右肩から腕を通り指先まで一筋の線を引くように前へ。手の形は鏡を見て練習した通り、中指を真っ直
ぐ伸ばし、薬指は少し曲げて親指はまるく力を抜く。肩は落としたまま肘だけを水平に上げたら、頭のて
っぺんから真っ直ぐ糸が伸びているように体の中心を意識して、左足を右の脹脛に寄せつま先立ちになる。
そうして、腕の勢いを利用しながら体を回転させる。首が後ろを向くのは一瞬。体が半分回ったら、顔だ
け先に前を向かせて残り半分を素早く回せば、理想的なターンになる。エリカは一連のイメージを頭に描
くと、鋭く息を吐いて地面を蹴った。
 風が頬で切れ、髪が弧を描いた。
 景色が二回、真横に流れる。滑らかに制止していく視界には、最初と同じ色が左右に傾くことなく映り
込んだ。体の芯は床と垂直のままで、重心は少しもぶれていない。エリカはそのまま踵を下ろすこと無く、
二度三度とゆるやかにターンを繰り返す。体の中心を支える筋肉がはっきりと今、自分を真っ直ぐに立た
せていることを感じる。氷の上を流れるように、エリカは音なく回転をする。
 そうして六度目のターンを終えると、エリカは猫のしなやかさで体を解いた。
「いいじゃないエリカ! とっても上手くなったね!!」
「本当ですか!?」
 頭に突き刺さった甲高い声に、勢いよくエリカは彼女を振り返った。居並ぶ椅子と鏡の前をダンサー達
の背中が埋め、足元にはバッグや小物入れが誰彼のと構わず入り乱れ、脱がれた白猫からフレンチカンカ
ンまでの衣装が所狭しと床や壁を埋め尽くしている。汗と化粧品の匂いを厚い舞台メイクを落とすための
たっぷりのコールドクリームの香りが掻き回し、興奮気味の声はそこら中で反射して全身を叩いた。その
化粧台の中央で、彼女は体をエリカの方へ向けて歯を見せる。
「うん、本当! 最初はただ笑顔が可愛いだけの修道女が頑張ってるって感じだったけど、
 最近のエリカは踊り子らしいもの!」
 垂れ目がちな眦をくしゃっとさせて、彼女は愛嬌たっぷりに頷いた。
「もー、なんですかその言い方ー!」
 エリカがほっぺたを膨らませてみせると、彼女はパーマをかけた短い髪を指に絡めて目を細めた。彼女
はシャノワール開業時から居る踊り子の一人だ。歳はエリカと同じで、国立音楽演劇学校で学ぶ傍ら週二
回ほどシャノワールの舞台に立っている。
「だってそうじゃない?
 振り付け師だって黒猫のワルツをもっと見栄えがよくて難しいのに変えたし、
 登場演出だって今日から変わったんだから。
 素人さんじゃあ出来ない奴にね。」
 得意げに白い歯がそのピンク色した唇から覗いた。彼女が舞台に立つ時に零す、あの宝石みたいな輝き
が溢れた。初めて彼女が踊るのを客席から見たとき、舞台奥から二度軽やかにターンをして前に出て来て、
ポーズをとって笑った瞬間にその瞳から零れた輝きが、もう一年以上も経つ今も、エリカには忘れられな
いでいる。
「まぁ、転ばなくなっただけかもしれないけど!」
「むー、素直に褒めてくださいよー!」
 一言多いのも含めて、エリカは彼女が好きだった。シャノワールの踊り子の中で、一番親しく話すのも
一番エリカの練習に個人的に付き合ってくれるのも彼女だった。シャノワールに居る踊り子の中で一番上
手いであろう彼女は、シャノワールにおける仲間であり、黒猫エリカにとって当面の目標でもある。
「だってエリカって褒めると調子に乗って転ぶでしょ?
 エリカは人一倍不器用なんだから、まだまだ頑張ることはいっぱいあるのにさ。
 例えば横にリズム取る時とか、」 
 彼女が思い出すよう上を見上げながら、親指から順に折っていこうとしたときだった。
「エリカさん、グリシーヌさんという方がお待ちですよ。」
 シャワー室から戻って来たブルネットの女性が、扉を半分開けたままエリカを呼んだ。




 昨日降った雪が薄氷となり、踏みしめる度に砕ける乾いた音が耳につく。真っ黒い空気の中へ、吐き出し
た真っ白い息が呑まれていった。
「すまなかったなエリカ、急がせてしまったろう。」
 毛皮のコートに首まで埋めて、グリシーヌがエリカを窺った。すれ違った街灯がその白い頬を一層透き通
る色に染める。
「ぜんぜんそんなことないですよ! ただちょっと話してただけですから!
 グリシーヌさんと一緒に帰れるの、とーってもうれしいです!!」
 大きく頷いて見せると、グリシーヌは安心したように「そうか。」と一言返した。
 シャノワールの閉演は21時。今はもう22時を回っているだろうモンマルトルは通り中に冬の夜が寝そ
べっている。夜気に落ちる物音は薄い。二人の足音は夜の隅までひっそりと通り抜けていく。時折二人の隙
間を、何処かで抜ける蒸気の音が微かに響いた。
「今日の舞台、とても楽しかったぞ、エリカ。
 登場から最後までずっと、そなたは皆を惹き付けてやまなかった。本当だ。」
 グリシーヌはそう言って、あどけなく笑った。全てがまあるく円を描くような優しい、屈託のない笑み。
いつもは頬にも眉にも緊張感があり同い年と思えないくらいにしっかりしている彼女が、こんな風になんの
てらいもなく笑うとき、エリカは何故だか照れを感じてしまう。変ににやけてしまいそうな口許をストール
で隠しながら、エリカは小さく頷いた。
「ありがとうございます。」
 自分の笑い声がストールの中に響いた。
 緩い坂道を見下ろすと、ここから三つ目の街灯の下に、シャノワールの看板が置かれた曲がり角がある。
そこを通り過ぎ次の角を曲がれば、もう修道院へはほんの二、三分で着いてしまう。そう気付いたとき、エ
リカの足は急に重たくなった。歩幅は小さく、持ち上げる足は引き摺りながら、エリカは喉から小さな呻き
を吐き出した。
「グリシーヌさんも舞台に立ったらいいのに。
 舞台の上の方が、もっと楽しいですよ。」
 凍結した息は大きく広がった。頭上を仰ぎ見ると、溢れた吐息の粒を集めた雲が巴里の夜空を覆っていた。
波を打つ厚い雪の塊だ。
「そうかも知れんな。」
 わずか行き過ぎてしまったグリシーヌが少し困ったように首を傾げて、その歩みをゆるやかにした。豊か
な金髪が艶やかに肩を滑り、雪と泥の混じった路面を二人の影が流れる。柄の長い戦斧の刃を覆う布が僅か
に解けた。青い布の間から覗いた刃は白い。今日、ジャン班長に頼まれて、シャノワールまで見せに行った
彼女の武器。エリカは戦斧から視線を引き剥がした。
「ダンスがダメなら、歌とかはどうなんですか。
 グリシーヌさん、張りのある綺麗な声してますし、きっと歌、お上手なんでしょう?」
 小首を傾げてエリカはグリシーヌの顔を覗き込んだ。二回瞬きをして、目だけでお願いしますと語りかけ
ると、グリシーヌは唇を結んで困った様子で眉毛を寄せた。知り合ってまだ日は浅いけれど、素直なお願い
にグリシーヌが弱いことをもうエリカは知っている。
「私は流行りの歌など知らぬぞ。
 それに、舞台に立つことを承知するわけでもない。」
 駄目だとか、ならんとかを一言目にしないで、わずかに頬を赤くしながら言い訳めいたことを口走る時は、
もう一押しすれば良い。エリカは語尾をスキップさせながら、胸の前で手を結んだ。
「えぇーお願いしますよぉ、グリシーヌさん。
 エリカはただグリシーヌさんの歌が聞きたいだけですから! ねっ?」
 頬を軽く掻いて、グリシーヌが立ち止まった。目が困ったように宙を彷徨う。
「仕方ないな。」
 一つ目の曲がり角の前、石造りの古い街を丸く照らす街灯の真下だった。橙色の滲んだ明かりがエリカと
グリシーヌを包み、道の端に溶け残った雪にも石畳の間にもその細い指先で陰影を描き出している。光の指
先が金色の睫に触れ、青い硝子の目がこちらを向いた。瞳に宿るその無限の暗がりに、体が吸い込まれ溶け
るような浮遊感がエリカの内に沸き起こる。そして、彼女が体の底から音を生み出す。

 みははマリア 身も心も とこしなえに ささげまつる

 生命が吹き付けた。
 それは迸る強い歌声だった。彼女の身に纏う自信や存在感が全て、真に彼女の内から生まれていることを
感じさせる、鼓動に満ちた歌だ。彼女という生命の息吹が紡ぐ旋律。エリカは胸の前で結んだ手に力を込め
た。

 朝な夕な 真心もて 君をのぞみ 慕いまつる

 グリシーヌがエリカを見つめて微笑んでいる。
 巴里華撃団となって一年、待ち続けた人。初めて、私を背に、彼らの前に立ちはだかってくれた人。透き
通る目を見つめ返し、エリカは目蓋を閉ざした。巴里の夜は消えて光と歌の世界に変わる。

 みめぐみこそは きよきなぐさめ

 あの時もそう、暗闇と光があった。教会の奥、小さな暖炉のある部屋へレノ神父に呼ばれた日。橙色の炎
が組まれた薪を呑んで燃え、自分の手もレノ神父の横顔も同じ色に焼いていた。そこに座りなさいと、一方
の椅子をエリカに勧めてからたっぷり十分も暖炉を見つめて、レノ神父はようやく口を開いた。
『エリカさん。
 どんなに善いと言われることをしても、あなたの中に愛がなければ、それは無に等しいものです。』
 眼鏡の奥の小さな目が、柔和に細められていた。エリカに困らせられている時の震えた声ではなく、教会
で皆に慕われている一人の物静かな神父様がエリカと共に暖炉の前に座っていた。
『あなたが何に悩んでいるか、私はあえて問い質しはしません。
 ただあなたの中にある愛に耳を傾ければ、自ずと答えは見えて来るでしょう。』
 どうして、と唇が動きそうになるのをエリカは声を呑んで止めた。火の熱を受けるその横顔が、膝の上に
置いたエリカの手を僅かに見たからだ。
 エリカの手は、ずっと震えていた。もう二日も経つのに、コップを持てば水面が揺れ、文字は言葉にはな
らなかった。初めてあんなに機関銃を撃ち駆け回ったから疲れているだけだと言い訳しても、もう終わった
ことなんだから忘れようと言い聞かせても、震えが止まらなかった。夜になる度、同じ夢を見た。
 自分が機関銃を連射し、何十発もの弾丸を受けて獣が体液と絶叫を撒き散らしながら絶命する夢だ。
 いくら生き物でないと言い聞かせ、いくらあれは倒さねばならない悪だと叫んでみても、手に残る震えが
全てを否定した。巴里を彷徨う霊的脅威。かつては生き、何処かで死んで、その後も行き場所のない影。

 かがやかしき きみがかむり

 どうして私は、彼らを撃つことしか出来ないんだろう、と。
 炎に揺れる指の影へ、レノ神父の声は注がれた。
『全てのものは神から生まれたのです。
 神は愛です。愛とは情け深く、真実を喜び、全てを忍び、全てを望み、全てに耐える。
 決して滅びない。』

 うるわしき きみがえまい

 エリカは顔を上げた。レノ神父の皺だらけの手がエリカの手の甲にそっと触れた。
『主イエス・キリストの恵みが、あなたの霊と共にあるように。』
 二人の間には、暖炉の炎だけがあった。

 ああ我ら深く 慕いまつる

 最後の一音が夜風に溶けた。
 エリカは閉ざしていた目蓋を押し上げた。そこにはたった二歩の距離でグリシーヌが立っていて、照れた
ように髪を掻きあげていた。光の輪の外では残雪がいくつも光を弾いてまるで、舞台から見る拍手のように
瞬いている。
「どうだった、エリカ。」
 エリカは一度目を閉じて大きく息を吸う。目蓋に浮かんだ景色が流れて、その間ずっと自分を包んでいた
音楽が体を浚っていった。
「とっても素晴らしかったです!
 グリシーヌさんはシャノワールの歌姫で決まりですね!」
 エリカが満面の笑みを花咲かせると、照れた様子で目を伏せてグリシーヌがそっぽを向いた。
 その睫の先に、光の粒が煌めいている。