。人を抱えて渡るにはあまりに戦火は熱く、人目を忍
んで連れてくるという指示は険しかった。
「ぜあっ、あ」
 足が地面に突っかかり、マーズは視線を落とした。自分の影すら頭上の木々に覆われて、何にぶつかった
のか分らない。滲んだ視界、鼻の頭から汗が滴り落ちる。唇を噛んで左足を踏み出した。
「はぁ、あっ」
 振れた目に、降り注ぐ星明かりに透き通るクリスタルパレスが映った。続く木立の奥、草木の香りの先で
白亜の宮殿は宇宙の海に浮かんでいる。秀麗な輪郭に仄青い燐光を纏い、天空を見上げるパレス。
 マーズは壊れ出した足を持ち上げ、一歩ずつ、強く息を詰まらせて地面に下ろす。クリスタルパレスまで
普段ならもう五分と掛からない場所にいる。這うような鈍さで、靴底で地面を舐めるように進んだ。地球が
天に掛ける光の放射の中を。
 ただ、思慕の形だった。この肺を満たす空気も、この森も、明けには黄金に輝く水晶の空も、全て。遥か
長い時を渡り見守って来ただけ、監視などではなかった。支配など考えもしなかった。ましてや侵略の意図
など何処にもありはしなかった。ただこれからも幾千年の未来まで、幸福に月と地球が寄り添いあり続けら
れればと、それだけを望み続けていた。
 低く張り出た枝の陰に、目指すパレスの扉が見えた。宮殿の東端、星明かりを湛えた鉱石が淡く今は閉ざ
された門戸を浮かび上がらせている。マーズは足の親指に力を込めて、地面を蹴った。その膝が砕ける。
 なのになぜ、私は、人の血に濡れ陰の中を、もがいているのだろう。
「−−−っ。」
 足は体重を支えきれなかった。手をつくことも出来ないまま、左肩が強く硬い地面にぶつかった。右足だ
けはまだ爪先で大地を捉えている。額を砂に押し付けて、マーズは唾液と息を呑み込んだ。腹に目一杯の力
を込めてもう一度体を浮かせようとする。ヴィーナスの体が前にずりおちてきてセーラーカラーを捲った。
呻き声一つ、その喉からは零れない。
 この人を死なせるわけにはいかない。この人は戦場を射抜く一条の光だ。自ら思考し、過たず大局を動か
す一振りの剣。この人を失えば精神的にも戦術的にも、戦線は崩れてしまう。深手を負ったことを誰かに知
れるのさえ、マーキュリーは厭うた。
 真っ黒い雫が二粒、マーズの二の腕を伝って砂に落ちた。染み込んでいくその痕から視線を逸らし目を瞑
る。
 この人を、守りきらなければならない。例え、
「うっ、く−−−っ。」
 この戦いの結末が見えていても。
 渾身の力を込めた右の太腿がヴィーナスを持ち上げてマーズの上半身を浮かせた。靴底で小石が歪な悲鳴
を上げて足が滑る。視界が回り体が転がる。地面に落ちる。
 あたたかな何かが、背を包んだ。
 マーズを硬い地面から救い上げる一つの体温。自分の頬がその肩に乗っている。鼻先に短い髪が掠め、耳
たぶにあたっている右目が自然と閉じる。背に回されているのは、彼女の腕。
「ありがとう、マーズ。」
 声は、触れ合った肌から直接伝わった。
 名を呼ぼうとして、息は咳に塗り潰された。走る役目を開放されたと知った肉体が猛然と空気を求めて跳
ね回る。いつの間にか自由になった両腕をついて地面に踞り、マーズは全身を引き攣らせて咳き込んだ。背
中を冷たい掌が撫でる。周囲をいくつかの声と足音が行き交うのをはっきり聞くことも見ることも出来ない
まま、手の感触だけに縋る。心臓が痛い。破れて血液が口から溢れ出てしまうかと思える程に肋骨の中を暴
れ回り、肺を殴りつけて吐き気を絞り出す。
「はあっ、はっ。」
 汗が垂れる額に細い指先が触れた。顔にまとわりつく髪を後ろへ流し、口に貼り付いていた一筋を払って
くれる。耳に髪を掛けてくれるその指を、マーズは霞む目でようやく見た。背を包んでくれる腕を。抱きと
めてくれる胸を。
「マーズ。」
 その、声を。
 煩い唾液を飲み込んで、震える右手で体を起こす。揺れる水面の眼差しに自分が流れ込んでいる。汗と血
に塗り潰された暗い影が、清廉な青の中で濯われる。
「マーキュリー。」
 マーキュリーの白い額に込められていた力が、わずか解けた。真剣な両眼に見せるのは安堵の表情だった。
乾いた掌がマーズの頬を撫でる、包むように。
「あなたも一度戻って。」
 促されて寄りかかり、体重を華奢な肩に預けて立ち上がった。支えられながらパレスへと近づいていく。
ふらつくハイヒールがマーキュリーの長衣を軽く引っ掛けた。マーキュリーが着ているのは戦闘服ではない。
「マーキュリー・・・、どうして、ここに。」
 疲弊した肺でする息は擦れて、妙な音がした。マーキュリーが纏っているのは、医術師の装束だ。
「指揮は部下に任せてきたわ。
 優秀だから、安心して。」
 言い切ったマーキュリーの横顔は正面、クリスタルパレスを見据えていた。マーズは自分の返事が音にな
ったかどうかわからなかった。曖昧な音が頬に触れても、マーキュリーは整った眉を微かにも動かさない。
知の戦士であるマーキュリーが優秀だと評する部下の実態がどうであるかなど、マーズには議論に参加する
ことさえ叶わないことだ。だがマーキュリーと比べてその部下が優秀かどうかなど、議論の余地がない。
 どうして、そう、だるい体が声にしなかったことは救いだった。前方を行く医師の一人がこちらを窺い見
た。自分とマーキュリーを順に見た彼の表情は遠く、宵闇に隠れて見えない。わかるのはすぐ傍で、マーキ
ュリーが何かを飲み込んだ仕草だけだった。
「今、戦場の何千人かを失うより、あの人を失う方が痛手だもの。」
 囁き程の声で、マーキュリーは呟いた。
 ドームの外に時折落ちる稲妻が二人の影を一瞬、地面に描き出した。音のない雷を、木の葉が靴底で割れ
る悲鳴だけが象る。
 命の重さは違う。
「長くはかからないから。」
 低く張り出した枝をくぐって、木立を抜けた。クリスタルパレスの東端、木々に包まれて眠る一つの扉が
ある。愛するあの人がこっそり城を抜け出す時に使うお決まりの、秘密の抜け道。マーキュリーは左手をそ
の扉に押し当てた。
「すこし、待っていて。」
 肩越しに、欠け始めた地球が輝いている。マーキュリーの細い髪を尚青く透かして、地球は空の中心に浮
かんでいる。夜明けを地平の向こうから迎えようとしている、真っ黒い空からマーズは目を逸らした。マー
キュリーがこちらを振り返らないまま言葉を紡ぐ。
「あなたの手当をさせて欲しいの。
 お願い。」
 祈るような声が合わせた睫に触れた。