西の端に沈んだ太陽が、体の上に夜の青さを落とした。空は対岸の街並でオレンジを擦ったみたいだ。
ハドソン川に跳ねた鮮やかな飛沫は水面に靡いている。河が海に注ぐ場所。その先は、アッバー湾だ。
 プチミントは海風に翻る髪を押さえた。
 真っ黒く切り取られたビルの影には幾つも電灯が点り、その砂金のような輝きが彼女の金糸に絡んだ。
彼女はゆっくりと振り返る。
 アッバー湾が続いて行く海は半ばで没し、夜だけが一面を埋めている。その夜の海を背に、彼は立って
いた。羽織ったフィールドコートが後ろから彼の姿を煽る。
 加山雄一はプチミントを見つめ微笑んだ。
「プチミントさん、お待ちしておりました。
 誘いにお応え頂き、これ以上うれしいことはありません。」
 加山は恭しく頭を下げると、一流の紳士の笑みを浮かべた。プチミントは白い手袋に包んだ手を口許に
添え、たおやかに頷く。
「店はこの先のレストランを予約してあるんです。
 寒いですから、いそぎましょうか。」
 指を揃え、加山は川沿いの道を示した。プチミントはなるべくやわらかく唇を解いた。
「ええ、そうしましょう。」
 加山がこの上なくやさしく、うれしそうに笑った。



 自由の女神が夜の海に立っている。下からライトに照らし出され、その勇姿は天上の星々を讃えている
かのようだった。
「いいところでしょう。」
 対面の椅子に座った加山が大きな一面の窓硝子に映っている。アッバー湾に臨み、リバティ島を一望す
るレストランにはピアノの音が響いていた。ホール中央に置かれた黒塗りのグランドピアノでは金髪を綺
麗に撫で付けた男性が体を揺らし、豊かな音を奏でている。
「ええ、とても。
 よく、いらっしゃるんですか?」
 プチミントが問い掛けると、加山は口の端を気取って持ち上げた。
「たまにね。」
 ウェイターがドリンクメニューを持って現れると、加山は食前酒を、プチミントにはフレッシュジュー
スを注文した。彼のJapanese Englishは聞きやすい。レストランに流れる人の声にも、ピアノの音色
にもなめらかに入り込み、プチミントの耳朶に触れる。プチミントはテーブルに置かれた白いナフキンを
取り上げると、二つ折りにしてスカートの上に置いた。手袋と布が擦れる。
 顔を上げると、加山がプチミントを見つめていた。加山はプチミントが少し驚いたのを見て取ると、垂
れ目がちな目尻を更に緩めた。
「驚かせてすみません、ずっと手袋をなさっているので。
 寒いでしょうか。」
 プチミントは胸の前で右手を握った。眼を僅かに逸らし、テーブルクロスに視線を落とす。加山が少し
息を呑む気配があった。プチミントは頬に一筋掛かる髪の間から、加山にちらりと眼を向けた。
「気になさらないでください。
 ディナーの席で手袋をしている私の方が失礼なんですから。」
 そうやって微笑むと、加山は眉間に皺を寄せたまま、それでも肩から微かに力を抜いた。
 食器が用意され、加山のグラスにはシャンパンが注がれた。金色の細い泡が磨かれたグラスから立ち上
り、花やかな香気が開く。プチミントに出されたフレッシュジュースには、淡いピンクに色づいた柑橘の
身が乗っている。
「変わっているでしょう、ピンクグレープフルーツのジュースです。
 酸味が控えめでおいしいですよ。」
 加山の長い指が、細いシャンパングラスの柄を掴む。プチミントもグラスを手にした。その所作が色合
いを深くして、夜を隔てる窓硝子に映り込む。自由の女神の胸元で、二つのグラスが音を交わした。
 彼の言葉は次第に滑らかになっていった。
「それでは、いろいろな国の演劇をごらんになっているんですね。」
 出される料理の一つ一つがおいしいものだった。その豊かな味わいに自然と頬が緩み、プチミントは上
機嫌に笑う。加山も気を良くした様子で、緊張していた舌が解けだしたようだった。
「といっても、そんなに多くはありませんよ。
 日本の大帝国劇場と、巴里のダンスホール・シャノワール。
 それと、THE LITTLE LIP THEATER。」
 プチミントは目を見開いた。
「世界中に行ってるんですね、うらやましいです。」
 全て華撃団が組織されている都市で、全て華撃団が組織されている劇場だった。加山はほんのり頬を赤
らめて、シャンパングラスに唇を付けた。指先に金色の液体を透かした淡い影が落ちる。
「日本の友人が劇場で働いていて、それがきっかけなんです。
 今年の夏頃にセントルイスに行った時は、The Munyにも見に行ったんですよ。」
 思わず、プチミントは胸の前で手を握り締めた。
「The Munyに行かれたんですか!
 どうでした、野外ステージは。」
 息せき切って問い掛けるプチミントに、加山は眩しそうに目を細めた。
 The Municipal Theatre Association of St. Louis、セントルイスのForest Park内に
あるアメリカ最大の野外劇場だ。設立は1917年6月5日。観客収容数は11000人に及ぶ、LITTLE LIP 
THEATHERを越える大劇場だ。
「演目は中国の古典演劇でした。
 江の女神に歌を奉じる場面は、やはり野外の良さが際立っていましたよ。
 まるで、自分が本当に祭祀に立つ一人の男になったようでした。」
 加山の視線は窓の外、夜を流れるハドソン川へと渡って行く。江は両岸の街並に照らされて、橙色の明
かりを乱反射させていた。湾に浮かぶ何隻かの船が灯す明かりもそう、暗い波間を音も無く進んで行く。
 プチミントは彼の瞳に游ぐ江の女神を、宵闇に探した。
「去年、セントラルパークでのクリスマス特別公演が見られなかったのが悔しくて行ったんですけどね。」
 皿の上のビーフをナイフで切りながら、加山が言葉を紡いだ。彼は上品な仕草で口にステーキを運ぶ。
プチミントは椅子に腰掛け直すと、彼が食べ終わるのを待った。赤ワインソースがおいしい一皿だった。
「今年こそはいくつもりだったんです、クリスマス公演。
 でも、チケットを無駄にしてしまいました。
 どうしても外せない用事が出来てしまって。」
 加山は申し訳なさそうに眉を垂らすと、ジャケットの内ポケットから二つ折りにされた白い封筒を取り
出した。中から出てきたのは、ハサミの入っていないクリスマス公演のチケットが一枚。
「申し訳ないです。
 自分の分もう一人誰か、見られた筈なのに。」
 空のグラスを置く音がテーブルに落ちた。言葉を探すうち、ウェイターがテーブルに近づいた。ウェイ
ターは馴れた手つきでグラスにシャンパンを注ぎ込む。炭酸の弾けるリズムが耳をくすぐる。不意に空い
た穴を埋めたのは、検討違いな質問だった。
「お仕事は、何をなさっているんですか?」
 ウェイターが踵を返しホールへ戻って行く。加山の視線は彼の背中を僅か追った後、プチミントを見つ
めた。黒い瞳がプチミントを写し取る。
「人を助ける仕事です。」
 saveでもrescueでもなく、彼はhelpと言った。
「商才あふれる新進気鋭の貿易商ですから。」
 チャーミングにウインクを決めると、加山は恭しく自分の胸に手を当てた。
「自分に興味を持ってもらえるとは嬉しいです。
 他に質問はありますか、レディ。」
 プチミントは口許に手を添えて、たっぷり悩む仕草を執った。加山の中で、プチミントと新次郎が符合
していないことは判っている。だから元から、聞きたい事は一つきりだった。でも、加山がプチミントの
視線を受けていつになくそわそわしている様子なのが楽しくて、彼女はもったいぶって「そうねぇ。」と
言葉を濁す。「なんでもどうぞ、レディ。」加山は慇懃に微笑んだ。
「どうして、私を?」
 プチミントは短くそう問い掛けた。加山は少し息を引いて、瞬きを一つした。
 プチミントは素人だ。演技もダンスも習った経験はなく、幾度か舞台に立ったとはいえ星組の誰よりそ
の数は少なく、バックダンサーや他の役者達とは比べるべくもない。一生懸命やったのは確かだし、それ
でファンになってくれた人もいた。だがそれは舞台上での皆のフォローがあってのことだし、舞台袖、舞
台裏でも人にたくさん助けてもらってのことだ。絶対に主役になりたいと息巻く、今はバックダンサーの
役者達を凌ぐほど真剣と言えるかは判らない。彼らの情熱を知ればなおのこと。それがわからない加山だ
とは、思わない。
 加山は指を組んだ手を、テーブルの上に置いた。
「ビバ・ハーレムで舞台に立つあなたを見たときに。」
 頷きながら、もう一言、添える。
「そして、クレオパトラでもっと。」
 加山はプチミントの顔を見ると、小さく笑った。それでプチミントは自分が呆然と僅かに口を開いてい
たことに気がついた。「あ、すみません、私。」細い声で告げると、いいんですよ、と加山が応えた。
「でも、その・・・私。」
 演じた自分が一番判っている。役者としての実力がないことを。ビバ・ハーレムではたどたどしくも一
生懸命な様子が、役柄に合っていたのかも知れない。クレオパトラは言葉も歌も無くしたという構成が評
価された部分が大きいと知っている。だがそれは、声を出さなければ男とばれないだろうという理由と、
そもそも歌が歌えないという二つの理由から来るものに過ぎない。
 加山は目を瞑って頷いた。
「そうですね。確かに、自分もあなたの演技に感動したわけではありません。
 あなたの舞台に感動したんです。」
 靴の中の爪先に、ぐっと力が籠るのをプチミントは感じた。加山は頬を緩め、目を細めて言う。
「あの時、思ったんです。」
 その睫に、橙色の光と、ピアノの音色が乗っていた。
「ああ、これは、あなたの人生の舞台なのだ、と。」
 新しい曲をグランドピアノが奏で始める。星の粒のように解け、星の光を見つめるように熱く注がれる
この曲はそう、Stardustだ。
「美しいダンスを見せる舞台でもなく、
 艶やかな演技を見せる舞台でもなく、
 あなたの人生が作る、あなたのかけがえのない人生の舞台なのだと。」
 跳ねる甘い音の中で、加山のやわらかな声が紡ぐ。
「私たち観客にとって、観劇は日常の1シーンでしかありません。
 でも舞台に立つあなたにとっては違った。
 人生の舞台だった。」
 彼の姿は、自由の女神が見つめる夜の海に、曇り無く映っていた。
「そのとき、ふと、私は涙を零してしまったんです。」
 真っ黒の海に船が幾隻か浮かび、夜景を見つめながらゆっくり流れていく。灯台の光は遠く水平線まで
伸びて行く。金貨のように星が輝いていて、月は



「今日は、ありがとうございました。」
 汽笛が臨海公園を歩く二人の体を叩いた。イースト川に沿って歩き、加山は言う。
「もう遅くなってしまいましたから、家の近くまで送って行きましょう。
 ご自宅までは行きませんから、大丈夫。」
 一歩遅れて歩きながら、プチミントは加山を仰ぐ。整えた彼の前髪が風に吹かれていた。フィールドコ
ートが翻り、大きな音を一つ立てる。
「プチミントさん。」
 あの手紙は本物だと思った。だから、彼の誘いに乗ったのだ。プチミントは大河新次郎の女装した姿だ。
だが、偽物などとは思っていない。確かに自分は素人で技術は無いが、舞台に立つその時に、偽る気持ち
など何一つなかった。プチミントはずっと一人の女優だ。だから、
 プチミントは立ち止まった。
 街の光は煌めき、空には星が釣り下がっている。冷たい冬の風は足元を走り去り、ロングコートの裾を
煽った。金髪が風に絡む。
「どうか、なさいましたか?」
 加山が足を止め、プチミントを振り返った。
 だから、彼の事を断る為に来たのだ。彼の想いと向き合い断る事こそが、応えられない想いを本物にす
る事になると思ったから。例え今、傷つけたとして、月日とともに思い出となって、飴色に輝けば良いと。
「加山さん。」
 呼びかけると、加山はプチミントを見つめた。
 耳を澄ますと、海の潮騒が聞こえて来る。
「今日はありがとうございます、とても楽しかったです。
 あなたとお話し出来て、とてもよかった。」
 手首まで覆う手袋に、プチミントは手を掛けた。金具を外す音が響く。どうしてそうするのか、頭の奥
で言葉が響く。でも返答は、言葉では出来ない。ただ、彼の事をもっと知りたいと、そう思っただけだ。
プチミントは手袋を外した。筋張った手を夜風が撫で。そして、イースト川に映る月の道が照らした。
「さぁ、行きましょう。
 加山雄一さん。」
 手をプチミントは加山に差し出した。加山を後ろから、光に照らされたブルックリン橋が縁取っていた。
彼の黒い瞳が、その手をゆっくりと捉える。