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 青い瞳に白い破片が吸い込まれる。
 肩を震わせて反射的に右目を覆い、彼女は暗闇の中で瞬きを繰り返した。目蓋の内に痛みはなく、一筋の
冷たさが広がる。
「雪、降って来ちゃいましたね。」
 エリカが掌を差し掛けて、空を仰いだ。その掌に落ちる硝子片は、縁から溶け出して水滴へと形をなくす。
大きく吐き出した息も細切れに道の隅に呑まれ、街灯の暈が遠ざかれば輪郭も濃紺に滲む。
「そなたが歌わせるから。」
 グリシーヌがちらと目配せをすると、エリカはふふんと上機嫌にステップを踏んだ。亜麻色した髪から、
雪の欠片が落ちる。
「グリシーヌさんの歌声聞いちゃったー、っと!
 エリカ、今日の思い出をたーいせつにとっておきますね!」
 左右に大きく広げた手の先が夜闇に翻った。こじんまりとしたアパルトマンの間から、丘の下に広がる巴
里の夜景を見晴るかす。エリカの指はその巴里の灯を絡めとり、坂の街を足は軽く跳ねていく。石畳の上へ
新しい雪は見る間に降り積もり、靴底で氷を割る小気味良い感触が起こった。
「歌くらいで大げさだな、エリカは。」
 腰に手を当ててグリシーヌは肩を竦めた。
「ぜんぜん大げさじゃないですよ! 私、とってもうれしかったんですから!」
 足を止め、背中で両手を結んで、エリカはくるりと振り返りグリシーヌを見上げた。グリシーヌは照れた
ような困ったような風に眉根を寄せてわずかに首を傾げてみせる。エリカが本当に、どれほど嬉しかったか、
グリシーヌはわかっていない。一年、どれほどその歌声を待ったか、グリシーヌは知らない。でも知らなく
てかまわない。
「本当に、ありがとうございます!」
 エリカは頬がとろける程の満面の笑みをグリシーヌに贈った。恥ずかしそうにグリシーヌが染めた頬を、
雪で描かれた風が撫でた。
 もう教会は目の前だった。鐘楼は灰色の空を切り取って聳え、荘厳な呼吸で以て二人を見下ろしている。
雪の降る音が、わずか静寂の間に聞こえた。
「今日はわざわざ送ってくれてありがとうございました!
 もうこんな時間ですから、グリシーヌさんこそ気をつけて下さいね。」
 エリカは胸を開き大きな声を広げ、グリシーヌの手を両手で握り締めた。手袋越しにもグリシーヌの手の
重みや形がわかって、その指先に戸惑うような微かな力が籠るのが伝わる。
「それじゃあ、おやすみなさい!」
 早口で捲し立て、エリカは教会へあがる石段に飛び乗った。離れた掌を、夜風が擦り抜ける。
「エリカ!」
 その手が、後ろから握られた。
 雪に染み込むような声音だった。穏やかで、そうあの歌声のように伸びやかな声。エリカは天から続き、
教会も自分も包もうとする雪の中、何故か一瞬彼女に向き直るのを躊躇った。心臓が急に胸の内で熱く体を
叩く。エリカは目を閉じて空を仰いだ。それから、ゆっくり彼女を振り返る。
 通りに散らばる光が、グリシーヌの周りに舞う雪を煌めかせている。グリシーヌは今度こそ強く、エリカ
の手を握り締めた。
「舞台、本当によかった。
 またそなたの舞台を観に行きたいと思う。」
 その指先から、熱い生命を感じる。白い息、その細かな氷の粒が二人の間を吹く雪と踊り、夜に広がって
行った。グリシーヌはエリカを見つめ、ただ嬉しそうに笑った。
「エリカ、私達は巴里華撃団・花組だ。
 これからよろしく頼む。」

 夜に追われる背中が角を曲がって見えなくなり、風が吹き散らすのを足音と聞き違えるのも難しくなるま
で、エリカは手を中途半端にあげたまま立ち尽くしていた。その数分のうちに手袋に包まれた指先は冷え、
ブーツにも寒気が染み込んだ。エリカは首を震わせるとストールを引き上げ、口許まですっぽりと覆った。
そのまま三歩、四歩と後ずさる。誰も通らないぽっかりと開いた夜道、向かいの斜面に立ったアパルトマン
の部屋から漏れ出る光が明るい。
 エリカは教会の外壁に背中から倒れ込むと、そのままずるずると地面に座り込んだ。そうして、深いため
息を吐く。
「花組・・・花組かぁ・・・・。」
 呟いた声が白く煌めいて、風に流れた。雪が解けて尻は冷たく、街中間断なく降り続く雪がエリカの上に
も積もる。暗闇から無限のように続く、息と同じ色をした欠片。エリカはストールに口を埋めると両膝を抱
えて想いを空中に描いた。
「私、もう本当に一人じゃないんだ。」
 音にした言葉に唇が震えてしまいそうだった。足に押し付けた胸が鼓動と共に動いている。
「グリシーヌさん、かぁ。」
 その名前を、エリカは噛み締めた。太腿に硬い金属の塊が触れている。一年ですっかり馴れて、もう重た
いとも感じなくなった機関銃の銃身。いつもエリカが握り締め、エリカを走らせていたもの。いつであろう
と、彼らに出会ってしまったらその場で倒さなければならない。その場を逃すということは、市民に被害を
出すということを意味する、そのために。震えても一人でいなければならなかった。
 でも、もう一人で立っていなくていい。隣に彼女が居てくれる。

 私が銃弾に祈りを込め、引き金を絞るその時にも。

「日記にでも書ーこおっ!」
 ジャンプして立ち上がると、エリカは肩にも頭にも、体中にはりついた雪を手で払い落とした。
 教会の扉は蝶番が錆びついて古く、鈍い音を立てて動いた。外よりも暗く、雪の降る音すらしない、自分
の呼吸に満たされる神の世界がそこにはある。左右の柱廊部にある小さな祭壇に献じられた蝋燭の明かりは、
万物に宿る神の息吹を揺れる影の中に顕す。エリカは後ろ手にそっと、扉を閉めた。
 身廊部には木の椅子が二列に並び、三枚のステンドグラスの元に築かれた十字架を仰いでいる。硝子の湛
えた光の中で、神の子は人を見つめ、十二使徒は天を仰いでいる。
 その足元に一つの人影が立っていた。遠目にも解る程に斑に汚れた半端な丈の外套で頭まで隠し、祭壇を
仰ぐでもなく立ち尽くしている。雪が降っているから教会に身を寄せた、住む所を持たない人だろう。エリ
カは後ろ姿を横目に、後ろから二番目の椅子に手を掛けた。腰を下ろそうと回り込むその時、太腿が椅子の
背に当たり、金属がぶつかる硬い音が響いた。
 その人影が振り返る。
 フードの中に顔はなかった。ただ毛で覆われた獣の頭部がある。

 それを人は、霊的脅威と呼んだ。