「お嬢さま!
 何処に行かれたザマスか!」
珍しく大きな声を出して、ブルーメール家のメイド長である女性は屋敷の中を歩き回って
いた。彼女の名をタレブーと言い、他家の者にすら、最高のメイドと言わしめるほどの人
物であった。タレブーが探しているのは他でもない、この家の息女にして、次期当主であ
るところの少女だ。グリシーヌと名づけられて5年経ったばかりの少女は、しかしこの頃、
姿を消していることが多々ある。
「あの、お嬢さまなら、先程裏庭に出て行くところを見ましたが。」
タレブーの声に気付いてか、角を曲がって現れたメイドの一人が申し出た。裏庭、と言っ
ても広い上に、普段グリシーヌが出向かない筈の場所である。タレブーは、グリシーヌが
裏庭に出たということに疑問を感じながらも、メイドに仕事に戻るよう告げて、自分は裏
庭に向かう。
ノルマンディーの屋敷は広いが、窓を除けば出られるところは限られているし、グリシー
ヌが知っている出口も一つしか無い。グリシーヌは窓から外に出てしまうような品の無い
子供ではなかったし、そもそもまだ窓枠の下段にすら手が届かない。そこは無用な心配だ
った。
「お嬢さまもお散歩をなさるなら、一言おっしゃって欲しいザマス。」
裏庭への扉は、屋敷のほかの扉に比べたら簡素なものだ。タレブーは押し開けてドアから
広々とした裏庭、というよりは鬱蒼とした森を見て、軽くため息をついた。
裏庭の端に行ったのは、何年前だろうか。思い出せないほど昔であるし、アルベールが子
供だったときと比べて、自分は大いに年を取った。行けと言われても、今ならよほどでな
い限り、丁重にお断りしたいところだ。
「迷子になってなければいいザマス・・・。」
5歳の足ではそう遠くにはいけないはずだが、グリシーヌはいい意味でも悪い意味でも大
胆だ。油断して掛かるわけにはいかない。
タレブーは後ろ手に扉を閉めて、下草を踏みながら数歩進む。何処から捜したものかと、
頭を抱えたくなる裏庭の光景だった。しかし、タレブーは右手にある背の低い木に、ハン
カチが引っかかっているのに気付いた。
歩み寄り、拾い上げてみるとそれはグリシーヌのものだった。昨年、タレブーが刺繍をし
て贈ったものだ。ハンカチなど他にいくらでもあるだろうに。そう思うと、タレブーは胸
の中に何か熱いものがあるのに気付かずにはいられない。
「―――はは、そんなに焦って飲むな。」
そのときだ、かすかな声が風に乗って聞えてきた。幼い、無邪気な声だ。楽しげで、同年
代の友達と遊んでいる子供が溢す声に似ている。といっても、ブルーメール邸には、グリ
シーヌと同じ年頃の子供などいない。一番若くても、十代の後半だ。
タレブーは枯れ枝を踏まないように木をつけて、そっと声のするほうに足を進めた。
金縁の陶磁の器と、子猫、そして幼い女の子。
木漏れ日がそれらを等しく彩っている。
「ふふ、お前はかわいいな。」
花が綻ぶ様な微笑を溢し、グリシーヌは猫の背を撫でた。猫は黙って撫でられている。
タレブーはその様子を、沈黙のままに見つめた。
陶磁の器は高価なものだが、彼女はそれを知らない。
けれども、確かにあの器が一番、猫に丁度いい大きさの器だろう。いつから使っているの
かは知らないが、つい先日もあの器が食卓に並んでいた気がした。今は子猫が片足を突っ
込んでいる。
タレブーは木漏れ日と、陶磁の器と、子猫と、咲き誇る花のように微笑む女の子を、記憶
に深く刻むように見つめた。


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013 : 何度か隠れて飼ったのだが、見つかって、捨てられてしまったんだ。










久しぶりに暖かな日だった。とはいっても、時折吹く風はやはり、身を切るように冷たく、
グリシーヌは隣を歩く花火に、「寒いな。」と漏らした。花火が見やると、グリシーヌの
白い鼻先は少し赤くなっていた。
「そうね、今年は特に寒いわね。」
花火はそう言うと、グリシーヌを立ち止まらせて、崩れていたマフラーを巻きなおしてや
った。しゅん、とグリシーヌがらしくもなく洟をすすった。仕立てのいいコートも、風邪
を防ぎきるのは難しかったようで、数日前からグリシーヌは鼻風邪を引いていた。
「なかなかあなたの風邪も、よくならないわね。」
 花火が心配そうに、眉を顰めながら言った。
日陰に入ると途端に寒くなるので、なるべく日向を選んで歩いた。大切な用事というのは
なかった。日頃、先延ばしにしがちな細かな事柄、例えば、好きな作家の本を買うことや、
気に入ったマフラーを何件も回って探してみたり、なんていうことを、たっぷりと時間を
掛けてやっているだけだった。
「そうだな。
 鍛えが足らんのかもしれん。」
暗紅のマフラーに顔を埋めながら、グリシーヌがふふ、と微笑んだ。挿し色にと花火が選
んだマフラーは、黒いコートに合っていたし、何よりグリシーヌによく似合っていた。
二人の歩みは、橋の上に差し掛かる。揺らめくような水面をグリシーヌは眺めた。久方ぶ
りの陽光を、水はその方法を忘れることもなく、反射させ続けている。その奥の、恐ろし
いほどの深みを隠しながら。表面がどれだけ明るく輝いていたって、水の中は暗い。
「グリシーヌは斧を二本同時に振り回すようになるつもりなの?」
花火がころころと音を立てて笑った。
「そ、そういう意味ではない!
 判っててからかうとは、酷くないか、花火。」
グリシーヌが膨れっ面をすると、花火はますます笑った。
「ふふ、ごめんなさい。
 じゃあ、帰ったら温まるように、私がお茶を淹れてあげるわ。」


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014 : お茶菓子は何がいい?










「なんだ、お前。
 そんなしかめっ面して。」
ロベリアの声は、昼下がりのシャノワールに妙に馴染んだ。お前、と呼びかけられたグリ
シーヌは、いつものことなのか、さして気にした様子も無く、しかしロベリアの方を振り
返りもせずに返事をする。
「ああ、エリカのヤツが、
 なぞなぞノートとやらを始めてな。」
なるほど、言う通り、グリシーヌが見入っているのは真新しいノートで、開いているのは
1ページ目だった。一行目にはでかでかと、エリカがそのなぞなぞを考えたらしい日付と、
タイトルが書かれている。その下は、若干の日記になっている。
「で、エリカのノートを、なんでお前が持ってるんだよ。」
ソファの肘掛に行儀悪く座りながら、ロベリアはノートを覗き込む。その無作法振りに、
グリシーヌは厳しい視線をロベリアに向けた。しかし、言って聞くような相手ではないこ
とをグリシーヌはよく知っていたし、何よりも、彼女の思考の中心は今、なぞなぞノート
だった。
グリシーヌはノートをパタンと閉じて、表紙をロベリアに見せる。
「なんでも、みなで回すつもりらしい。」
新しい割りに、カラメルソースぽい色の染みが端っこに付いた表紙だった。中心には、な
ぞなぞノート、とのびのびとしたエリカらしい字で書かれている。周りに描かれた猫だか
犬だか虎だかは、きっとコクリコだろう。その下には、1.エリカ、2.グリシーヌ、3.
コクリコ、4.花火、・・・と番号と共に人の名前が連なっていた。
「そなたのところに回ってくるのは、
 順調に言って、金曜日だな。」
目を細めて、グリシーヌはぼそっと言った。ロベリアは、はぁ、と大きくため息をついて、
ソファから立ち上がった。
「はあ?
 やるだなんて一言も言ってないだろ!」
ばっ、とグリシーヌの手からノートを引ったくり、ロベリアは表紙をまじまじと見た。4.
花火、に続いて、5番目。ロベリア・カルリーニとご丁寧にフルネームで書いてある。エ
リカあいつ・・・、とロベリアはぎりぎりとノートを握りつぶすところだったが、その書
体を見て思いとどまった。
「おい。」
ノートに目をやったままで、グリシーヌに呼びかける。相変わらずぞんざい。
「なんだ。」
ソファに座りっぱなしのグリシーヌが、視線だけをこちらに向けた。なので、ノートから
そちらへと目を向ける。
「5.ロベリア・カルリーニ。
 これって、お前が書いたんじゃないのか?」
「いや、私ではない。」
一瞬、グリシーヌの表情が停止したのを、ロベリアが見逃すわけが無かった。ロベリアは
ノートを持ったまま、腕組をして明後日の方を見ながら、うんうんと肯く。
「そうだろうなぁ。
 こーんな、ガッチガチに几帳面でなんの面白みも無い字なんて、
 ポン・ヌフも真っ青な石頭野朗じゃないと、到底書けないモンなあ。
 いや、それでも甘いか?
 こんな字書くのは、どーんなにかったい石頭の―――。」
ガッ、とグリシーヌの腕が伸びてきて、ロベリアの手にあるノートを掴んだ。その顔は、
恐らく怒りの為で、赤い。
「私の何処がそんなに石頭だ!
 言ってみろ!!」
ロベリアは、口元に笑みさえ浮かべて、グリシーヌの手首を掴んだ。あんな鉄の塊みたい
な斧を片手で振り回しているとは思えない華奢さがある。ロベリアは傍目にはわからない
程度に重心を下ろす。
「本当に、バカだなお前。」
言うと、グリシーヌはまたもや正直に、う、と表情を歪めた。
「見たところ、他のヤツらはエリカとコクリコが書いたみたいだな。」
何もかも見透かされて、グリシーヌはだんだん顔色が悪くなってきていた。ロベリアに掴
まれた右腕は、葛藤に揺れている。ロベリアはその様子を見下ろす。
「で、アンタはどうしてわざわざ、
 このなぞなぞノートにアタシの名前を書いてくれたのかねぇ?」
グリシーヌが常に意味も無く強い眼差しで、ロベリアを振り仰いだ。自分が糾弾される立
場だというのに、少しくらい怖気付けよ、と思う。
「花火まで巻き込むのなら、
 華撃団全員でやればよかろうと思って書き足した。」
最後の方が、ごにょごにょとなって少し聞き取り辛かったが。ロベリアは、ぱっ、とグリ
シーヌの手を離して背を向けた。
「数合わせかよ。
 ったく・・・、いいねぇ、ガキは気楽で。」
手をひらひらと振って、お別れの挨拶。でも、珍しく、グリシーヌが呼び止めた。
「ロベリア、どうしたのだ。
 急に不機嫌になったりして。」
嫌に声が真剣だ。ロベリアは振り返らない。肝心なことには気付かないくせに、どうでも
いいところにばかり気がつく。そこが少し、憎たらしい。
「お前の気のせいだろ。
 ガキじゃないんだ、そんなに簡単にへそを曲げたりするわけないだろ。」
ロベリアは自室に向かって歩き出す。ロビーに一人分の足音だけが木霊していて、だから、
グリシーヌの声は、相変わらずやたらと響く彼女の声は、聞き間違いようも無くロベリア
の耳に届いた。
「ロベリア!
 私の言い方が悪かったのなら謝る、すまない!」
ロベリアは立ち止まらずに、廊下へと入る角に手をかけた。グリシーヌの声はロビーいっ
ぱいに溢れている。
「金曜日までに、せいぜい難しいなぞなぞを考えておくがいい!
 私も貴様に、取って置きのなぞなぞを用意しておいてやる!」
ロベリアがにやっと笑って、肩越しに振り返った。
「期待しててやるよ。」


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015 : しかし、全然なぞなぞが思いつかんのだ・・・