『Merry Christmas!』
 合わさる声と共に、金色の泡がシャンパングラスの中で弾けた。
「今年のクリスマス公演も実にすばらしかった!
 今夜はみんな、存分に楽しんでくれたまえ!」
 ふつふつとガラスの淵から沸き起こる無数の気泡ひとつひとつに、喜色満面のサニーサイドが逆さまに
映る。
「わーい! ごっはん! ごっはん!」
 リカリッタがその脇をすり抜けて、テーブルに並べられた大きなローストビーフへと飛びついた。ノコ
はリカの両肩を元気に行き来し、プラムはその頭を撫でて目を細めた。
「切ってあげるから、かじりつかないの。」
 シャンパンは談笑で震え、同心円の波紋が揺れる。
「明日、ハーレムで聖歌隊と一緒に歌うんだ。
 だから今夜は少し控えなきゃいけないんだよ。わかるかい、ラチェット?」
 サジータがテーブルに左手を付き、軽く寄りかかった。その手に納まったワイングラスは底の窪みに僅
かな色を残すのみで乾いている。彼女の細めた目に笑いかけ、ラチェットはボトルを手に取った。
「あら、その割にはペースが早いんじゃない?
 嗄れたHallelujahは聞きたくないわよ。」
 空のグラスをワインが満たしていく。膨れ上がっていく液体に、ホール中央に聳えるクリスマスツリー
が流れ込んだ。しんしんと繁る深緑の葉には、色とりどりの飾りがさげられている。それはサニーが寄付
を続ける施設から寄贈された手作りの品でもあり、先週、新次郎がリカと一緒に作った物でもある。白い
フェレットの人形が上の方で揺れていた。
「今年のクリスマス公演も大成功でよかったね!
 カーテンコールのとき、みんなの歓声がわって体にあたってさぁ、すごかったよ!」
 ジェミニが軽く飛び跳ねると、隣の昴が少し意地悪げに口の端を持ち上げた。
「あぁ、ダンスの時に、ジェミニが僕の足をピンヒールで踏まなければ最高だった。」
 ダイアナが小さく吹き出すと、ジェミニが頬を真っ赤に染めた。そばかすのある頬がちらとこちらを向
くのに小さく頷き返して、新次郎はグラスを煽る。中は空で、一筋の雫が唇を湿らせるだけだった。薄い
ガラス越しに、分厚い掌が透けている。赤らんだ皮膚を横断する掌紋には、小さな汗の粒が張り付いてい
た。
「大河さん、なにぼーっとしてるんですか?
 そろそろプレゼント交換始めますよ。」
 杏里の顔がグラスの底にぬっとせり出した。慌ててグラスを下ろして、新次郎は首を振る。
「あ、ああ、ぼーっとなんて!」
「えー、ぼーっとしてましたよ。
 空っぽのグラスなんかかじっちゃって。」
 すぐさま返された言葉に、新次郎はうっ、と息を詰まらせた。英語で話すと杏里の口調は、日本語の時
より幾分辛辣に聞こえる。グラスの柄を握り締め、新次郎はつっけんどんに言い放った。
「考え事してたんだよ。」
 杏里は目を眇め、唇を尖らせた。
「じゃあ、何考えてたんです?」
 硬い息の塊が、喉を削って肺に落ちていった。グラスにべったりついた指紋が、頭上から落ちる電灯に
晒されていた。さっき舐めた最後の一滴も縁で乾いて、ぼうっと汚れたグラスには軽い空気が入っている。
「もう、そんなに難しい顔しないでくださいよ、せっかくのパーティなんですから。」
 杏里が新次郎からグラスを取り上げた。腰に手を当てると、杏里の肩を長い髪が滑り落ちる。
「そんな変な顔してたかな。」
 首を傾げると、杏里が眉を歪めて頷いた。
「してましたよ。
 しっかりしてくださいよ、大河さん。」
 杏里の顔をちらりと覗くと、杏里は呆れと心配を混ぜたような、何とも曖昧で柔和な表情をしていた。
新次郎は空になった手を握り締め、大きく肩で息を吐いた。
「よーし、食べるぞぉ!」
 両腕を勢いよく振り上げると、まけないぞ、シンジロー!、と口の中にものをいっぱいに詰めたリカが
新次郎を振り返った。揚々と長いテーブルへ歩み寄ると、随分と顔を赤らめたサジータが新次郎の腕を取
って輪に引き込んだ。サニーが蓄音機からジャズを流し始める。窓の外に広がる冷めた暗い夜を撫でる、
熱いサックスの音だった。
 加山はクリスマス公演に来なかった。
 予約完売していたクリスマス特別講演のチケットの購入者リストに入っていた彼の名前は、当日の空席
リストにも追加された。彼が座ることを予め約束されていた席は、講演の間中空気を載せていただけだ。
劇場を埋め尽くした歓声も、ステージの光も歌声も全て、観客の間に一つ空いた隙間を通り抜けた。
「はい、リカに全部食べられる前にとっておいたわよ、タイガー。」
 プラムが厚く切ったローストビーフを乗せた皿を、新次郎の前に差し出した。両手で受け取って、新次
郎は満面の笑みを零す。
「ありがとうございます!」
 肉の香ばしい匂いが鼻先を掠めた。
「大河くん、ターキーもあるわよ。」
 ラチェットがナイフを片手にテーブル中央の大皿を示した。その周りを、大きなターキーレッグにかじ
り付きながら、リカが跳ね回る。
「おいしいぞ、シンジロー!」
 口の周りを茶色に染めたリカが大口を開けて笑った。「あら。」と見かねたダイアナがナプキンを取り
上げると、リカを後ろから捕まえてやわらかな手つきでその唇を拭った。新次郎はラチェットに自分の皿
を差し出す。
「それじゃあ、ぼくにもターキーください。」
 ラチェットがたっぷり微笑んだ。
 加山は講演に来ると思っていた。今までどの講演もチケットを予約していたし、ROMANDOに先日行った
ときも必ず行くと言っていた。それに、あの手紙をくれた以上、必ず来ると思っていた。
 加山がチケットは買っても講演に来ないことは珍しくないと知ったのは、クリスマス公演の後だった。
理由は分かる。平時は舞台に立つことが任務である星組とは異なり、彼らは諜報や隠密活動が常だ。予定
していた期日を必ず空けるということが難しいのだろう。自分もその時が来ればもぎりより出撃を優先す
るであろうことと同じだ。ただ、そんなことにも気づいていなった自分に驚いた。違う人がチケットを切
ったんだろうとか、忙しくて気づかなかったんだろうとか、杜撰な理由で片付けて、知ってる筈の人をこ
んなにも知らなかった。
「はいはいはい、じゃあみんな良いかな。
 おまちかねのプレゼント交換と行こうじゃないか!」
 サニーが新しいレコード盤を片手に告げた。ジェミニとリカが並んで目を輝かせる。
「待ってました!」
「くるくるくるー!」
 仲良く小躍りを始めた二人に、ラチェットが小さく吹き出した。手をつないで二人は一緒になってホー
ルの真ん中で即興のステップを踏む。
「今年はハムの詰め合わせじゃないだろうね。」
 昴が新次郎の背を軽く叩いた。クリスマスツリーの下に置いたプレゼントを取りに戻る背中を追い、新
次郎は笑う。
「違いますよ!
 ぼくだって贈り物っぽくなかったな、って反省してるんですから。」
 ジェミニとリカのステップがタップダンスに変わり始めた。ジェミニのジョッキーブーツが低く歯切れ
のよい音を刻むと、リカが明るく弾むリズムで答える。昴は唇の間から白い歯を覗かせ、自らのプレゼン
トを手に取った。
「ふふ、そうかい?」
 背の高い箱は綺麗な鴇色の和紙で包装されている。新次郎はジャケットの内ポケットから掌に少しあま
るほどの箱を取り出し、目の高さで軽く振った。
「日本のお祭りとはかなり違うんだって、ちゃんとわかりましたからね。」
 昴が手を片手で覆った。君ってやつは、と聞き慣れた呆れの言葉がその背から聞こえる。
「大河さんはときどき面白いことをおっしゃいますね。」
 ダイアナが細い指を口許に添え、白い頬を和らげた。その胸には扁平な箱が抱かれていて、部屋に飾ら
れたオーナメントが弾く淡い紫の光が散っていた。新次郎は急に頬が熱くなるのを感じて、前を向いて歩
いた。
「も、もとから多少は知っていましたよ。
 ぼくの子供の頃はなかったけど、最近は日本でもやっているみたいだし。
 ただ、日本のお祭りっていうと、御神輿担いだりもっとこう男臭いっていうか。」
 輪を描いて皆が並ぶ。その手には各々が用意してきたプレゼントがある。ラチェットの隣で額に軽く汗
を掻いたリカが、頭の上に一抱えもの大きな箱を載せていた。ノコはものめずらしいのか、箱の上に乗っ
て鼻をすぴすぴ動かしている。
 ダイアナが唇を解いた。
「クリスマスはジーザス・クライストの降誕をお祝いしているんですよ。」
 サニーが新しいレコード盤に針を落とした。針が回る黒い円盤の上で滑り始めると、ピアノの音がやわ
らかく降り積もる。弾むように明るくやわらかな旋律を、金剛石の欠片が皆の上に散りばめる。
「Stardustじゃないか! いいレコード持ってるね、サニー。」
 隣に立っていたサジータが身を乗り出した。金色のラッパから響かせる音色を見つめ、サニーは頬を綻
ばせる。
「あぁ、僕は彼のピアノの演奏が好きでね。
 Mitchell Parishが歌っているのもあって、それも素晴らしいよ。」
 ほろほろと解れ、やわらかく編まれるピアノの音はホールの中へ、外に降り積もる静かな夜を滲ませる。
ジェミニがふと、サジータを振り仰いだ。
「誰の演奏ですか?」
 振り返ったサジータが細めた夜空のような黒い瞳には、睫が弾く光が掛かっていた。
「Hoagy CarmichaelのStardustさ。」
 この曲でプレゼントを回すの? ラチェットが問うと、サニーは上機嫌に頷いた。「あぁ、そうしよう!
ぼくが混ざってからね。」新次郎、ダイアナ、昴、ラチェット、杏里、リカ、プラム、サニー、ジェミニ、
サジータと円を作れば、サニーの合図でプレゼントがその手の間を巡り始める。小さい箱から大きな箱へ、
丸い箱から布の包みへ、掌の上を重みが巡る。
 やがて星屑となって音楽が解け消え、平たい箱がひっそりと新次郎の胸に納まった。金のリボンが結ば
れた、コバルトブルーの箱だった。
「なんだい、これだけ回して隣の人のが来ただけじゃないか、サニー。」
 小箱を片手に、サジータが口角をあげた。形のよい唇が描く弧を見上げ、新次郎はむっと口を曲げる。
「ぼくのじゃ不満ですか、サジータさん。」
 考え事をするときの仕草に似せて、サジータは唇の傍に箱を翳した。引かれたルージュがなめらかな光
沢を湛える。
「すごくうれしいよ、新次郎。」
 なら、いいですけど、返そうとした言葉は何故だか喉の奥で転覆して、呻き声が落ちていった。
「うわーい! チョコレートだ!
 プラムありがとな!」
「ふふ、そこのチョコレートはおいしいわよ。」
 みなそれぞれ、勢いよくプレゼントの包みを開いていく。
 新次郎は右隣のダイアナから渡ってきた、コバルトブルーの包みを見据えた。胸に納まる程の見た目よ
りずっと重い贈り物だった。
 海の重みがする。ふと、そう思った。
 燃えるコバルトの奥底、金色の帯の中に、あの白い封筒がある気がした。
 加山の手紙は、プチミントへの恋だった。
 便箋2枚にも満たないそのわずかな字句の中に、編み込まれた思慕の情を見つけないではいられなかっ
た。丁寧な綴り字にも、やわらかな紙の折り目にも、封蝋の整いにも、彼の繊細な声が眠っていた。封を
開けて、一語一語読み進める度、記された文字は息を吹き返して言葉となり、ただ一筋の恋が胸の中に湧
き起こった。加山雄一のプチミントへの恋。
「あの、大河さん? どうかされましたか。」
 ダイアナが眉を潜めて新次郎を覗き込んだ。
「あ、いや、ずいぶん重たいから、何が入ってるんだろうって考えてたんです。」
 咄嗟に口をついて出たのは嘘でも本当でもなかった。ダイアナは新次郎が抱えたままのプレゼントに目
を落とし、少し得意げに口角を上げる。
「たぶん、大河さんには気に入っていただけると思います。」
 ダイアナの髪は細くて、ラチェットよりも明るい色をしている。雲の隙間から差し込む光の帯を集めた
らこんな髪になるのだろうかと、新次郎は時折思う。ブルーの瞳がなおさら空を思い起こさせる。新次郎
は顔の高さに包みを掲げて、大きく頷いた。
「よし、大河新次郎! 開けます!」
 リボンを抜き取ると黄金の軌跡が目の中を過ぎった。
 青い包装紙の中から現れたのは、ブルックリン橋を渡る二人の男女のカラー写真が表紙になっている、
一冊の写真集だった。コートを羽織った二人は寒そうに鼻の頭を赤らめて、体を寄せ合い笑いながら歩い
ている。
「カラー写真集だ。」
 新次郎は思わず呟いた。まるで景色をそのまま切り取った見たいに緻密で、優しい画家が描いたような
淡い色合いの写真が、ページをめくるごと途切れずに現れる。紐育の摩天楼から、セントラルパーク、自
由の女神像だけでなく、南部や西部に広がる峡谷や荒野までもがいくつも納められていた。
「キャメラトロンでは撮れますけど、まだカラー写真は一般的ではありませんから。
 アメリカ中の写真が載っているんですよ。」 
 本を閉じ、表紙をもう一度眺めて、新次郎はダイアナに向き直った。
「ありがとうございます、ダイアナさん。
 大切にします!」
 瞬きを一度して、ダイアナは新次郎の顔を見つめた。それからゆるやかに頬を綻ばせ、やわらかく笑っ
た。
「新次郎、これは日本の櫛かい?」
 熱い手のひらが新次郎の肩を掴んだ。振り仰ぐと、サジータが手のひらほどの櫛を電灯に翳していた。
均等に揃った櫛の歯が細い陰を彼女の顔に差し掛けていた。
「えぇ、柘植という木で作られた櫛なんです。
 ずっと大切に使っていると、きれいな飴色になるんですよ。
 母さんも結婚した頃に貰ったらしくって。」
 サジータはふーん、と小さく相槌を打った。左手に握っていた箱を持ち上げると、丁寧に櫛をしまい始
める。
「いいねぇ、気に入ったよ。新次郎。」
 厚い唇から歌うようになめらかに、サジータの囁きが走り出た。
「絶対に、水で濡らしちゃいけないんですよ。
 後で手入れの仕方は教えますから。」
 蓋を閉じ、サジータは柘植の櫛が入った箱を見つめた。目蓋の縁が赤らんでいて、酔った顔をしていた
けれど、その言葉は確かだった。
「あぁ、頼むよ。
 使うほどきれいになっていくなんて、本物はいいね。」
 新しい曲が蓄音機から流れ出した。鈴の音と軽快な歌声がクリスマスツリーの元を駆け回る。曲はジン
グルベルだった。リカが昴の手を引くと、珍しく昴も一緒になってリカの即興のダンスに付き合いだした。
ジェミニの明るい笑い声が響く。
 12月24日、クリスマスの夜。聳えるツリーは目映いオーナメントを纏い、皆を見下ろしていた。
 あの白い便箋には、26日夜、プチミントにディナーを共にしてもらいたいと書いてあった。大河新次
郎には、加山の気持ちに応えるつもりはない。それにいくら女性の姿をしようとも、この手は男の手だ。
間近で見れば必ず男だと判るだろう。幼い頃から竹刀を握り、まめを潰してきた手。その手は今、江田島
での士官学校生活を抜け、星組隊長として刀を握るうちに、掌は分厚く、指の付け根には硬いたこが出来
ている。この真実を隠すことは出来ない。
 いくらでも断りようはある。彼を傷つけず、その日は都合が悪いと断ることも。自分がプチミントだか
らと断ることも、いくらでも。
 新次郎は貰ったカラー写真集の表紙をもう一度見つめた。ブルックリン橋を渡ろうとする男女が、寒そ
うに身を寄せ、微笑みを交わしながら歩いて行く。
 本は今でも、海の重さで圧し掛かってくる。