どうして、

 叫んだ自分の声が砕け散っていく。エリカは必死に手を伸ばした、噴き出してしまった戻らない力を止
めたくて。だが、伸ばした手は何も掴まない。影も色も消える光の中で、自分の指先すら霞んで。

 どうして、いつも、自分でどうにも出来ないの。
 
 周りに存在するものを、全て光は遠ざけていく。石を捲り飛ばし、柱を破砕して、迫っていた獣も弾き
飛ばし、何もかも消える。

 どうして、いつも















 目も眩む光の外側で、倒れた彼女の体が紙切れのように舞うのを見た。



















 根こそぎひっくり返され土が剥き出しになった足元。石の床は円形に吹き飛び、薄暗い側廊部の端で塊
となっている。真横にあった筈の二本の石柱は台座から半ばまでが消し飛び、支えを失った柱頭が抉られ
た地面に崩れ落ちていた。そこにあった獣の肉体は何処にもない、欠片さえ。祭壇は壁に押し付けられた
形で砕けていた。天の国を象った薔薇窓も、十二使徒のステンドグラスも、天井の暗がりに呑まれてもは
や枠と数枚の破片を縁にこびり付かせているだけだった。曇天の広がる空へと続き、雪がいくつもいくつ
も吹き込んで来る。
 その雪の降り掛かる祭壇の袂、砕けたステンドグラスが散らばる中に、グリシーヌは横たわっていた。
血液を薄く床に広げ、長い金髪も服も全て等しい色に染めながら。上を向いた左頬にだけは傷がなかった。
白くなめらかな輪郭に碧色した硝子片が触れている。わずかに開いた口にも、合わされた透き通る睫にも、
細い肩にも足にも鋭い線が走り、うるさい程の赤が瞬いているというのに。唇だけが青白い。
「わ、たしが・・・・。」
 左目が水に沈んだ。大きな水滴は縁から塊となって溢れて、目蓋から胸元へと落ちた。機関銃を握り締
めた手が震えている。奥歯が耳障りな音を立てている。何も変わらない、自分のこの力はいとも容易く、
何もかもを拒絶するだけで。
 違う。
 私の手は、皆とは違う。
 霊力と妖力に何も違いがないなら、私は、
 火が爆ぜるのが聞こえた。入り口近く、炎が壊れた長椅子やタペストリーを餌に燃えている。その熱に
黒く塗り潰されて、二体の獣が立っていた。斧に斬られた二つの傷口から体液を垂れ流す獣と、もう一体、
一回り小柄な影がある。四つの目は瞬きすら損なってエリカを凝視していた。恐怖と怒りがその眦に滲ん
でいる。
 エリカは濁る唾液を飲み込んだ。空から舞い込み、目に見えぬ風に乗って数多の雪が四つの影の間を過
る。結晶の連なる氷に、あの歌がよみがえる。生命が吹き付けるような、迸る強い歌声。大笑いをしたり、
怒ったり、悩みを見せたり、穏やかに微笑んでいるあのやわらかな人が紡いだ、生命の息吹。
 機関銃にエリカは両手を回した。足を肩幅に開き、引き金に乾いた血が貼り付いた右手をかける。グリ
シーヌに駆け寄ることは出来ない。息をしているかどうかも確かめにいくことは出来ない。助けたいと望
むなら、助けられると信じるなら、自分が気を動転させてはいけない。今、自分が取り乱したら、彼女は
絶対に救えない。
 例え自分がなんであっても、彼女を失うことだけは出来ない。
 あの遠吠えは仲間を呼ぶ声だったのだろう、エリカの耳に届いたのは二回。残る二体の怪人がそれぞれ
跳躍した刹那、エリカは小柄一体が駆ける進路に銃弾をばら撒いた。
「オオオオオオオオアアアアアアッ!!」
 静寂を劈いて、火薬の炸裂音が教会を揺り動かす。二つの銃身から同時に放たれる四十五口径の銃弾が
怪人の肩を撃ち抜いた。飛び退る影は追わずエリカは祭壇へ、教会の中央へと駆けながら狙いを変える。
もう一体、半ば崩れた聖書台の上に四つ足をついた獣に向かって、エリカは引き金を絞る。重量3.2kg、
一分間に1200発の銃弾を撃つその火薬の振動が腕に体に重たく響いた。排莢口から弾き出される空の薬
莢が額を掠め、頬に当たって地面に撒き散らされる。怪人が霊力を伴った咆哮を放つより早く、銃弾はそ
の口を肉片に変えた。血を噴き出させながら悲鳴を振り絞り、怪人は床をのたうち回る。もう喉からあの
咆哮は迸らない。
 機関銃の間合いの内側に、肩を撃ち抜かれた獣が飛び込んだ。振り抜かれる鋭い爪の揃う右腕を、エリ
カは銃身で以て防ぐ。激しい衝撃に体中の筋肉から力を絞り出し、エリカは吹き飛ばされないようその場
を踏みしめる。鈍い赤色をした獣の目と、命の距離で視線がぶつかる。もう一方の手を獣が振りかぶる瞬
間、エリカは獣の顎を真下から蹴り上げた。
「っあ!」
 仰け反る獣の爪が脹脛を引き裂いた。水道管の破裂の如く血が塊となって噴出する。音を立てて血が地
面で跳ねた。だがこの場で転ぶ訳にはいかなかった。距離が近すぎて撃つことができない、もう一体も立
ち上がろうとしている。
 脳細胞まで死んでいくよう錯覚する痛みを唇を噛んで堪え、エリカは地面を蹴った。一歩ごと貫く激痛
を引きずり、指先まで伝わる震えを抑えて雪の吹き込む教会の中央へ、地面が剥き出しのそこへエリカは
体を運ぶ。倒れる彼女を無防備に晒せない。
 二体の獣はエリカを睥睨する。彼らは左右から同時に飛んだ。
 体が一個の心臓になったように鼓動がうるさく、血はブーツまで流れ靴底と同じ形の跡を地面に残して
いる。口から黒い体液と唾液の混じったものを糸引きながら走る最初の怪人の眉間に、過たずエリカは照
準を合わせた。引き金を絞る脳裏に、言葉が巡る。これから広がる惨状にかける、唯一の言葉。唯一つの
祈り。

 真理によって、彼らを聖め別ってください。
 あなたのみことばは真理です。
 
 機関銃の掃射が狼の顔をした人の頭を砕いた。
 硝煙の匂いが口から鼻へと抜ける。
「アアアアアアアアッ!!」
 残りの一体へ、エリカは振り返る。歯を食いしばり、間に合う訳がないと知りながらそのわずかな時間
を。二体いるからこそ出来た挟撃を、防げる訳がないとエリカは元から承知していてそれでも。飛びかか
る獣の両腕がエリカの顔へと真っ直ぐに伸びる。右目に向かって爪が

 私も死んだら、こんな風になるんだろうか。

 黒い真円の瞳に一筋の疑問と、一人の背中が映った。
 グリシーヌが目の前に立ちはだかった。
 左腕で押しのけられて仰向けに転びながら、エリカはその背中を仰ぐ。何も持たないで飛び出してきて、
空っぽの手で、ただその身一つだけで。グリシーヌがエリカの目の前に立ちはだかった。最後、自分が傷
つけた筈の人が。
 振り下ろされる爪が彼女の頭部を捉える、エリカは目を閉じることも出来ないで息を消した。

 青い閃光がグリシーヌから洪水となって溢れた。
 影も形も飲み込む光の海に、地を底から揺るがす怒濤が木霊する。
 全てを作り、全てを壊す海の鼓動だ。
「おおおおおおっ!!」
 グリシーヌが右腕を真横に振り抜いた。手が描いた軌跡、その虚空から、水がこの世に顕現する。水流
は波へと大成し、教会を飲み込む大波が逆巻いた。莫大な海が獣に叩き付け、エリカも、彼女も、何もか
もを底へと沈めた。




 足から頭のてっぺんにまで、心地よい冷たさが満ちる。
 エリカは目蓋を押し上げた。
 胸も首筋も包み込む、それはやわらかな水の流れだった。見開いた目にはただ、真昼の海が見えた。





 床に座り込んだエリカのくるぶしを波が浚った。水面に、割れた窓から降り注ぐ外の明かりが揺らめく。
その反射が立つ彼女の上で波打っていた。
「どう、して・・・。」
 泡の解ける音を耳の奥だけに残して、透明な水が引いていく。エリカの細い声など、掻き消されてしま
いそうだった。雪が二人の上に降っている。まるく天上に空いた穴から、遥か距離を渡って差し込む明か
りの中に佇む二人に。向かいあう二つの影が地面に流れている。
 グリシーヌはエリカを振り返って、頬を緩めた。
「そうしたいと、思ったから。」
 たった一言、そう微笑んで。右頬は二筋裂けて、肩も髪も乾いた血で強ばっている。流れた血で右手は
指先まで色づいて。エリカを守るために受けた傷で左腕も足も裂傷だらけで。
 どうして、もう一度繰り返そうとした呟きは、喉から出て来なかった。
 透明な水の破片で、グリシーヌの頬が濡れている。
「私はもう、後悔したくないんだ。」
 目を細めてそう笑ってみせる、彼女も泣いたんだ。
 きっと、こわくて。
「グリシーヌさん。」
 焦点をあわせられないのか、グリシーヌは瞬きを繰り返した。辛うじて体を支えていた足が崩れ、彼女
が倒れる。エリカは両腕を伸ばしてその体を抱きとめた。力の抜けた体は重たくて、上手く横たえてもあ
げられなくて、エリカは彼女を抱き締める。血と汗と、涙の匂いがする。
 私は彼女を帰さなければならない。こんな場所ではなくて、あたたかく日差しに彩られた場所へ。彼女
には帰る場所があるのだから。右の親指が彼女の肩に触れた。服の背面は大きく裂けて、剥き出しの白い
肌には血が幾筋も伝っている。自分にこんな怪我を治してやれるのか、エリカにはわからなかった。たっ
た掌一枚分を治すくらいしか自分は出来ない。昔は、もっと強い力で治してあげることが出来た気がする。
あんな事故を起こしてしまうもっと前なら。でも、今そんなことはできない。
 一陣の風が吹き下ろした。エリカの髪を揺らし、頬に雪の冷たさをもたらして。円形の明かりの外、暗
がりに霞んで倒れた獣の首がこちらを向いていた。左目だけ開いて、閉じられなくなった口に埃を噛んで。
彼はまた苦しんで、もう一度死のうとしている。天上の理想も砕け、何もなくなったその暗闇で。
 私も死んだら、ああなるのだろうか。
 乾いた血に覆われた自分の十字架に、エリカは手を伸ばした。
「祈るときには、エリカ、」
 囁きが耳朶に触れた。腕に包んだグリシーヌの青い硝子の目がエリカを向いていた。真円の虹彩、その
一筋一筋に陰影を刻んで、光の指先が金色の睫を撫でている。彼女は言葉を生み出した。
「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。
 わたしたちを試みに会わせないでください。」
 自分の目が、見開かれていくのをエリカは感じた。グリシーヌはまるで日差しを見つめるかの様に微笑
んだ。殆ど聞こえない声が、でも、なんと言ったのかわかった。
 続きは知っているだろう、と。

 最後、傷つけたのはわたしなのに、あなたはいてくれると言うの。
 わたしたちと言って、花組だと言って。

 その節の続きは、そう。

 斑に汚れた彼女の左手が持ち上げられた。エリカは自分の手を差し出した。中指から手首まで傷が走り、
赤黒く錆のついた手だ。グリシーヌの白い手がエリカの指に絡む。思いの外強い力がその手には込められ
ていた。
 繋いだ手の間に、ほのかな光が灯る。青く、きらめく水面のような輝き。
 それは、あの日、エリカが何もかも忘れて見惚れた光。
 あの時もそうだった。どうして自分の前に飛び出したんだと、恐くなかったのかと聞いた時、グリシー
ヌは困ったように眉根を寄せて。ただ、そうしたいと思ったんだと、エリカを助けたかったんだと。全て
を懸けて、隣にいてくれた。
 エリカは目蓋を下ろし、胸の奥底にある力の源泉へ意識を伸ばした。ずっと恐ろしくて、ずっと憎らし
くて、でも、それでも使い続けてきた力。目蓋の裏に宿る思い出の中で、お父さんが微笑む。泣きじゃく
った私の涙を拭ってくれた指先を、今も感じる。
『いつも最善の自分でありなさい、そして最も真実の自分でありなさい。
 そうすれば、必ず----。』
 いつも、力を使ってきたのは、私がそうしたいと思ったからだ。
 誰かを治してあげたいと、
 誰かを救いたいと、
 守りたいと。

 ただ願ったから、私は選んできたのだ。

 エリカは強く、腕の中で眠るその一人の少女を抱き締めた。グリシーヌはただ目蓋を閉ざしている。浅
い息を吐いて、エリカのことなど何も知らず。何も知らないけれど、出会ったのだ。最も真実の私が。
『必ず、本当の友達が出来るから。』

 あなたは私が、十六年間待った人。

 鼓動が今、この腕の中にある。
 そして、エリカは何者にも認められることなく絶命しようという暗がりの獣を見る。世に属していない
存在。苦しむことしかできない影を。
 彼らを、彼らの魂を真実に救うことは、自分に出来ないかも知れない。私は本当は偽善者かも知れない。
でも例え、彼らの魂を救うことなどできなくても、せめて恐怖から解き放ってあげたいと、そう思う。き
っと、傷ついて、傷つけられる恐さは誰だって変わりないと思うから。だから、彼らもまた悲鳴を上げて、
苦悶の表情のままで、身を削るのだろう。
『全てのものは神から生まれたのです。
 神は愛です。愛とは情け深く、真実を喜び、全てを忍び、全てを望み、全てに耐える。
 決して滅びない。』
 いつかのレノ神父の言葉が響いている、エリカの奥底に。天の国も壊れ使徒も失せて、雪が降るばかり
の廃墟同然の教会で、エリカは自分にゆだねられた手を握り締めた。指の隙間から、白い光が溢れ出す。
暗い夜も明るく照らす光。光を受けた粉雪が金剛石となって降る。
 本当に全てのものが愛から生まれたなら、私にも、全てを包み込むことが出来るだろうか。その時には、
この光も、

 聖なる光となるだろうか。


 エリカは掌からそっと、大きな光を解き放った。