ライトブルー













 嫌なことというのは、つくづく、連続して起こるものだと、自嘲して、ロベリアは膝をついた。眩暈が酷
い。とても立っていられたものでは無かった。酒瓶でも、思いっきり殴られれば、かなりのダメージになる
ものだと、何故だか感動してしまった。
「三下のくせによくもまぁ、やってくれたもんだよ。」
 夕方から降り続いた雨は先程止み、空は厚い雲に覆われ真っ黒く、星は一つとして見えない。唯一、月だ
けが薄っすらとその存在を覗かせている。しかし、その一片の光は地上まで差し込むことは無く、ロベリア
の頬を照らし出すのは、街灯の白々とした明かりだけだ。
 ロベリアの白い髪を、ワインが赤く染め上げている。それは上等な酒とは言い難い安っぽい匂いだが、酒
は酒だ。彼女は口に伝い落ちて来た雫を舐めて、にやりと口元を歪めた。
「もったいないことしてくれやがって。
 バチがあたるよ。」
 ロベリアの灰色をした眼が睨み付けた先、金属光沢を見せ付ける銃口が黒々と開いていた。構えているの
は大柄な男を中心とした複数の人間だ。お世辞にも広いとは言えず、お世辞にも清潔とは言えない路地裏。
未舗装の路面には水溜りが滑らかな表面を明かりに晒している。油の混じった足元の水溜りに、人影が映り
込む。左右の壁は窓一つなくそそり立っているというのに、後ろにまで回りこまれたらしい。本当に、どう
しようもない。
「神さまのお怒りなんざ、大したことじゃねぇよ。
 名高い巴里の悪魔を仕留められるんなら、な。」
 目の前の、すらりとした痩躯の男が嘲った。
 その嘲りは、まったく的を射たものであるような気がした。近頃どうやら、平和ボケしていたらしい。こ
ういった人間に対する警戒心という奴が、少し疎かになっていたらしい。平和ボケと言ってみたところで、
噂の怪人との戦いという面ではまだまだ佳境に差し掛かってもいないだろうが。
 ロベリアは鼻を鳴らした。
「ふん、三下が語るんじゃないよ。
 誰が誰を仕留めるだって?」
 立ち上がろうと膝に力を込める。ぬかるんだ地面はそれだけで靴をわずかに滑らせた。だが、この程度の
足場でも、十分、跳躍は可能だ。ロベリアは全身をしならせて、前方に飛ぶように立ち上がる。
 そのつもりだったのだ。だというのに、ロベリアの足は彼女の意志を離れ、込めた力を霧散させる。驚き
がその顔に走る。転ぶまいと差し出した右足も、その場で縺れた。そして、それ以上はもうどうしようもな
く、
「くそっ。」悪態が宙を滑る。

 ばしゃあんっ、

 ロベリアは水溜りに頭から突っ込んだ。響く盛大な水音、飛び散る泥水。同時に、どっ、と男たちの間か
ら笑いが起こる。鋭く舌打ちをして、ロベリアは水溜りから自分の顔を救った。顔の半分を汚した泥水が、
顎先を伝い落ちる。口に入った水を吐き出し、手の甲で口を拭う。
「どうした、巴里の悪魔ともあろうものが、
 随分と、コメディエンヌのようじゃあないか。
 もう、どろんこ遊びするような歳じゃあないだろう?」
 勝ち誇ったような笑い声が、降り注いだ。
 よくある話だ。新興の所謂、簡単に言うと悪の組織って奴は、とにかく勢力を増大したい。そのためには
どうするかと言うと、いろいろ悪の組織らしく、それっぽいことをする。その中には、箔を付ける、という
思考が必ず入ってくるわけで。
 ロベリアは今更ながらに自分の行動の軽薄さに辟易した。ちょっとの距離を倦厭して、一見の店になど、
入るのではなかった。新興の悪の組織が、目をきらきらさせながら、噛ませ犬を待っているなんていう可能
性を、奇麗さっぱり忘れ去っていた。しかも、
「酒に一服盛ってくれるとはね。
 アンタら、マジでバチがあたるよ。」
 一服盛られていることに、気づかないまま飲むなんて、頭まで悪くなってきたのではないだろうか。
 左腕で体を支え起こそうとしながら、ロベリアは微笑むように凄んだ。眼鏡には泥がついていて、銃口は
はっきりと見えなかった。
「バチ、か。
 この引き金を引いた後で、たっぷり苦しませて貰うことにするさ。」
 痩躯の男の動きに合わせて、他の銃口もぴたりと彼女に狙いを定めていた。前後あわせて、十くらいだろ
う。ロベリアは食い入るように、男を睨みつけていた。
「あんまり、でかい口は叩くもんじゃないよ。」
 ロベリアは不敵に口元を吊り上げる。この距離で、この人数。手にした拳銃は見たところ、6連式のリボ
ルバーで、型もなかなか新しい。逃げ延びるのはほぼ不可能だ。
「ああ、これからは気をつけるさ。」
 揺ぎ無い、絶対有利。
 覆らない、絶対不利。
「さあて、どうしようねぇ。」
 霊力を発動可能な状態まで、引き上げようとする。しかし、その意志の伝達すら鈍く。
 ったく、どうしようもねぇな、と目を逸らし。
 そうしたら、脳裏に、昨日、散々殴りつけた少女が映り込んだ。あの、貴族気取りのいけ好かない、あの、
バカなガキは、この状況を見たら、昨日の戦闘の時と同じように飛び込んでくるのだろうか。なんの策も無
かろうと、何も出来ないと、わかっていようとも。
 そう考えて、ロベリアは思わず笑ってしまった。これでは、助けを求めているのと同じだ。昨日、彼女に
言ったことと、まるで矛盾しているではないか。自分は一人なのだ。過去から現在まで一貫して通してきた
それは、ここに至って変化するようなことではない。自分の行動の責任は自分で取る。誰にも間には入らせ
ない。
 一人で居ることが、自身の自己同一性だ。
「じゃあな、巴里の悪魔。」
 冷笑と共に、引き金がゆっくりと絞られていく。ロベリアは静かに覚悟を決めた。

 その時だ。


 ドゴォッ!

 鈍い音を立てて、ロベリアの背後に立っていた男の一人が、勢い鋭く地面に顔面を突き刺した。
「なんだ!」
 そして、周囲がざわめくのと同時、一つ、この中にあっては小柄な影が、ロベリアを庇う様に、男たちの
前に躍り出た。その影は、左足、右足とリズム良く足をつき、すっと背筋を伸ばして起立する。
「たまに夜道を歩いてみれば、まったく、
 大の男が揃いも揃って、良い趣味をしているではないか!」
 左手に斧を提げ、右手を水平に翳して、彼女は朗々たる声を上げた。路地に声が響き渡り、一瞬、静寂に
も似た空気が場を支配する。碧眼はまっすぐに、偉そうな痩身の男を射抜いている。
 ロベリアの位置から、彼女の顔は見えよう筈も無く、後姿だけが目に映った。でもそれだけで十分だった。
ほんの数秒前に、ロベリアの脳裏を駆け抜けた少女の姿だ。
「なんだこのガキ――――!」
 男が張り返す声も、何も、ロベリアの耳には届かなかった。視線も、意識も、五感の全てが彼女に集中し
ていた。自分の呼吸のリズムが、耳障りなほどにはっきりと自覚できた。
 どうして、ここに居るんだ。どうして、飛び出してきたんだ。どうして、また、立ちはだかるんだ。無数
の疑問がロベリアの思考を席巻する。目が彼女に吸い寄せられて、逸らすことができなかった。
 彼女の青い上着の裾が、場違いな程ゆったりと夜風に靡いた。それはロベリアの頬をも撫でる。冷たい掌
で撫でられたかのような感触に、瞬間、ロベリアの意識は急速に浮上した。
「ガキが一体何の真似だ!
 てめぇはすっこんでろ!!」
 激しい自分の声に、頭が痺れた。
 だん、と左足を立てる。打たれた水溜りが、飛沫を上げる。ロベリアは上体を起こしていた。右腕は壁に
捕まってはいるが、その体には先程とは打って変わって意志に満ち満ちていて、顔には獰猛な皺が刻まれて
いた。食いしばった歯の奥から、呻り声が聞こえて来そうなほどだった。
 あまりの気迫に、銃口は怯んだ。しかし、目の前の青い背中だけは、微動だにしない。カン、と軽い音を
立てて、斧を両手で構える。その仕草は、何処を取ってみても悠然としている。
「それは出来ぬ相談だ。」
 彼女はそう、静かに言い切った。冷静な声だった。この数の男共を相手に、まるで怯えた様子など無い。
それがさらに、ロベリアの感情を逆撫でする。
「バカなこと言ってんじゃないよ!
 アンタみたいなガキはさっさと家に帰れって言ってんだよ!!」
 怒りで頭がどうにかなってしまいそうだった。喉が痛んだ。全ての悪意と敵意を込めて、ロベリアは彼女
の背中を睨みつける。しかし、彼女は、一瞥もロベリアにはくれない。ただ、気の短い彼女は、返事に険を
孕ませただけだ。イライラとした声は彼女が怒り出すサインだ。
「そなたは満足に動けないのであろう。
 ならばそこで、黙って見てい―――。」
 不意に流れ出しそうになった不穏な空気を、
「なんだ、このガキ、オマエの連れか。」
 ようやく状況を理解し、平静を取り戻した男の一人が遮った。ロベリアに向けていた銃口を、彼女に照準
させて微笑む。
「お嬢ちゃん、今の不意打ちは上手く行ったみたいだけどな。
 おじさん達の手の中にあるこいつが、見えないのかな?」
 下卑た笑いは、勝利を確信しきっている顔だ。その表情を見て、ロベリアは小さく舌打ちをした。
「このバカ!!
 いいから逃げろ!」
 堪らず、ロベリアが再度、怒鳴った。
 普通の16歳なら、悲鳴を上げて逃げるか、警察に連絡するとかいう方法を取るものだというのに。16
歳の少女が、不釣合いな斧を一つ引っさげて、十もある銃口の前に飛び出してきたからといって、それが一
体何になるのか。斧の間合いに入るよりも早く、弾丸が彼女の胸を貫くのは明白だ。
 なのに、どうしてこいつはいつも、昨日と言い、今と言い、飛び出してくることしか出来ないんだ。
「ああ、もちろんだ。
 だがそれがどうしたというのだ。」
 彼女はロベリアの怒声など意にも介さず、唇すら歪めて言い放った。憶すどころか、彼女は一歩踏み出し
た。腰を低くし、重心を下に保って、特攻の体勢を作る。その頃には、男達は相打ちを避けるため、彼女が
睨んでいる男の側に全員が回りこんでいた。
「はんっ。勇ましいねぇ、お嬢ちゃん。
 もう少し大きかったら構って上げたいところだが、」
 男の引き金に掛かった指に、力が込められていく。
 絶対、無事では帰れない。
 その確信がロベリアの脳天を突き抜け、でも、どう言ったって、彼女はこのまま帰るような人間ではない
ことの方が、はるかに明白かつ確実だった。それが、彼女、グリシーヌ・ブルーメールだ。ロベリアは歯噛
みして、再度、立ち上がろうと全身に力を込める。しかし、それは溜まることなく霧散して、僅か数ミリ、
靴底が擦れただけだった。焦燥が身を焦がす。
 グリシーヌの体が、気づかない程度に沈んだ。足に俄然、力が篭る。
「生憎、子供は範囲外でね。
 残念だよ!」
 男の顔が醜く歪む。引き金が引かれる、その瞬間、
「言いたいことは、それだけか!!」
 グリシーヌが一直線に駆け出した。
 斧を構え、一本の矢のように疾走する。

 ダンダンダンッ

 男が引き金を3度引いた。シングルアクションの拳銃で、ファンニングしながらの連射。しかし、全弾、
彼女を逸れ、時速300キロで路地の暗闇に吸い込まれた。この距離で、外したというのか。男の顔に得も
言えぬ内心が浮かぶ。グリシーヌが肉薄する。青い目が彼を捕らえる。
「ちくしょう、撃て!!」
 彼が命令したときには、グリシーヌはもう間合いに踏み込んでいた。他の銃口が火を噴く。撃鉄が雷管を
叩き、弾丸が解き放たれる。痩身の男以外、全てダブルアクションの拳銃だ。乾いた銃声が場を埋め尽くし、
夜空に突き抜ける。一発の銃弾が、流れて街燈を打ち砕いた。
 しかし、その数十もの銃弾の、どれ一つとしてグリシーヌにかすりもしなかった。ダブルアクションの拳
銃は、命中率が劣るとはいえ、この僅か2m程の距離で。それはありえないことのように思われた。男達
の顔が、次第に歪んでいく。
 霊力の無い人間には、見えるのだろうか。あの、彼女を取り巻く青い光が。あのしたたかな光が、弾道を
全て逸らしている。光を纏い走る彼女の軌跡は、帯のように見えた。
 彼女が声を張り上げて、斧を翳す。
「グロース、」
 足を止めぬままに、戦斧を振り上げた。男達の顔は、とうとう慄きと困惑に引きつった。
「ヴァーグ!!」
 ダン、と斧が地面を叩き割る。
 瞬間。地響きと共に、突如として大波がたち現れた。グリシーヌの身長よりもはるかに高く、巨大な質量
をもった大波が、頭上の曇天を覆い隠す。耳を劈くのは、怒涛の潮騒だ。
 悲鳴すら掻き消され、一瞬の後、どよめきが消えるより早く、大波は男達の半数以上を飲み込んだ。飲み
込まれた者はあっけなく、強大な力の前になぎ倒されていく。波頭に漂う藻屑のように、潮の中を二転三転
する。
 運よく巻き込まれずに居た男達は、呆然とその荒波の様を見つめることしか出来ない。そして、グリシー
ヌは自らが作り出したこの好機を、みすみす見過ごしたりはしない。残りの二人へと身を翻す。青い衣が曇
天を駆けた。
「隙、」
 グリシーヌは振り向きざま、男の一人に、戦斧の一撃を見舞った。腹部を強打された男は、鈍い呻き声を
あげて地面に伏す。残りは真横に立つ一人のみ。
 斧を反し、最後の一人に鋭く言い放つ。
「だらけだぞ!」
 男が、「ひぃっ。」と情けなく目を見開いた。グリシーヌは片膝を尽き、渾身の力で戦斧を振り抜く。
 ゴッ!
 鈍い音を立てて、戦斧の腹が男を吹き飛ばした。
 グリシーヌの視界の中、誰も、もはや立っては居なかった。さらりと、金髪が肩を滑る。グリシーヌは戦
斧を下ろし、黙ったままのロベリアに目をやった。ロベリアは先程と同じ、腕を壁についた姿勢でグリシー
ヌを見ていた。
「バカだのガキだのと、随分言いたい放題言ってくれたな。」
 青い目が射抜くようにロベリアを睥睨した。その視線は澄んでいるが、先程迄は無かった感情がありあり
と浮かんでいた。嘘が吐けない人間なのだ。良くも悪くも。ロベリアは険しい表情のまま、重たく口を開く。
「ああ、言ったさ。
 だからなんだってんだい。
 アンタはバカで、ガキで、鼻持ちならない貴族のお嬢様さ。
 余計なことしてくれやがって。
 ガキに助けられたとあっちゃあ、アタシの名に傷が付くじゃないか。」
 吐き捨てた言葉に、グリシーヌの眉が跳ね上がった。
「そんなに、私のことが気に食わんか。」
 戦斧を握る手が震えていた。真一文字に結んだ唇が戦慄く。ロベリアは顔を逸らし、彼女のブルーの目を
見ないようにした。
「迷惑なんだよ。
 お前みたいな奴に干渉なんかされたかないんだよ。
 さっさと失せろ!」
 突き放す言葉。ロベリアはグリシーヌを見ず。
 やがて、応えるように聞こえてきたのは、グリシーヌの声ではなかった。

 ガチリ、。

 撃鉄が引かれる音がした。思考が一瞬停止する。聞こえてきたのはグリシーヌの方からで。振り向いた先、
グリシーヌの表情が、凍り付いていた。
 冷たい金属の塊が、彼女の後頭部に押し当てられている。シングルアクション、6連式のリボルバー。3
発は弾が残っている。
「やってくれたな、お嬢ちゃん。
 でも、相手を完全にノスまで、気を抜いちゃあいけないぜ。」
 男は髪から水を滴らせながら、口を開いた。最初の大技を一番まともに食らったはずの、リーダー格。痩
せた頬に、醜く憤怒が滲んでいる。
「あの大波、どういう手品かしらねぇが、
 ガキにここまでやられて、このまま帰すわけにゃあいかなくてな。」
 ロベリアはこの期に及んで動きの悪い体に辟易した。いや、例え動いたとして、どうできるというのだ。
銃口はグリシーヌの頭に突きつけられているというのに。くそう、本当に、本当に平和ボケしている。どう
したらいいんだ、どうしたら、どうしたら。
「ふん、貴様らが弱いのが悪いのであろう。
 その程度でよくもまぁ、そのように横柄な態度が取れるものだな。」
 グリシーヌの顔には緊張が走っている。対照に、口は尊大な言葉を発し続ける。眼差しが揺れている。
 後悔したって仕方ない。今出来ることを考えなくてはならない。判ってはいる。しかし、何が出来るとい
うのだろう。昨日、もっと、足腰が立たなくなる位に、殴って置けばよかった。もう、二度と、誰かの前に
立ちはだかろうなんて、そんな気持ちにならない位に、ボコボコに。殴って置けばよかった。そうすれば、
 そうすれば、こんな状況になんて、絶対に、ならなくてすんでいたのに。
「口の減らねぇガキだ。
 その口、塞いでやるよ。」
 やめろと、叫ぼうとするも、それは声にならずに、掠れた呼吸音として果てた。グリシーヌの斧を握り締
める手に力が入る。表情がより一層、険しく強張った。眉間に深い皺が刻まれる。冷や汗が零れる。
薄暗い路地は、不釣合いなほどに静かだ。心臓が、今にも止まりそうなほどに。
「まぁ、安心しろよ。
 すぐに、」
 絞られ始めた引き金が、ぎぎぎ、と不快な金属音を立てる。グリシーヌの目が、動揺と克己と絶望と意志
とに揺れた。しかし、斧を握る手を振り上げることは出来ないだろう。あげた瞬間に撃たれることは判って
いるからだ。あげなくても撃たれることも判っているというのに。
 ロベリアは指一本、動かせなくなっていた。情けないなどと、思うことも既に出来なくなっていた。

「あそこで蹲ってるロベリアにも、」
 男は囁き。

 ロベリアは目を覆うことも出来なかった。全てが、スローモーションのように。

「後を追わせてやるからな。」
 引き金が、


 ドンッ、


 絶対、確実に命中する筈のゼロ距離射撃が、その弾丸は、唐突に振り返ったグリシーヌの頬を掠めただけ
だった。ぱっと、血が散るのが見えた。そう思った時には、グリシーヌは男に向き直っていた。
 彼女の背後に立っていた為、男は気づけなかったのだ。
 その言葉の直後、唐突に、彼女の表情に迷いなど一切無くなったことに。
 その表情が、激情に支配されたことに。
 彼女は、瞬きにも満たぬ時間を、永遠に引き伸ばして跳ね起きる。脚力だけに依存して、身を捻りながら。
断ち切られた金髪が宙を舞う。永遠が一瞬に戻っていく。彼女の目が、男をまさに射抜いた。口元が、歪ん
だ口元が、端から開いていって、声を発する。怒号のように。
「そんなこと、」
 ドンッ。
 男は顔を引きつらせる間も無く、二発目を撃った。それは彼女の肩に刺さるが、彼女の動きを止めるには
至らない。斧が、渾身の力でもって、振り下ろされる。激情に燃える目が、静止を許さない。
「させるものか!!」

 ズ、ダンッ
 鋭い音が、視界を覆った。グリシーヌの戦斧は拳銃を粉砕し、男の顔を僅かに削って、地面を抉った。
 不自然とも言える、妙に白々とした空気が流れる。男は一言も発せず、ピクリとも動かない。だが、その
上体がやがてゆっくりと傾ぎ。男は、ぱたり、と顔面を硬直させたまま、仰向けに倒れた。今度こそ、立っ
ている者も、立ち上がろうとしている者も居ない。そこでようやく、緊張を解いたグリシーヌは、静かに息
を吐いた。
 そして、空を仰ぐ先程の男に、一瞥をくれると、斧を地面から引き抜いた。
「どうしてこのような事態になったのかは、知らぬが、
 今後は気をつけるんだな。
 あまりにも巴里華撃団としての自覚に欠ける行動は慎め。」
 グリシーヌが斧の切っ先を見ながら語る。その横顔は街灯が一つ潰えた今、判然とはせず。ただその声は、
落ち着いているというよりも、沈んでいるかのような響きだった。
「もっとも、私は今も、貴様が華撃団に相応しい等とは思っていない。
 いや、多分、相応しい、等と思うことはこの先ないだろうな。」
 そこで、ふ、と自嘲的に笑った。
「だがな、」
 夜風が吹いて、グリシーヌの髪を揺らし、水溜りに漣を作り、月の端を雲間から見せた。グリシーヌの手
が固い握りこぶしを作る。
「見くびるな。
 悪党だからといって、私が仲間を見捨てるような人間だとでも言うのかっ!!」
 その顔は、今までにない怒りを湛えていた。怒鳴り声の最後は、もう、声がひっくり返っていた。
「貴様が迷惑だと言おうと、どんなに罵ろうとも、
 貴様に、どれだけ、どれだけ嫌われようとも、
 私は退くことなど出来ない!
 これが、貴様の昨日の台詞に対する、私の答――――!」
 声を荒げるグリシーヌはロベリアの方を振り返り。そして言葉を詰まらせた。
 未だ、立ち上がることが敵わず、膝をついていることと思っていたロベリアが、目の前にすっくと立って
いたからだ。そう、本当に目の前、20センチの身長差を思い知らされる距離。その立ち姿に、普段のよう
な力強さは微塵も無く、やっと立っているといった風体だ。
 グリシーヌは首を大きく傾けて、ロベリアの顔を仰いだ。ロベリアもグリシーヌを見下ろしている。だが、
その焦点はとてもグリシーヌを捉えているようには見えなかった。
 グリシーヌが怪訝に眉を顰めた。
「ロベリア・・・?」
 安いワインと、泥水と、硝煙と、磯臭さと、大気に溶け込むように香る、彼女の匂いと。
 胸が痛くなるようだった。体はぜんぜん動かなくて、彼女の指先からは血が滴り落ちていて。頬も、
「ロベリア?」
 さっきの瞬間が、今も、頭の中でリフレインし続けるのだ。何度も何度も繰り返し、突きつけられた銃口
と、彼女の戦慄した顔と、引き絞られるトリガーが見えるんだ。
「お前が、―――。」
 ロベリアの唇から、言葉がこぼれる。
 グリシーヌの頬を手でそっと挟んだ。触れた金髪を、くしゃりと掴む。ロベリアの顔が、ほんのすぐ傍に
あった。その灰色の目が歪み。表情が、くしゃりと、滲んだ。

「死んだかと、思った。」

 泣きそうな顔に。


「ロベリ、ア―――?」






 なんて、お前は、バカで貴族で鈍感で、

 ―――タイミングが悪かったんだ。あんな蒸気獣ごときに、遅れを取るなんて思っても見なかった。
    後ろに回りこまれるなんて、思いもしなかった。
    やられると覚悟した瞬間、飛び出してきたのはオーシャンブルーの光武Fで。

 どうしようもない、バカで、

 ―――ランスは丁度、シルスウス鋼の結合部に突き刺さった。
    怪我したのは判ってた。
    それを黙っているのも判っていた、その理由も判っていた。
    それがこいつなんだ。
    今も、傷など無いかのように、まるで痛まないかのように、振舞って。

 バカで、

 ―――だから、殴ったんだ。




 バカで。



 ―――だから、殴ったのに。



「人を殴った上に、罵倒したかと思えば。
 わからんやつだな、そなたも。」
 一番判ってないのはお前だと、言おうとしたが言葉にはならなかった。
 抱きしめると、安いワインと、泥水と、硝煙と、磯臭さと、大気に溶け込むように香る彼女の匂いと、

 つんとした痛みが、鼻を襲った。





































---------------
あとがき