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 赤い髪が目の前を過り、宙で回った。
「新次郎! 早く早く!」
 小走りに風を切って行く背中に、音楽が絡む。交差する大通りから滲む音の粒が彼女の白い爪先で弾け
る。白い息をふっと零し、新次郎は目元を綻ばせた。
「ジェミニ、そんなに急がなくったって、ROMANDOは逃げないよ。」
 電灯が灯り始めた夕、薄く蜂蜜を溶かした空に、聳え立つビルが霞んでいる。影の差した高い窓の一つ
一つは点になって、中はまるで水槽だ。紐育が夜に沈んでいく。空を仰ぎ晒された額を、冷たい風が撫で
て行った。
「もー! そんなこと言ってる間に、どんどんクリスマスは近づいてきちゃうんだよ!
 少年老いやすく学なり難し! 月日は百代の過客! 光陰矢の如し! 
 一時違えば三里の遅れ! 白駒の隙を過ぐるが若し! 急がば、回れ!」
 ジェミニがとたとたと足踏みをして新次郎を急かす。ポニーテールが左右に揺れて、コートの裾がはた
めく。ビルから流れてきた長い影が斜めにジェミニの上を過っていた。
「最後は違うんじゃないかな。」
 口の中で呟きながら、新次郎はグレーのマフラーを解けないよう締め直す。息を吐き出し肩を軽く回す
と、勢い良く走り出した。
「わかったよ、ジェミニ! 急ごう!」
 西日に煌めく白い息が肩口で切れる。ジェミニの横を駆け抜けるとき、そのライトブルーの瞳で夕日が
光った。
 ショウウインドウの並ぶ大通りには、街中から掻き集めてきたかのように人が溢れている。12月も下
旬に差し掛かる寒い日に行き交う人の談笑は止まない。その頬を彩るのは、街中を飾り付けるオーナメン
トの輝きだ。ショウウインドウはリボンの赤や柊の深緑で包まれ、戸口にはリースが揺れる。
「なんだか、去年より人が多いね。」
 蒸気自動車や路線バスが通りの真ん中を縦横に進んで行く。背の高い白人や黒人、さまざまな人に囲ま
れながら、二人は交差点で立ち止まった。
「だって、今年は平和そのものだったもの!
 去年はちょっと出て行っちゃった人もいたけどさ。
 だからきっと、これが本当の紐育なんだよ!」
 両手で二つ拳を握り、鼻の先も頬も赤くしたジェミニが唇から歯を覗かせた。新次郎は天を突き空を埋
めるビル群を振り仰ぎ、街並に立つ自分達を眺める。行き交う人の流れは河となって、紐育を満たしてい
る。
「ああ、ぼくも本当の紐育に出会えてうれしいよ。」
 対岸の信号が青へ変わった。人が一斉に歩き出し、二人は波に呑み込まれた。新次郎は前を行くスーツ
の男性にぶつかりそうになりながら、なんとか足を出した。
「わわっ。」
 ジェミニの変な声が後方から上がった。振り返ると、ジェミニの頭が水面から出たり沈んだりを繰り返
し、流れに揉まれていた。チェックのキャスケットを被った頭は新次郎から離れて行く。
「ジェミニ!」
 周囲の人にすみませんと声を掛け、新次郎は流れを逆行した。そうして、溺れながらもなんとか前に進
もうともがくジェミニの手を掴む。
「ジェミニ、大丈夫?」
 手を引いて、少し空いている所にひっぱりだすと、ジェミニは大きく肩で息をついた。
「だいじょうぶ、ありがとう。」
 キャスケットを被り直し、ジェミニが頷いた。いつもののびのびとした歩調で新次郎の隣に並び、道路
を渡る。二歩刻むうちに、新次郎はそっと、ジェミニの手を離した。刀を振るうジェミニの手には少しマ
メを潰した痕があったけれど、厚い新次郎の手よりもずっと細くやわらかだった。
 二人の後ろで、丁度信号が変わった。
「わくわくするね、新次郎!
 ボクずっとあこがれてたんだー!」
 昴の住むホテルと、ダイアナが暮らしているアパートの間の通りに入ると、右手にROMANDOの看板が見
えた。高級な街並の一角に居住まい正しく座るROMANDOのショウウインドウに駆け寄って、ジェミニは新
次郎を振り返る。新次郎は頬を解いた。
「うん、あるといいね。」
 大きく頷いて、ジェミニは把手を掴み扉を引き開けた。
「絶対あるよ! 大丈夫!」
 店内から吹き出してきた暖かい空気に頬を打たれ、新次郎は立ち尽くしたままジェミニの背中を見送っ
た。ドアに提げられたベルが、頭の上に乾いた音を落とす。
「こたつ。」
「え、こたつ?」
 加山は目を丸く向いて、ジェミニの顔をまじまじと覗き込んだ。そのうろたえた声はジェミニの頭上を
軽々と越え、店内に足を踏み入れた新次郎の額にあたった。
「はい! 一度話に聞いてから、ずっと気になってたんです!
 だから、今度のクリスマスパーティで使うか、プレゼントにしようと思って!」
 日本から輸入してきた笠や杖、枡などの生活用品から、凧、かるた、めんこまであらゆるものが所狭し
と並ぶ店内で、腕がぶつかるかというほど体をめいっぱい使いジェミニが大熱弁を振るう。その背中を遠
巻きに窺いながら、新次郎は額を押さえた。ただの暖房器具だからROMANDOには置いていないと思うとか、
そんなに安くもないからプレゼントには向かないとか、そもそも土足文化の紐育にはあわないとかいろい
ろ言ったのだけれど、ジェミニの期待は少しも欠けてはいないようだった。
「こたつはクリスマスプレゼントに向かないと思うんだが・・・。」
 加山の片眉が急斜面を作っていた。洗って丸めたまま一日置いた洗濯物のように引き攣った顔面を見て、
新次郎は内心でため息を吐いた。
「流石に、暖房器具は持ってきていないんですよ。
 すみません。」
 加山が鈍く口を動かし、頭を下げた。
「えぇ、そんなぁ!」
 ジェミニはあからさまに唇を尖らせた。新次郎は苦く笑いながら、先日、アパートに押し掛けてきたジェ
ミニの理不尽を思い起こした。突然こたつを要求した挙げ句、無いことを告げるとやんやと非難を浴びた
理不尽は記憶に新しい。新次郎はジェミニの背をぽんと軽く叩いた。
「加山さんをあんまり困らせちゃだめだよ、ジェミニ。
 無いと思うって言ってたじゃないか。
 クリスマスプレゼントは他の物にしよう、ね?」
「うん。」
 口惜しそうにしながらも、ジェミニは素直に頷いた。俯けた睫の先に不満が乗っていたけれど、自身で
も紐育でこたつを求めることの難しさを納得したのだろう、他のプレゼントか、と一言呟いた。
「加山さん、品物手に取ってみてもいいですか?」
 壁に広げられた大漁旗の下、しがらき焼きのたぬきをジェミニが指した。
「えぇ、ご自由にどうぞ。ただ、それは割れ物だし重たいから気をつけて。」
 加山がそう答えると、ジェミニは床に広げられた唐傘を避け、目を剥くたぬきに近づいて行く。ブラウ
ンのコートが黄ばんだ電灯の光を吸うのを眺め、新次郎は渋いクリスマスになりそうだな、と言う声が自
分の頭の中で響くのを聞いた。ROMANDOは商品点数が多く、所狭しと日本のものが置かれている。手元の
低い棚に置かれた柘植の櫛に新次郎は目を落とした。明るい色の木で出来た櫛は等間隔に歯を並べ、上等
な布の上で静かに横たわっている。柘植の櫛は母も若い頃からとても大事に使っている物がある。結婚す
る頃貰ったというその櫛は、椿油で手入れされ年月で磨かれて、今は飴色の光沢を湛えていた。新次郎は
そっと、棚の真新しい櫛に手を伸ばした。
「なぁ、新次郎。
 今年のクリスマス公演はどうなんだ?」
 ふっと、白いスーツを纏った腕が過った。加山が木製の箱ごと柘植の櫛を取り上げて、新次郎に差し出
した。
「ええ、みんなすごく調子がいいんですよ!
 リカなんて、毎日どんどんダンスがうまくなるし。
 加山さんも是非来て下さいね!」
 加山を振り仰ぎ新次郎が告げると、唐傘と枡を持ったジェミニが歯を覗かせた。
「クリスマスはぜひ! LITTLE LIP THEATERへ!」
 傘と枡で構えを取って、格好良くジェミニは眼光を研いだ。加山はからから笑う。
「あぁ、あぁ、是非行くよ。」
 満足そうにジェミニは頷くと、あ、これかわいい、と入り口傍の羽子板の方へと歩いて行った。新次郎
は渡された櫛を手にし、柄に施された水仙の彫りを見つめた。浅い溝に落ちた影を、木の光沢が縁取って
いる。新次郎は筆で書かれた値札を読み、眉間に皺を寄せた。それから、昨日サジータから聞いた日本円
とドルの為替レートを思い起こす。やったな新次郎、給料が上がったね、と言いながら見せられたのは、
円安に転じた旨を告げる新聞記事だ。確か、1ドル2円40銭くらいだったろう。
「ちょっとこれは・・・高い、な。」
 値札とレートをかけ算し、さらに自分の給料と比較して、新次郎は顔を顰めた。細工も丁寧で見た所い
いものだから納得のいく値段だが、購入を躊躇う値段であることは事実だった。
「新次郎、彼女は・・・どうなんだ?」
 再びかけられた加山の声は、酷く顰められたものだった。
「彼女って、誰のことですか?」
 棚に櫛を戻し、新次郎は加山に向き直った。加山は白いスーツの襟を正しながら、視線を床に投げてい
た。立てた前髪が一筋、てろんと前に倒れる。
「彼女って・・・、彼女さ。」
 繰り返された英単語の一音節を反芻し、新次郎は肩越しにジェミニを窺った。両手を上げた欲張りな招
き猫を抱き上げるジェミニの姿が、ショウウインドウに映り込んでいる。外は日が暮れ、ガラスの外は濃
紺の海に沈んだ。通りの向いの店が点した電飾がその奥で滲んでいた。
「ジェミニじゃ、なくてですか?」
 息を解くような気配は、肯定の響きを纏っていた。鍛えられた分厚い加山の手はその面の半分を覆い、
店内を彷徨う視線だけが新次郎に残される。加山は首を引くと、上着の内ポケットに手を忍ばせた。
 そこから出てきたのは、一通の真っ白い封筒だった。
「これを、プチミントさんに渡してもらえないか。」
 新次郎は封筒と加山の顔を、二回見比べた。
「え、これを・・・・っえ?」
 純白の封筒に記されたPetit Mintの文字を指し、自分の顔を指し、新次郎はまじまじと加山の顔を凝
視した。二つの眼を食い入るように見つめると、加山は頬を赤らめて拳を鼻に押し当てた。
「勘弁してくれないか、新次郎。
 俺も・・・、まさかと思っているんだ。」
 加山は耳まで赤かった。思わず受け取っていた手紙は厚手の質のいい和紙で出来ていて、光沢のある繊
維が複雑な模様を描いている。染み込んだ墨は塗り潰したような黒だ。きっと一刻をかけ、墨を磨ったの
だろう。
「縁故を利用して申し訳ないと思っている。だが、どうしても渡して欲しいんだ。
 お願いできるか、新次郎。」
 加山の太い手が新次郎の手を上から掴み、手紙をしっかり握らせた。
 戸惑ったまま見上げると、加山の墨の黒さをした両眼に新次郎が鮮明に映り込んでいた。
「これに決めたー!」
 ジェミニの明るい声が、二人の間を抜ける。