「何もいらない。アタシは人間と約束してそれを果たすだけだ。」
 彼女はそう言い、切れ長の目を細めた。木漏れ日の中で睫に絡んだ色彩が、大神の目の奥に焼き付いた。
 悪魔がその背に広げる三対六枚の黒い羽は、木々の照り返しを受けて濡れ羽色をしている。水に張った油
膜のように、ちらちらと色は移ろう。風が揺らす木々の影を、緑と潮の匂いを映すようだった。
「何もかい?」
 大神は悪魔の言葉を繰り返した。
「ロベリア、本当になにもいらないのか?」
 大神の目交いには戸惑いが浮かんでいた。精悍な額には皺を刻み、悪魔の両眼を覗き込む。悪魔はただ、
たっぷりと微笑んだ。
「どうせ長い年月を生きるんだ。約束に縛られて生きる方が楽しい。人はすぐに死ぬがね。」
 潮騒が聞こえる。大神は目を伏せると、左手を振り返った。緩やかな丘は、初夏の海を見下ろす。砂浜は
尚白く、波間、遠景に船のセイルが幾つも霞んでいる。
 大神の顔も腕も日焼けしている。真っ黒い短髪の先も、日に焦げて赤く透けていた。
「なら、歌ってくれないか。
 いつか、俺が死ぬ時にも。」
 大神の瞳がロベリアを見つめた。黒い瞳に青葉の影が照り映えている。










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 彼女は笑い飛ばそうとして、ただ顔を歪めたまま押し黙った。
 端正な顔立ちに走る皺に薄らと影が落ちる。
「なんだ、いいのか?
 しんゆうなんだろう。」
 悪魔の三対の翼が空気を撃った。巻き起こる風が立ち尽くす彼女の体を叩いた。金色の髪が吹き散り、一
筋が乾いた唇の端に絡んだ。
「花火の心を救ってやろうか?」
 同じ言葉を繰り返すと、彼女は唇を噛んだ。
 透き通ったブルーの瞳が目蓋と長い睫に半ば隠れる。彼女は拳を硬く握り締めた。手の甲に筋が浮き上が
る。
「心を救うとはなんだ。
 しかも、悪魔の貴様が・・・。」
 体の奥に轟き続ける、嵐の波音が消えない。
 奥歯が軋んで、鈍い音が耳の裏で鳴ってそれでも。
「別に、アタシは何もいらない。人間と約束してそれを果たすだけだ。昔の契約者にもそう。」
 悪魔が再び翼を撃つ。大きく動いたその先が、彼女の頬を掠めた。
「彼が望む時に歌うという約束だった。彼が死ぬ時にも歌ったよ」
 彼女が喉を鳴らして唾を呑み込んだ。
 グリシーヌは顔を上げ、毅然とロベリアを睨むように仰いだ。
「なら、私達の友情が死ぬ時に歌ってくれ。」