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 早く。
 エリカは木の扉を肩で破り廊下に飛び出した。あまりの勢いに狭い廊下の壁に激突し、衝撃に視界が揺ら
ぐ。バランスを崩したまま壁で体を削りながら二歩走る、その背後を「ぅ、ああっ!!」呻き声とけたたま
しい破壊音が追い立てる。エリカは壁を手で突き飛ばし、ようやく真っ直ぐ廊下を足で捉え、一目散に廊下
を駆け抜ける。遠ざかる断続的な咆哮がエリカを撃つ。
 早く。
 あれは木の椅子が砕ける音だから大丈夫、彼女の声もまだ聞こえるから例えそれが悲鳴じみていたとして
もまだ、まだ大丈夫。獣の遠吠えが聞こえる。エリカは震える唇を噛み締めた。酷い怪我だった。きっと耳
の裏から口元まで裂けているのだろう、顔の右半分は血塗れで金髪がべったりと傷口に絡み付いていた。暗
くて距離も遠くて見ていられなくてよくわからなかったけれどもしかしたら。
「は、あぁ・・・っ。」
 手をエリカは自分の右頬に這わせた。濡れた平が頬に貼り付く。頬なんてやわらかいもので、すぐ傍には
耳があって、こんなところをあんなに深く傷つけられたら。治してあげられるの、あんな傷を、ちゃんと元
通りにしてあげられるの。たった掌一枚分を治すくらいしか出来ない自分に。もし戻った時にもっと深い傷
を負ってしまっていたら私は、私にどうにかしてあげられるの。もし、もし私が間に合わなかったら、その
時は
 廊下の先、はめ殺しの窓の前でエリカは床を思いっきり蹴りつけて足を無理矢理止め、修道院へ続く中庭
へと出る扉を殴り開けた。右手の平で鋭い痛みが破裂する。
「エリカさん。」
 冷たい外気が剥き出しの頬を突き刺した。エリカは弾かれてそちらを振り返る。白い息を零し、中庭を取
り囲む吹きさらしの廊下を、レノ神父がこちらに歩いて来ていた。
「レノ神父!」
 急にエリカの足は縺れて、半ば転がるようにレノ神父に駆け寄った。廊下の隅まで入り込んだ雪が爪先で
跳ねる。
「レノ神父! 逃げてください!」
 キャレックの肩口に縋り、エリカはレノに訴える。レノはエリカの顔を見据えると目を丸くした。
「エリカさん、な、・・・何があったんですか!?
 血が・・・。」
「いいから早く! 時間がないんです!!
 皆を連れて逃げてください!」
 早くしてよどうしてわからないの、エリカは突然噴き出してきた怒りに顔面を歪ませながら、レノに向か
って怒鳴りつけた。半ば叩くようにレノを押すと、しかし、彼はよろめくでもなく踵を返して走り出すでも
なく、ただ読み古した聖書を持ち直した。そうして、エリカの肩を両手で掴んだ。レノが目線の高さをあわ
せるよう腰を屈め、エリカを覗き込む。
「エリカさん落ち着いて。
 何が起こったかわからないと、誰もちゃんと逃げられませんよ。
 ほら、息を大きく吸って。」
 黒く塗り潰したレノの目に、青白い光が流れ込んでいる。中庭に降り続く雪が放つ、光の粒子だ。夜空の
もと修道院は雪明かりに包まれ、レノ神父の輪郭は角が取れてまるく縁取られていた。エリカは瞬きをして
唾を呑み込んだ。肺を膨らませ大きく息を吸い込むと、思考が脳裏で一巡する。
「さあ、落ち着いて話してください。」
 レノの口から、白い息が広がる。エリカは胸から提げた十字架を右手で握り締めると、目蓋を下ろした。
「火事です! 礼拝堂で献灯台が倒れて火が出ました。
 レノ神父は皆を修道院の裏に逃がして下さい。」
 口からはあっさりと嘘が出た。
 顔をあげると、レノ神父の当惑した眼差しと視線があった。レノはエリカの肩に手を置いたまま黙り込む。
白い息が三度、二人の間に広がっては風に散り散りに消えた。
「わかりました。」
 レノ神父はゆっくり頷いた。
「エリカさん、行きましょう。
 早く皆を起こして、全員で逃げなければ。」
 聖書を持った手でレノ神父はエリカの肩を促した。
 雪の降り積もるやわらかな音に埋め尽くされそうな耳に、遠く、獣の遠吠えが聞こえる。エリカは思わず
唇を噛み締めた。痛くて、涙が滲みそうな程に強く。レノの腕に押されて、足が半歩前に出る。彼は十字架
を握り続けるエリカの右手を、そっと包んだ。太い節くれ立った手だった。
「そんなに強く握り締めてはいけません。
 怪我をしているのでしょう、手当しなければ。」
 レノの太い指が手の甲に触れる。中指から手首まで一直線に切れたエリカの手は、乾いた血と傷口にねじ
込まれる十字架が新たに絞り出す血液とで、袖までべたべたに汚れていた。服の胸元には幾つもの染みがで
き、鎖は指と傷に絡み付いて神経に障る。
「一人で恐かったでしょう、さあ、急いで。
 皆を起こして、それから消防旅団も呼ばなければ。」
 突然、手が燃えるように痛い。もう一つここに心臓ができてしまったみたいに脈動し腫れ上がっている。
レノはそっと、エリカの指を十字架から解かせた。固まった血で中指と人差し指は貼り付き、傷口に食い込
んだ犠牲と救済の象徴は赤黒く粘ついた液体に塗れている。肌を引き攣らせながら血は剥がれ、十字は胸元
へ落ちた。
 エリカはレノの手を避けた。
 痛みを押さえるよう右手首を握り、微かに頬を解く。皮膚が不自然に突っ張って、そこで血が固まってい
るのがわかった。
「私は先に警報機を鳴らしに行きます。
 レノ神父は皆の誘導をしてください。
 皆が出たことを確認してから、私は出ますから。」
 雪の破片が廊下に吹き込む。二人の間を真っ白く吹き抜け、レノのキャレックを染め、エリカの掌で溶け
た。その冷たさが傷に染みる。
「手当は結構ですから。
 この位の怪我、私が大丈夫なことを、神父さまもご存知でしょう。」
「そんなことはありません、エリカさん、あなたも一緒に行くんです。」
 レノは即座に首を振った。彼の手は優しい手だと、エリカは思う。気が弱くて、でもその分優しくて、今
までたくさんの苦労をしながら、人の気持ちを助けてきた手。深い皺の刻まれた手は乾燥して、日々の仕事
が染み付いてあたたかい。
 でも、その手は違う。
「エリカさん!」
 優しい手が伸びる。
「レノ神父、みんなのことは頼みました!」
 それを振り切ってエリカは走り出した。

 違う。

 エリカは暗闇の中、修道院の扉のすぐ内側にある火災警報機を叩いた。突如鳴りだした非常ベルが夜を切
り裂いてエリカをも貫く。修道院中に動揺が走る気配が壁や天井を越えて伝わって来る、それをエリカは黙
って眺めた。これで、陸軍パリ消防工兵旅団にまで出動の連絡が行く筈だ。彼らがモンマルトルのこの教会
にたどり着くよりも早く、華撃団の後方支援部隊がやってくるだろう。これで、自分がしなければならない
ことは、たった一つになった。
 廊下を行き交う足音を避け、エリカは修道院の端にある自分の部屋に滑り込んだ。扉は開いていた、きっ
と誰かがエリカのことを確認してくれたのだろう、エリカは窓から差し込む街灯だけを頼りにクロゼットを
開いた。ならぶ修道服を押しのけ、背面の板を外す。
 青く輪郭の溶ける夜の中、それより一層黒い鉄の塊がそこで密かに呼吸していた。新造したばかりの名前
もない機関銃が、エリカの生活の奥底でこちらを見つめている。
 自分がしなければならないことは、たった一つだ。
 エリカはその、金属の塊に手を伸ばした。手が、顔が、噎せ返えりそうな程に錆臭い。手が違う生き物に
なってしまったみたいに痛くて、目が熱い。エリカは唇を噛んだ。嫌な音が頭の中に響いて、血の味が滲ん
だ。
 違う。
 いくら私を包んでくれていくら私を気遣ってくれていくら愛に満ちていたとして、レノ神父の手は違う。
 皆の手は私とは違う。
 エリカは目を硬く瞑って、奥歯に力を込めた。機関銃を掴むと、指先から肩まで一息に冷たさが駆け抜け
た。私にはしなければならないことがある。救うことも、赦すことも出来ない私に出来る、唯一のこと。偽
物の私に出来るたった一つのことを、私はしなければならない。
 私はこの銃で、彼を撃つために、
 わたしは
「わたし・・・・、そんなことしたくない。」
 零れてしまった自分の声を聴いた瞬間、涙が両目から溢れた。