硝子絵画の向こうを、雪の影が舞い落ちる。

 ここは、無償の愛を請う不滅の時空だ。
 この世の全ての物を、己の全てを赦して下さる神の慈悲を願う場所。この身にいかなる不義があり、罪が
あり、過去があろうと、神は常に人を赦し、生を注いで下さっている。そして、己が人を愛するのと同じよ
うに、人と人が互いに愛し合って生きていくことを願っていらっしゃる。己が全てを赦し、鳥や獣にも日ご
との糧を与えるように、人も互いを赦し、持つ者は持たざる者へ分け与え、互いを愛し合いながら生きてい
くようにと。
 ここは、黄金の愛を顕せるよう祈る救いの世界だ。
 愛そのものである神が作り出した私たちのうちにある愛を、神と同じように人に向けること。己の敵でさ
え赦し、倒れている者にはそれが何者であれ手を伸ばし、自ら他者の隣人となり、彼ら全てに等しく捧げる
こと。その慈悲の源泉。その黄金の愛を、恐れを持ち、欲が深く、欺瞞を語る、この冷酷な肉の体を持つ自
分でも曇りなく人に捧げられるよう願う場所。
 フードを目深に被った獣の頭部が、ゆっくりと左に傾げる。
 今、彼もその果てしない愛の元に安らぎを得ようとしているのだと、エリカは思おうとした。それは、強
い願いと同じに胸を締め付け痛ませる。コートの上から握り締めた胸元の十字架、その先端が鎖骨を擦る。
 どうか、そう、その体が自然と光に解れ、天へと溶けていきますよう。噛み締めた奥歯の間にある祈り。
その傍らで、太腿にくくり付けた金属の塊は冷えきって、存在が頭から離れない。もし、彼がこの神の場で
も、そうやってその存在を洗われないのであれば、
 人の体躯を象った獣が、頭上をわずか仰いだ。鼻梁は長く、蝋燭の明かりに霞んだ影は犬の頭部を想起さ
せる。目も鼻も、口すらなく体毛にびっしりと覆われた肉体はしかし、呼吸をしているように震えている。
彼らは生きているうちの恨みも怒りも何もかも救われることなく、死した後も死ぬことが出来ずに彷徨う、
ただ愛ある手を待つ一個の存在。導かれるべき羊。
 彼らは神の御元に辿り着いて安らぎを得られるのだと、そう、信じてきた。引き金を絞ることは、彼らを
安寧の地へ送ることだと思ってきた。それが彼らのためとなる、最も慈悲ある行動だと。それが主の恵だと。

 だがもし、彼がこの神の場でも、そうやってその存在を洗われないのであれば、

 エリカは太腿に手を滑らせた。銀の燭台で蝋燭が揺れる。教会という外界と隔絶された盤石の神殿で。獣
の姿はわずかに膨らみ、顎は痙攣を始め、その振動は体中に伝わって奇妙にべったりとしたコートの裾が床
を擦り震える。

 その時には、

 大天使の名を借りた機銃、その銃身には二つの言葉がヘブライ語で刻んである。エリカは右手を十字架に、
左手を銃身に掛けた不自然な姿勢のまま、汗の滲んだ爪先に力を込めた。
 獣の体がわずかに歪む。そして、
「ぉぉぉおおおオオオオオオッ!!」
肉が割れ、赤黒い血を吹き散らしながら顔面に狼の口が現れた。迸る咆哮は霊力を伴い、居並ぶ椅子の列を
戦慄かせる。教会の石柱にも床にも裂傷が走る。エリカが顔を庇った右手、その掌が霊力を受け止め、中指
から手首に到るまで切れた。鋭い痛みと共に液体が溢れ出る。指から垂れる血の間から、エリカはその霊的
脅威を見た。手を離れた十字架が、胸元を滑り落ちる。

 私は神の絶えなる世界から、彼を滅ぼさなくてはらない。
『主イエス・キリストの恵みが、あなたの霊と共にあるように。』

「アアアアアアアアアアアッ!!」
 怪人の絶叫を聞くと同時に、エリカは床を蹴って二転三転しながら石柱の後ろに回り込んだ。ぶつけた体
の至る所に衝撃が走り、右手はまるでそこが心臓になったかのように鼓動の度に鋭く痛む。獣の妖力は背を
預けた太い柱を爆音と共に削り取る。エリカは常に携帯している小型の通信機をコートの上から拳で叩いて
押すと、太腿のベルトから機関銃を素早く取り外した。金属が組み上がる硬質な手応えが血塗れの手から伝
わる。ヘブライ語の二つの言葉が血液に濡れた。
 怪人が走る息遣いと音が響く。続いたのは、椅子が砕けるけたたましい破壊音だ。木片が降り注ぎ、床に
無惨に跳ね転がる。エリカは組み上げた機関銃を両腕で構えると、石柱に背を貼り付けて安全機構を解除し
た。再び放たれた咆哮が石柱に割れてエリカの左右を駆け抜けた。斬りつけられた石材が砂埃と礫を撒き散
らす。華撃団司令室に救援信号を出し、支援が到着するまでは平均して十五分。エリカ一人では、この教会
の奥、修道院に居る者を避難させることは出来ない。通りを閉鎖することもできない。支援が来るまでのお
よそ十五分間、エリカはこの教会内からあの獣を逃がすことはできない。
 すなわち、ここで撃たねばならない。
 覚悟は出来ている。二度目に銃を持ったあの時に。
 太腿が強い力で床を捉えた。柱を回り込んで来ようという魔性へ、エリカは身を翻す。機関銃を向け、引
き金に指を掛け、爆薬の炸裂に耐えるべく体を硬くして、教会堂の中央へ躍り出た。獣は跳躍した。人を遥
かに上回る身軽さで、影さえ差してしまう高い教会の天井へ向けて、そのアーチの袂まで浮き上がる。使徒
の姿を越えて高く、その姿が円形のステンドグラスに重なった。
 それが最高点、動きが止まる一瞬。
 始まりも終わりもない完全なる円で象られた天の国は、硝子の芸術と永久の安らぎに満ちている。降り注
ぐ淡い光が、色鮮やかな天の輝きが、その汚れた醜い体に映る、一瞬。
 エリカの機関銃に血が垂れている。その血は、銃身に刻んだもう一つの言葉に入り込む。それは、初めて
の戦闘の時、撃つのが恐ろしくて逃げたエリカに、グラン・マが掛けた言葉。あれはアンタが気に病むよう
な存在じゃない、しようもない恨みの滓で、都市の輝きがねたましくて仕方ないのだと。アンタにどう見え
ようと、あれは平和な街を脅かす敵に過ぎないと。彼らは羊ではないと。

『にせ預言者を警戒せよ。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼である。』

 彼らは、私が案じなければならないような者ではない、
 この機関銃で彼らを救える、

 二つの言葉が今、自らの血に濡れている。
 銃口は天の国に居てもなお、苦悶の顔を見せる獣を向いて、死しても苦しむ人に向かって、

 こんなの、
「私がにせ預言者じゃないですか!!」

 引き金はついに引けなかった。
 獣は空を蹴ると、真っ直ぐにエリカに飛びかかった。恐ろしい臭気を放つ口が開き、濁った色した爪が振
り上げられる。エリカは右へ体をかわそうと、つんのめりながら足を踏み出した。砕けた椅子の残骸に膝が
ぶつかり、転びながら献灯台に突っ込んだ。火の付いた蝋燭の雨が降る。
「オオオオアアアアアッ!」
 床を抉った獣が踵を返してエリカに向かった。その影がエリカの上に落ちる。黄色く濁った目と、エリカ
の目が合った。
「エリカっ!!」
 けたたましく教会の扉を蹴散らして、一つの人影が雪と路地の明かりを連れて飛び込んだ。その腕が掴ん
だ斧は既に振り上げられていて、目の前にある獣の胴体を猛る目が捉えている。
「砕けろぉぉおおおっ!」 
 銀の軌跡を描いて、斧が獣の胴体を切った。獣は絶叫しながら教会の奥へ飛び退る。
「あ・・・あぁ・・・。」
 エリカは座り込んだまま、彼女を見上げた。
 グリシーヌ・ブルーメールが白銀の斧を携えて、エリカを背に立ちはだかる。雪が光を反射して吹き込ん
でいた。