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「エリカ。」
 分厚く大きな手が私の頭を撫でた。
 その大きな手は私を幾度となく抱きしめてくれた手で、それから幾度となく抱きしめてくれる手だった。
「いいんだよ。それで。」
 私は肘にまで涙が伝う程、泣きじゃくっていた。しゃくりをあげると息が詰まって苦しかった。
 その私に、お父さんは言った。
「エリカはその子を助けてあげたかったんだろう。
 感謝されたいからとかじゃなく、ただ心からそう思ってやってあげたんだろう。」
 涙を何度も呑み込みながら、しきりに頷いた声が情けなかった。
 一緒に遊んでいた男の子が転んで深く膝を切って、血がいっぱい出て痛そうに泣くから、いつも自分に
するように手をかざして、治れってお願いしただけだった。そして、いつも通りきれいに治っただけだっ
た。だけど、
「なら、これからもそうしなさい。
 私はエリカ、お前が自分の中にある愛に気付いていることが、とても誇らしいよ。」
 お父さんの手が私の頬を両側から挟んだ。
 そうして、親指で私の目から零れる涙を拭って、
「いつも最善の自分でありなさい、そして最も真実の自分でありなさい。
 そうすれば、必ず----。」






       Lumiere








「ねぇーえったらぁ!! やりましょうよぉ!! グリシーヌさんってばぁ!」
 十本の指が服の上からもそれぞれわかるくらいに強く腕を握り、エリカの顔面が鼻先に肉薄した。
「やらんと言っておろう!」
 グリシーヌが明朗に拒絶の意志を示すと、エリカは「えーっ!」と悲鳴じみた声を上げた。頭のてっぺ
んで二つの黒猫耳が非難がましく天井を向く。
「昨日、やってくれるって言ったじゃないですかー!
 二人いないとLes Chattes Noirsにならないですよー!!」
 幼い子供同然に掴んだグリシーヌの右腕を左右に大きく振ると、尻尾も背中でまとめた亜麻色の髪もあ
わせて勢いよく揺れた。
「言っておらん! そなたが夢で見た話と混同するな!!」
 舞台下手で大道具を加工している男二人が肩越しにちらりと視線を寄越す。
「そんなぁー!」
 地団駄を踏む振動が床を伝わって椅子の座面にも響いた。グリシーヌはそれでもなお組んだ足を解かず、
左手を膝から離さなかった。エリカは額に皺を寄せ、泣き出す寸前のように眦をふやかした。
「舞台って、本当に、ほんとーっに! 楽しいんですよ!
 ぜったい後悔させませんからぁーっ!!」
「なんと言われても私は舞台には立たん!」
 跳ね回り、拳を握った両腕を胸の前でぶんぶん振り、周囲をぐるぐる走り回ってエリカは全身で訴えて
くる。だがグリシーヌはエリカが握り締めていた右手首を一度さすると、髪を耳に掛けただけだった。白
くイヤリングが光を弾いた。
「あっちの衣装は今日着たんですから、こっちの衣装も今日着ましょうよぉー!
 どれがいいかなって、仮衣装三つも用意してあるんですよ!」
 グリシーヌの座る椅子の背を左手で掴み、右手はテーブルに置いて、エリカはまるで覆い被さるように
迫った。黒猫の影が頭上にかかり、肩を滑る髪が幕のようにグリシーヌの視界を周囲から遮る。グリシー
ヌは一度肩から息を吐くと、エリカを見上げた。そうして言い聞かせるよう言葉を一つずつ紡ぐ。
「私はそもそも舞台で見せるような踊りはしたことがない。
 それに立場もあるのだ、客前で踊るなど出来ない。」
 二つの視線が掌一枚分の距離でかち合った。頭上から降る電燈の色がエリカの髪を彩って、その榛色し
た瞳を逆光で撫でた。遠浅の海を映したグリシーヌの眼差しは沈黙を以てエリカを見つめ返す。
 そのとき、手を二拍打ち鳴らす音がホールに木霊した。
「ほらほらエリカ、もうだだこねるんじゃないよ。
 他のダンサー達も来るんだから。」
 二人の秘書が押し開けた客席上手側の扉から、一人の女性が歩み出る。天から糸で吊っているかのよう
に背筋を真っ直ぐ伸ばし、流れるような所作で彼女は歩む。かつての巴里随一のダンサーとしての面影を
感じさせながら、ヴェール・フォンセの上掛けのたっぷりした裾を彼女は広げた。肩をがっくりと落とし
たエリカが「だって、グラン・マぁ。」と情けない後ろ姿を晒す。
「ライラック夫人、この度は劇場にお招きいただきありがとうございます。」
 グリシーヌは椅子から立ち上がると恭しく一礼をした。豊かな髪が溶けた黄金のように肩を滑る。
「グリシーヌ、あんたもよしておくれ。
 ここでは伯爵夫人でも公爵家の娘でもないんだから。」
 グラン・マはたっぷりと気のいい笑みを浮かべ、手を一度ひらっと振った。テアトル・シャノワールに
あっては彼女は本当に気安いオーナーだ。グリシーヌは形の整った眉を僅かに動かしたが、短く「そうで
すね。」と頷いてみせる。そのうちにグラン・マは舞台で作業を行う数名に向かって視線をくれた。今日
の公演から黒猫エリカの登場演出を変更するという今、スタッフの間には最終調整による僅かな緊張感が
漂っている。いつも通りなのはエリカだけだな、とグリシーヌは肩を竦めた。
「ほらエリカ、行った行った。
 袖で振りと立ち位置の確認しておいで。どうせだから、もっと派手に転ぶ方法でも考えたらどうだい。」
「えーっ、グラン・マ酷いですよぉ!」
 二つの手を握り拳にし、エリカが頬を膨らませた。愛嬌のあるその表情に、グランマははいはいわかっ
てるからと返しながら、早く行けと手を振る。エリカは未練たっぷりといった様子でちらちらと何度もグ
リシーヌの顔に目線をくれながらも最後は観念して踵を返した。渋々舞台袖に引っ込んで行くエリカの尻
尾が、恨めしげに膝の裏辺りを彷徨っている。
「まったくあの子は、手を焼かせるんだから。」
 黒髪の秘書メルが引いた椅子に腰を下ろし、グラン・マは深々とため息を吐いた。呆れと心配の入り交
じったそれは教師が時折零す吐息に似ている。グリシーヌは椅子の背に手を掛けながら、その横顔を目に
納めた。歳とともに円熟した彼女の姿はまるで一枚の肖像のようだった。
「グリシーヌ、アンタにも舞台に立って欲しいっていうのは、アタシも同意見なんだけどね。
 眉目秀麗、寄宿学校も一年飛び級する秀才で、
 武芸も馬術も優れ、まして歌もダンスも一流だと噂じゃないか。」
 グリシーヌに挑戦するよう、グラン・マはゆっくりと微笑んだ。エリカよりも大きな相手の出現だが、
グラン・マの言ったことに照れも恥じらいもなければ、特別誇ることもない。ただグリシーヌは短く答え
た。
「そのくらいは出来て当然のことです。」
 声なく口の形だけでシーという秘書の一人が驚き、その腕をメルが小突くのがグリシーヌにも見えた。
その二人を従えてテアトル・シャノワールの支配人は大口を開けて笑った。
「たいしたもんだよ、全く!
 お父上の若い頃によく似ているとは聞くけど、本当に剛胆な子だね! ますます気に入ったよ!」
 気前の良い大笑いに、グリシーヌは僅かに頬を染めた。居心地悪く顔を掻きながら、椅子に再び腰を下
ろす。
「父上に似ているとは、よく言われます。」
 グラン・マが小さく頷くのが聞こえた。
 消えていた舞台装置の電飾が順々に光を灯していく。欧州の罪の都市、その二つ名を欲しいままにする
この巴里はダンスホールやキャバレーあらゆる娯楽施設が一夜ごとに生まれては、人々を狂乱の渦に巻き
込んで行く。欧州どころか世界中から人々はその熱を求めて流れ込み、数多の作家達はこの芸術の都で新
たな時代を作ろうと夜通し語り合いながら千載一遇の機会を手に入れるべくひしめき合っている。その巴
里を一望するモンマルトルもまた、街を照らす灯火の一つだ。テアトル・シャノワールは時代を作り出す
新進気鋭の劇場であり、新鋭の演出家や新手の手法を積極的に取り入れるこの劇場の名は巴里に聞こえだ
している。今は音のないこの場所も、あと数時間もすれば音楽と人の熱気に膨れ上がるのだろう。
「まぁ、どう言ってみたところで、アンタがブルーメール家の大切な一人娘なことには変わりない。
 舞台に立てないというのもまぁ、もっともなことさね。」
 緑のライトが頬を照らした。グリシーヌは舞台を見上げる。舞台中央の入り口を守る黒猫の見開かれた
左右の目が、黄色と緑に交互に瞬きをしていた。オペラやバレエを披露する歴史ある壮麗な劇場を思えば、
この舞台は狭いものであるし、美麗というには派手に過ぎる、畏敬の念を受ける者もないだろう。だが、
隅々まで意識が行き届いている空間だ。例えば簡単なダンスでも、指先にまで想いを込めて踊ったならば
芸術となる資格を持つように。
「良い劇場だと思います、確かに。
 これが巴里華撃団の任務として、価値あるというお話も納得出来るものでした。しかし、」
 舞台装置係の案内がスピーカーから発せられた。演出リハーサルを兼ねて、黒猫が一曲踊るという。下
手側で一抱え程の何か装置を弄っていた二人のスタッフが、重たそうにそれを抱えて客席へと降りた。下
手と上手から注がれるスポットライトが舞台中央の床を真っ白く熱く照らした。その輝きは目の奥に焼き
付き、暗闇を見つめても多彩な色を網膜に生み出している。
 グリシーヌはグラン・マを振り向いた。
「しかし、私の人生の目的は、ダンサーとして舞台に立つことにはありません。
 人生を舞台に捧げ、踊ることこそを喜びとする者が、舞台に立つべきなのではないでしょうか。」
 グラン・マは背もたれに深く寄りかかったまま、しばらく口を閉ざした。膝の上で組んだ手に視線を落
とし、目蓋を下ろす。
「アンタの言うことはその通りだよ。
 ダンサーにはダンサーの誇りがある。」
 照明が消える。軽快な音楽が暗闇から聞こえだした。軌跡を描く旋律がグラン・マの輪郭を淡いグラデ
ーションで描き出している。グラン・マの意志ある瞳が確かに、グリシーヌを見つめた。
「でもね、それでもアンタに舞台に立って欲しいんだよ。」
 眩しい光と音楽が舞台から解き放たれた。グラン・マとグリシーヌの横顔が鮮やかに照らし出される。
「グリシーヌ、アンタはあの子が待ち望んだ、初めての仲間なんだから。」
 そして、黒猫エリカが両手を力いっぱい広げて舞台の中央に飛び出した。