心臓がちぎれそうなほど痛かった。
「エリカ、無事か!?」
 床にこぼれた火が、鼓動と同じに揺れている。自分の震える呼気に乱されて、体が指先まで戦慄いていた。
唾液を呑み込む音すら聞こえないほど心拍がうるさい。

 待っていた。

「エリカ!」
 仄かな明かりを受けて、一つの背中が私を庇い立ちはだかっている。数枚の雪を乗せた肩を大きく上下さ
せ、真っ白い息を荒く暗闇に削りだしながら。迸る強い声が、
「エリカっ!」
私の名前を呼んでいる。

 一年、ずっと、

「ほんとうに」
 握った手の中で、幾重にも塗り重ねられた血液がぬるりと滑った。エリカは噛み締めていた唇を開いて、
震える息を漏らす。

 あなたのことを

「ほんとうに、来て・・・。」
 汗と雪に濡れた頬に緊張を走らせ、彼女は肩越しにエリカを振り向いた。淡い色だけが生き残る教会の薄
闇の中、グリシーヌはエリカを見つめ、目元を微かにやわらげる。輪郭にうっすらと光をちりばめて。
「ギイィィィアアアアアアアアッ!!!」
 けたたましい獣の絶叫が礼拝堂を貫いた。祭壇の上に四つ足をついた怪人が、脇腹を引き裂いた傷から黒
い液体を撒き散らす。血液は跳ね回り、その死の苦しみで原罪を濯ぐ神の子の十字架にもかかった。グリシ
ーヌは体をわずか沈め、白銀の斧を二つの腕で握り締める。
「ここはまかせろ!」
 言い放ち、グリシーヌは教会の中央をその深遠へと至る道を走る一条の軌跡になった。金色の長い髪がエ
リカの記憶にあざやかに灼きつく。高い天井から落ちる長大なアーチの下で、獣が怨嗟に塗れた形相で吼え
る。澱んだ目の縁まで飛び散る唾液が跳ねた。
「いくぞ!」
 鋭い叫びと共に、グリシーヌは戦斧を大上段へと振り上げた。獣は四つ足で祭壇を蹴りグリシーヌに突進
する。爪と斧は激しく打ち合い、教会堂に金属の輝きで以て打撃音を響かせる。下から掬い上げる一撃に、
グリシーヌの足がわずか宙に浮き上がる。力は怪人の方が遥かに強かった。だがグリシーヌの方が技術は上
だ。彼女は刃を寝かせ、打ち合わせた一撃を即座に流すとなめらかな動作で半身を退いた。その空白を獣の
もう一方の腕が遅れて掻けば、空ぶったその重心は傾いた。
 刹那、グリシーヌは一歩踏み込んだ。槍の刃を持った柄の先でもって、狼の顎を横凪ぎに打ち払う。斧は
皮膚を引き裂き、深い肉が空気に晒され赤黒い液体が噴き出した。
 エリカは硬い唾液を呑み込んだ。血を切っ先から迸らせながら戦斧は舞い、怪人に決定的な一撃を加える
ために再び高く掲げられた。銀色した刃にステンドグラスの光が宿る。薔薇窓から落ちる天上のひとひら。
エリカは胸元の十字架に汚れた右手を伸ばした。
 黄色く濁った獣の両眼が憤激に歪んだ。
「、く−−−っ!」
 グリシーヌが身を屈める動作は早かった。怪人の蹴りは彼女の頭上を吹き過ぎ、髪が数本対流に飲まれた。
彼女は空振り無防備になる胴を断つため、右足を強く踏み出した。しかしその分厚い体毛に覆われた足が持
つ異常なまでの力を理解していなかった。獣は蹴り上げた足を無理矢理ひきつけた、常人には出来ない早さ
で。ただ彼女に一撃を加えたいがためだけに。
 まるで板を踏み抜くような動作で、獣の足は、グリシーヌの横面を蹴り抜いた。
 エリカには、悲鳴を上げる間もなかった。
 嘘のようにグリシーヌの体は空中でぐるっと一回転して、背中から石の床に叩き付けられた。無理矢理体
から息を吐き出させられる濁った声と、肉体と石とが立てる鈍い音の後には、沈黙があった。
 恐ろしい静寂を、エリカは咄嗟に機関銃へと手を伸ばした。しかし拾い上げようとした機関銃は銃身がひ
しゃげている。なんで−−−、体中を吹き抜けた感情すべてを吹き飛ばし、エリカは絶叫した。
「グリシーヌさんっ!!」
 エリカは粘土の如く重たい体で、一秒に満たない許された時間をもがいた。走り出そうと体を持ち上げた
太腿、その遥か先で腕が振り下ろされる。エリカの血塗れの手が遠い景色をひっかいた。
「やめてぇえええええええええっ!!」
 斧が金属の美しさを零した。
 ステンドグラスから透ける雪明かりか、仄青く輪郭を縁取られた斧は叩き付けられた獣の腕を強く弾いた。
瞬きの間だけ生み出された銀の月に腕を傷つけられ、獣は大きく退いた。獣は衰えぬ脚力で側廊部上段の細
い廊下に取り付くと、粘ついた眼差しでグリシーヌを見下ろした。グリシーヌは獣を見上げたまま、青い衣
を翻し、斧を両手に立ち上がった。
 柱時計の鐘が教会の中に木霊する。
 それは時を告げる鐘だった。レノ神父がこの礼拝堂へ一人、聖書を読むために訪れる時刻。彼は必ずここ
に来るだろう、日頃と同じように。救難信号を出して五分と経っていない、誰も彼がここに来るのを阻みは
しない。エリカはだから、彼を止めるために走らなければならなかった。けれど、エリカの足は床に溶けて
繋がって、動かなかった。
 薔薇窓が象る幸福な光の中に、グリシーヌは立っていた。降り注ぐ完全なる天の国は、彼女の整った鼻梁
も細い体躯も白銀の斧も、およそ全てを燐光に包んでいる。吐き出される息すら色づいて、破片が瞬く。彼
女の横顔を隠す豊かな金髪も、様々な色に透けてまるで羽根のようで。その世界に、新たな一色が溢れだし
ていく。彼女の右肩から背に掛けて、あざやかでさらさらとなめらかな赤色が重力に引かれるまま広がって
いく。服はその色を含んで重たく垂れ、腕を伝って斧にまで色彩の洪水は繋がっていた。長い髪にも絡み、
螺旋を描いて赤色は滴る。
「エリカ・・・、すまない。」
 結晶の声だった。エリカは自分の心臓と裂けた右手の平が鼓動する煩さに目が眩んだ。その言葉の意味を、
エリカは理解することが出来ない。硬くて歪な形をしていて、耳の中にも頭の中にも入って来なかった。床
に落ちたストールに蝋燭から火が移り、炎が上がっている。
 謝らないといけないのは、こっちの方だ。もう今にもレノ神父が教会に入って来るから止めに行かなけれ
ばならないことを、機関銃は壊れてしまって自室に隠しておいてある一丁を取りに行かねばならないことを、
告げなければならない。エリカは奥歯を噛み締めた。喉が詰まって吐き気がする程に強く。違う大丈夫だ、
グリシーヌをレノ神父と逃がし、自分が一人で怪人を相手にして支援部隊が銃を届けてくれるのを待てばい
いんだ大丈夫。
「レノ神父が間もなくここに来る筈です。
 グリシーヌさんはレノ神父と避難」
 鐘の音が止まるのと同時、霊力を伴った獣の咆哮がグリシーヌに叩き付けた。石を削り、木製の長椅子を
叩き割る鋭い不可視の刃を避け、グリシーヌは後方に逃れた。「グリシーヌさん!」エリカの怒声も蹴散ら
して、憎悪の塊は今一度、グリシーヌへと牙を剥いた。斧の柄で牙を弾く、その力に押し出されまた赤色が
零れ出した。肩から溢れては足元に溜まっていくそれは、
「エリカ、走れぇええええええっ!!!」
 グリシーヌがあらん限りの声で叫んだ。
 その顔がエリカを向く。肩と同じように頬が二つの爪痕で大きく抉られていた。止まらない血が、傷口か
ら迸っている。彼女の白い顔を真っ赤に染めて。
「あああああああああああっ!!!!」
 エリカは空気を打ち破って走り出した。長く悲鳴の尾を引かせ、教会奥にある小さな一枚の木の扉に向かっ
て、人をここから退けるために、己が武器を取るために、彼女を一人残すために。