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零点零一秒















 その日は少し曇っていた。それも、雨が降り出しそうなほどに、というわけではなく、夏の暑さを忘れさ
せてくれる程度に。涼しい風が、彼女の金髪を掻き揚げた。その風に、彼女は薄っすらと目を閉じる。
 彼女の膝の上には猫が乗っていた。ご機嫌に丸まった猫は、彼女の左手に顎を預けて、気持ち良さそうに
喉を鳴らしている。彼女はその猫の耳の間を掻きながら、眼下の川の流れに視線を落とす。河岸の煉瓦に腰
掛けて、彼女は足を空に投げ出していた。宙を舞う足は、川縁に降りる階段の最下段を1m程下に見下ろし
ている。
 普段の彼女なら、決してしない行動だ。
「地べたになどそうそう座り込むものではないが、」
 彼女は、猫に語りかけるように、満足げな頬髯に触れた。
「そなたに寝床を提供する為と思えば、悪くないな。」
 猫の尻尾がぱたりと動く。彼女はそのさまに、にこりと笑った。すると、

「グリシーヌさんってば、いつもそうやって笑ってたらかわいいのに。」
 ぬっと、エリカが横から顔を出した。突然のことに、グリシーヌは思わず身を引きかけた。だが、膝の上
の猫を気遣って、どうにか声を上げるだけにとどめる。
「エ、エリカか。
 びっくりするではないか!」
 途端に先程までの笑みは、鳴りを潜め、グリシーヌの眉間には力が篭る。素直じゃない人だから、と片付
けてしまえば簡単なのだけれども、エリカには残念なことに思われた。もちろん、少し慌てた仕草も、平素
のグリシーヌらしくなくて、好いと言えば好いのだけれど。
 エリカはグリシーヌの首に腕を絡めた。
「な、あんまりくっつくなっ!」
 グリシーヌが狼狽した声を上げるが、エリカは満面の笑みを浮かべたまま、頬を寄せる。猫は相変わらず、
グリシーヌの膝の上でくつろいでいる。
「いいじゃないですか。
 減るもんじゃありませんし。
 あんまり暴れると、にゃんこさんが逃げちゃいますよー?」
 脅しか、それは。グリシーヌがエリカの腕の中で呻いた。
 アパルトマンが立ち並ぶ、人気のまばらな川縁は、思いのほか居心地のいいものだった。
「それにしても、そのにゃんこさん、グリシーヌさんによく懐いてますね。
 随分、グリシーヌさんの家から遠い場所なのに、
 よく来るんですか?」
 エリカはグリシーヌの金髪に指を絡めた。手入れの行き届いた金髪はやわらかく、いい匂いがした。「い
や、別にそういうわけでは、」と答えようとしているグリシーヌの顔を、毛先でくすぐると、空いている右
手で叩かれた。
「痛いですよー。」
「なら、くすぐるな!」
 加減するどころか、まったく力の篭ってなかったその一撃は、まるで痛くは無かったのだけれども。こう
いう所でやたら優しいから、また懲りもせずに好きになってしまう。他人にも自分にも厳しい人だから、多
分、こんなにも優しいんだろうな、なんて思う。
「あーあ、わたしも猫だったらなぁー。」
 グリシーヌの頭に顎をぽすっと載せて、エリカはため息をつく。ついでにぺったりと背中に張り付くと、
グリシーヌが身じろぎをしたのが判った。
「なんだエリカ、そなたは猫に生まれたかったのか?
 猫になっては、プリンは食べられんぞ。」
 その言葉を聞くと、エリカはより一層、グリシーヌに凭れ掛かった。さしものグリシーヌの姿勢も、前の
めりになる。しかし、そこは流石エリカというか、そんなことお構いなしというより、気付く気配すらなく、
グリシーヌの髪の毛を撫でながらぼそぼそと呟く。
「それは、そうなんですけど。
 もし、わたしが猫だったら、今、そのにゃんこさんがして貰ってるように、
 グリシーヌさんの膝の上を独り占め出来て、
 それどころか、あんなかわいい笑顔が見られるんですよ!」
 朗々と語りながら、エリカは急にがばっと立ち上がり、握りこぶしを作った。一方で、「きゃっ。」グリ
シーヌは急に負荷がなくなったことにより、バランスを崩して、今度は後ろに転がる。猫が驚いて、彼女の
服に爪を立てた。
「これは、もう、猫にならなきゃ損ってものですよ!
 グリシーヌさんも、そう思いません?」
 握りこぶしをグリシーヌの方に突き出しながら、エリカはにっこり微笑んだ。空は晴れ始めていて、エリ
カの背後に太陽が見え隠れして眩しい。グリシーヌは左手で影を作りながら、呆れたように眉を顰めた。
「エリカ、いきなり立つものではない。
 猫を下に落としでもしたら、どうするのだ!」
 怒るグリシーヌに、エリカはぴっと人差し指を立てて答えた。その表情は自信満々だ。
「グリシーヌさんなら大丈夫だって、
 わたし、信じてましたから。」
「いや、だからと言ってなぁ・・・。」
 グリシーヌは返す言葉を失って、ふいっと顔を背けた。他人にも自分にも厳しい人だから、中途半端なこ
ととかは絶対に許さないけれど、正直に真っ向からぶつけられた好意は絶対に無下に出来なくて、でも受け
止めるのが苦手だから、すぐに照れてしまう。そういった仕草もらしくてとてもいいのだけれど、たまには
そんな表情もきちんと見たくて、エリカはそっぽを向いたグリシーヌの頬を両手で挟み、顔を覗き込んだ。
「こら、何をする。」
 均整の取れた顎のライン。触れると、くすぐったいのか、グリシーヌは眉をぴくんと動かした。
「だって、グリシーヌさんがかわいいものですから。
 見たくなるのは当たり前じゃないですか。
 ね?」
 小首を傾げて同意を求めると、知るか、と短く言い切った。その頬に、僅かに赤みが差したこと辺りに、
エリカはそこはかとなく嬉しくなった。理由なんて、まるで判りそうもないけれども、なんだか嬉しい。こ
れだけで、今日はいい日だったと、日記に書ける。
「それにしても、にゃんこさんはうらやましいですね。
 エリカもグリシーヌさんのあのかわいい顔、毎日みたいです。」
 言ったエリカの顔は、嫌に真面目くさっていた。グリシーヌの頬が、ぱっと赤くなる。
「へ、変なことを言うな!
 誰がそんな、か、」
 威勢だけはいいのに、上擦った声が正直だ。エリカは、照れ屋さんですね、と微笑みかけ、思いついたよ
うに声を上げた。
「あ、念のために言っておきますけど、
 普段の顔がかわいくないって言ってるわけじゃないですよ!
 グリシーヌさんは、いつでも、すんごくかわいいですから!!
 もう、食べちゃいたいくらいですよ。」
「そんなことを念押ししなくてよい!!」
 そう言った、グリシーヌの青い目と、視線がばっちりと合った。ツリ気味で意志の通った目。彼女はよく
も悪くも嘘が吐けない人だ。一瞬、吸い込まれるような感覚に襲われる。青い目の人はたくさんいるけれど
も、こんな錯覚を与えるのは、彼女しか居ないと、ぼんやり思い。
 思ったら、なんとなく、キスをしていた。

 ほんの零点零一秒。

 やわらかい唇に、ずっと触れて居たかったけれど。放れると、本当に、真っ赤になったグリシーヌの顔が
目の前にあった。耳まで赤い。
「な、な・・・っ。
 エリカ・・・・?」
 大混乱しているらしい表情。そんなグリシーヌに、エリカはにっこりと微笑みかけて、さらりと背を向け
た。髪の毛が軽く肩を跳ねる。
「かわいかったから、つい、奪っちゃいました。
 大丈夫です、減るもんじゃありませんから、多分!」
 グリシーヌが何か言っているのが聞こえたが、エリカはそのまま「それじゃ、シャノワールで!」と手を
振って駆け出した。そのまま、路地をぐるぐると抜けようとしているのか、迷おうとしているのか、自分で
も判らない足取りで駆ける。そうすると、案の定、看板にぶつかった。
 ガンッ!
「いったぁーいっ!!」
 いつもより大げさに痛がって、いつもより大げさに頭を抑えた。そんなことをやっている路地裏に人影は
無く。エリカはぶつけた部分を一撫ですると、はは、と乾いた笑いを浮かべた。そして、自分の唇に触れて
みる。そうしたら、泣きそうな気持ちになって、思い切って空を仰いだ。
 頭上にはいつの間にか、青空が広がっていて、太陽を直視してしまったら、なんだかくしゃみが出た。
 一緒に出てきた涙は、袖で拭った。





































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あとがき