いけない、咄嗟に顔を覆った両手、その指の隙間から涙はぼろぼろと零れ落ちた。大きな粒が流れ視界が
揺らいで青と黒だけの朧な夜が崩れる。機関銃を取って、銃弾を詰めて、教会まで走らなければ。そう何度
唱えても、手が動かない。嗚咽を噛潰そうとしても、息が震えてしまう。
 今すぐ行かないと、あの人が、私のためにここまで来てしまったあの人が、死んでしまうかも知れないの
に。
「ぅ・・・うぅあ・・・・っ。」
 涙が首まで流れ、エリカは左手で強く目を擦った。それでも溢れるものは止まらなくて、乾かない涙で手
も顔もべったりと濡れた。嗚咽の絡んだ自分の声が、か細くクロゼットの中に転がる。
 ねぇ、これは、殺すこととどう違うの。
 怪人を銃で撃つことと、生き物を殺すことの何が違うの。怪物だからといって何か違うの。叫んで、血を
流して、苦しんで倒れるその姿のどこが殺すことと違うの。銃弾を込めることも、銃を誰かに向けることも、
引き金に指をかけることも、その何もかもが恐くて仕方ないのに、撃つことは何より気持ち悪いのに。引き
金の感触も、反動も、当たった手応えも、血も悲鳴も、死体も。
 何が殺すことと違うの。
 私はただ信じていただけ、妄信していただけ、自分を正しくするために。他の人が正しいということを目
を塞いだまま呑み込んだだけ。本当は誰も救われてなんかいないのに。戦えば、こんな力を持った自分でも
居場所があるような気がしたから。何か、本当に何かのためになれるような気がしたから、ただそれだけの
理由で。ただ私のためだけに。
「・・・わ、わた、しは・・・・ぁっ。」
 目頭を涙が熱く灼いた。エリカは奥歯を噛んで、口の隙間から細い息を吐く。息は、暗闇の中でも白く濁
った。生臭い血の匂いが口から体に流れ込んできて、吐き気が胸の奥に塊となって込み上げる。エリカは息
を止めて、粘ついた唾液を呑み込んだ。
 掌を握り締めると、腫れ上がった傷口に汗が染み、血が何筋も溢れ出た。わかっている、こんな傷すぐに
でも治せる、それこそこうやって目も瞑ったまま、一つ息を吸うだけで治してしまえる。
 白い光。
 人を癒す光。
 私は、本当はこの力が、心の底から嫌いだった。
「わたし、・・・もうやだ・・・・。」
 膝から力が抜けて、エリカはクロゼットの底板に突っ伏した。暗闇の中見ることをやめて、掌の中で反響
する自分の呼吸だけ聴いて、生臭い空気だけ吸って。涙が目蓋に滲んで、ゆっくり溢れて頬を伝うのを、た
だ感じていた。
 結局、どんな言葉をくれたって、グラン・マもジャン班長もみんな自分に銃を握らせてただ遠くにいるだ
けだ。レノ神父も、シャノワールの誰も、誰も隣にはいてくれない。誰も隣には来れない、同じ力を持って
いないから。
 どうして私なの。
 私はこんな力、欲しいと思ったことなんて一度もないのに。
「おとうさん・・・、おかあさん。」
 エリカは目を瞑って、自分の腕の中に顔を埋めて、ただ小さな塊になった。辺りは真っ暗だ、自分の鼓動
も遠くて、部屋の外にあった人の気配はもっと遠くて。本当は、レノ神父と一緒に行きたかった。誰かに、
傷の手当だってしてもらいたかった。みんなと一緒に。本当は、ずっと一人で恐かったのに。こんな力さえ
なければレノ神父と一緒に行けたのに。こんな力さえなければ友達と一緒に学校にも通って、ただのどじな
子でいられたのに。
 こんな力さえなければ今も、お父さんとお母さんと一緒に暮らしていられたのに、どうして。 
「おとうさん、帰りたいよ・・・。」
 いま、昔みたいに涙を拭ってくれる、あの手が欲しい。私を、好きだと、愛していると言ってくれる声が、
頬にあの口づけが欲しい。人の怪我を治せるから、それがなんだっていうの。ただ無闇に怖がられて、都合
の良いように持ち上げられて、そこに何の意味があるというの。最後の言葉はいつも、怖いの一言で。わず
かな感謝なんて一つも要らないから、もう全部捨てしまいたい。全部捨てて、あのあたたかな灯火の中に帰
りたい。
 でも、帰れないことを、私が一番知っている。
 いつか、ずっと昔、自分に向けられた目が蘇る。一緒に遊んでいた男の子が転んで深く膝を切って、血が
いっぱい出て痛そうに泣いたとき、この右の掌に灯した光で怪我を治したあの時。
 こわいって、あの子は泣いた。
 エリカがこわい、って。
 今なら解る、怖いはずだ。あの交差点。暴走しこちらに向かって来る蒸気自動車を振り返る自分。それは
ただ反射的な動きだった。私は私を守るために、ただ咄嗟に、この力を全て解き放った。道路を捲り上げ、
車を吹き飛ばし、人を打ち砕いて。同じこの白い光で。瓦礫になった街の中には、上がる火の手の熱と、悲
鳴と、血の匂いがあった。
 だから、
「もう・・・やだよ・・・。」
 私はもう帰れない。
 絞り出した涙声が耳を濡らした。もう何処にも行けない。どうしてこんな力を持っているのが私なの、私
と、あの怪人達だけなの。霊力と妖力に何も違いがないなら、私は、一体何を撃ってきたの。霊力と妖力に
何も違いがないなら、私は、一体なんなの?
 目を開いていても、閉じていても変わらない暗がりの中、自分の胸が呼吸にあわせて上下している。何処
にも行きたくない。例え、過去に選んだ道なのだとしても、もう、ここで踞ってこのまま、眠ってしまいた
い。全て夢だったフリして、全て気付かなかったフリして。彼女だってきっと逃げている筈だ。あの怪我で
勝てる訳ない。初めの二撃でさえ怪人を止められなかったのに、あれだけ深い傷を負ってさらに強く斬りつ
けるなど出来る訳ない。手数だってあの怪我では増やせない。彼女一人で勝てる訳ないのだから、もう一人
になって何分も経っているのだから、きっと、彼女は逃げている筈だ。それにあと十分もしないで支援は来
るのだから、きっと。
 そうでなければ、彼女を巻き込んでしまった私はどうすればいいの。あの時出会わなければ、彼女は霊力
にも気付かないで、あんな怪我を負うこともなかった。もし、もしもう彼女になにかあったなら、私は。
 エリカは手を握り締めた。自分の右手だけ存在している、全て溶け消える夜の底に。痛みも麻痺してきた
腫れる掌には、見慣れない感触があった。熱い生命を感じるようなそれは、彼女の指先だった。
「グリシーヌさん。」
 あの人が、逃げているわけない。
 飛び起きてエリカは目を見開いた。濡れた頬を夜気が冷やす。心臓が急に早鐘を打ち息が苦しい。それは
輝く程の確信だった。どうして、その確信に疑問をさしかける。どうしてそう思うのだろう、どうして。
「どうして。」
 呟いたエリカの左目から、涙が一粒転がり落ちた。頬を伝って、顎先で震え、手の甲で弾ける。彼女が逃
げていてくれるのが、エリカには一番嬉しいのに、あの日見た彼女の姿を否定出来ない。さっき、自分を庇
い立ちはだかってくれた、彼女の微笑を否定出来ない。
 そう。だって、あの時、彼女は霊力の存在も知らないで、私の前に立ちはだかってくれたのに。
 今、逃げ出したりする訳がない。
「グリシーヌさん。」
 エリカは唇を噛んで、涙を手で強く拭った。拍子にまた涙が零れたけれど、唇にかかる雫を飲み込んで立
ち上がる。生乾きの右手を伸ばし、機関銃を握り締めた。重みと冷たさが頭に冷静さを差し掛ける。携帯し
ていた弾倉をしまい、代わりにこの機関銃専用のものを手に取る。クロゼットを閉めると、遮られていた窓
からの雪明かりがエリカの頬にかかった。青白く全身が染まり床の窓枠を自分の影が切り取った。外にはま
だ、雪が舞っている。
 例え自分の全てが偽りでも、彼女を失うことだけは出来ない。
 扉を開き、エリカは床を蹴った。自分の白い息を肩で切り、暗い修道院を一人、教会に向かって走る。人
の気配が一つも残らない道を、一秒でも早く駆け抜ける。弾倉を機関銃に込め、安全装置を解除する。偽物
でも、何の救いになっていなかったとしても構わない、何がなくとも、自分がなんであったって。
 ただ、彼女を守るために。
「グリシーヌさん!」
 教会の扉を蹴破り押し入る。石の礼拝堂は橙に色づいて明るい、炎が砕けた椅子を燃やして広がろうとし
ている。色彩が蘇ろうとする教会、祭壇の目の前に彼女は立っていた。戦斧を握り締め、エリカからは柱の
影になって見えない通りからの入り口の方を見据えて。
 グリシーヌがエリカを振り返る。右半分血塗れの顔が、恐怖に歪んだ。突き抜けるような青の目がエリカ
を貫く。
「エリカぁぁぁああああっ!!」
 絶叫を迸らせ、グリシーヌが斧を投げた。鋭く回転し戦斧はエリカの肩口を通り抜け真横の柱を突き刺さ
った。振り仰いだそこ、エリカの目の前に、斧に体を切り裂かれ悲鳴もなく身悶える怪人の首があった。生
臭い息がエリカの顔にかかる、もがきながら唾液を撒き散らす獣の顔は黒い体毛に覆われている。
 咆哮が教会の中心から響き渡った。
 その音は何故か、悠然と響いた。エリカは惹かれるよう振り向く。赤々と照らし出される石の教会には灰
色の煙が渦を巻き、苦い味が舌に残る。自分の長い髪は頬を打ち、首を巡らせる耳元で風が切れ、柱廊も何
もかも形が砕けて流れる。
 グリシーヌは、天上の輝きが空気中を走る、その淡い帯に包まれていた。髪から青い上着の裾まで濡らす
血の一滴が肩口から自由になって跳ねている。斧を投げた不安定な姿勢のままのその姿は、燐光に照らされ
てほの白く。
 グリシーヌがエリカを見つめている。二人の視線が触れ合う、それは、一秒にも満たない永遠だった。
 横殴りに叩き付ける霊力が、グリシーヌを吹き飛ばした。
 血が霧となって舞い、裂けた彼女の体が祭壇の上を滑った。上半身が宙吊りになり、彼女は仰向けに倒れ
て止まる。
 自分の悲鳴が夜を引き裂いた刹那、エリカの体から白い光が弾けた。
 石畳を叩き割り、光が全てを破壊する。