ただの塊になってしまったように、指先は冷え切って感覚がない。ロベリアは口の端から出た途端、真っ
白に染まって切れていく息を横目に、道を急いだ。夜半過ぎ、通りにはガス灯の色が幾つも散らばるだけで
人影はなく、オリオン座が東の空に上がって大きく金貨のように輝いている。巴里も冬の夜ばかりは静かだ。
生き物の気配は消え去って、ひっそりとそこここのアパルトマンに宿る人の物音が、頬を裂く風に乗ってい
る。
 雨戸の間から漏れ出る、あの光の中はさぞ温かいだろう。
 ロベリアはマフラーに顔を埋めて、しめった息を中に閉じこめようとするが、隙間から熱は夜へと溶けて
いって、その余韻が一層背筋を寒くさせた。
 シャノワールも全ての明かりが消え、真っ黒く沈んでいる。塗りつぶしたように霞んだその建物を、ロベ
リアは見るともなく認識し、預けられている鍵で勝手口の戸を開いた。室内はガス灯も星明かりも届かず、
足さえ見ないほどに暗い。ただ、息がまだ白く染まることだけが、わずかな光の切れ端に浮かんで見えた。
外と同じくらいに寒くて、外よりも静かな廊下。
「あいたっ!」
 エリカの声が、廊下の先で聞こえた。
 それはロベリアの行く手で、そこを避けては地下にある自室には戻れない。避ける理由も特別ないが、こ
んな真夜中に特別会いたくもなかった。トイレにでも行くのだろう、であればエリカは奥に歩いていくはず
だ。ロベリアはポケットに手を突っ込み、エリカが去るのを待った。しかし、足音は迷うことなくこちらへ
と近づいてくる。
「あ、ロベリアさん!」
 そしてエリカは、あっさりとロベリアを見つけた。

 厨房を白々と電灯が照らしている。ロベリアは業務用の広すぎる作業台に頬杖をつき、足をだらしなく投
げ出して、エリカの後ろ姿を眺めた。相変わらず息は白い。
「いらねぇって言ってんだろ・・・どうせアンタの料理なんてさぁ。」
 顔面を歪め、口の中でもごもごと不満を言うが、エリカの耳には届かない。寝間着姿のエリカはいつにな
く機嫌が良さそうに、玉ねぎを炒めていた。玉ねぎの焼ける甘いにおいがロベリアの鼻をくすぐる。
「そーんな体が冷え切ったまま寝たら、風邪ひいちゃいますよ。
 もうボイラー室だって止まってるんですから。」
 エリカは肩越しにちらとロベリアを振り返り、なめらかな口調でそう言った。エリカの言葉は巴里育ちら
しく、rの発音が軽い。一つの所に住んだことがなくて、複数の言語の発音の癖が混ざり合ったロベリアの
話し方とは違う。落ち着いた口調だと思う。
「寒いには寒いけど・・・。
 あたたかけりゃ何食べても体があたたまるわけじゃないって、わかってんのか?」
「わかってますよぉ、それくらい!
 エリカにまっかせてください!」
 うそつけよ、味見もしてねぇくせに、と口をついて出そうになった声を飲み込んで、ロベリアは台に突っ
伏した。手のひらを握って脇の間に挟み、体の熱を大切にすることに努める。ロベリアの地下室には暖房は
ないし、厨房にはエリカもいて火を使っていることを思えば、このまま素直に部屋に引っ込むよりも多少は
寒さもやわらぐかしれない。鼻水が少しでて、眼鏡が曇った。
 エリカが調理をする音だけが響いている。
 水が鍋に入れられた瞬間の騒がしい音がし、次にはシンクで洗い物をする音が聞こえる。水音が止まれば、
調味料のケースでも扱っているのか小さな物音がいくつか聞こえた。
 そこに、エリカの鼻歌が乗っている。知らない曲だった。素朴な音のつながる、まるで語りかけるような
歌だった。
「ロベリアさん、出来ましたよ。」
 手のひらがロベリアの肩に触れた。
 顔を上げるとまぶしくて、ロベリアは幾度か瞬きを繰り返し、ようやくエリカの姿をすぐそばに認めた。
エリカはロベリアにそのほっそりとした手を重ねて、榛の目で見つめている。
 まるで、戸明かりのような色だ。
「エリカ。」
 たっぷりとエリカは微笑むと、ロベリアの前にカップを置いた。湯気が渦を描いて昇り、香ばしい玉ねぎ
の匂いが鼻を通り、腹をたたいた。
「これ・・・お前が作ったのか?」
 ロベリアは思わず、スープをのぞき込んだ。透き通る液面には、今までのエリカの料理で見たような恐ろ
しい影はない。良い匂いがひたすらロベリアを呼んでいる。
「ええ、もちろんそうですよ。どうかしました?」
 椅子をロベリアの隣に並べ、エリカが自分のカップを両手で持っている。熱いのか、袖を伸ばして自分の
手のひらを守り、スープにふうふうと息を吹きかけている。
「え、いや、だっていつもは・・・。」
 エリカの喉が一つ鳴り、スープを飲み込んだ。ロベリアは酒ばかり飲んできた調子の悪い胃が、空腹を訴
えたのに気づいた。
「このスープはお母さんに作り方を教えてもらったんです。
 ちょっとおなかが空いたときとか、風邪で元気が出ないときによく作ってくれて、それで。」
 エリカの頬に赤みが差す。ロベリアはたまらなくて、自分に渡されたカップに手を伸ばした。両手の平で
包むと、熱が指先から体に広がってくる。唇を近づけると熱そうで、息を吹きかけると良いにおいがいっぱ
いに広がった。器を傾けスープを口に入れ、飲み込んだら、
「うまいな。」
 ロベリアは熱いため息をついて、エリカにほうっと頬を解いた。 


































  2012/11/13