世界で私は、一人きりだった。



 部屋のあちらこちらにある機材、そのどれもを取っても、巷で見かけたことはない。どんな博覧会にも、
一度だって登場したことがあるだろうか。産業革命が起こって100年。誰がこのような技術を想像し得
ただろうか。それほどに非現実的な機械。
 それらすべてを従えて、イザベラ・ライラックは花火のことを見つめていた。四十を過ぎて猶、美貌と
自尊心に満ち溢れたその頬には、微笑さえ浮かんでいる。
「急で悪いんだけどね、この場で答えて欲しいんだよ。
 どうする、花火。」

 一人きりで、
 海の底に一人でいる、私を待っていてくれる人を、

 待っていた。

 巴里華撃団。賢人機関による都市防衛構想に則って、帝都に次いで作られた超法規的組織。ここのとこ
ろ、巷でも噂になっていた。ことのあらましを聞き及び、ある程度の質問をしたとはいえ、にわかには返
事をし難かった。言い淀む。
「で、ですが、私は――――。」
 花火が視線を逸らそうとするのを、イザベラは許さなかった。そのたっぷりとした威厳のある声は、伯
爵夫人イザベラ・ライラックではなく、巴里華撃団総司令にしてグラン・マと呼ばれる人物のものだった。

 あの人を、

「花火。
 あんたが、」

 待っていた。


「自分で決めるんだ。」

 グリーンの眼差しに気圧されて、花火は僅かに後ろ足を引いた。掌に変な汗が浮かぶ。そのときだ。
『――――メだ! 一旦、退くんだ!』
 沈黙を切り裂いて、男性の声が場を席巻した。その声は、ガリガリと雑音が混じり、お世辞にも聞き取
りやすいとは言いがたい。スピーカーから聞えてきた音だった。
 画面の中、真っ白い人型蒸気が剣を振るう。
「大神さん・・・。」
 ぽつりと、花火の唇から名前が漏れた。
 花火はグラン・マを振り返った。
「私も、戦います。」
 画面からの音が、花火の横っ面を打ち続けていた。ブラウン管からの光が、彼女の姿を照らし。少し遅
れて爆発音が響く。その中で、グラン・マが満足そうに、にっこりと微笑んだ。









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 電灯がおぼろげに照らす仄暗い廊下で、花火はある扉をノックしようと振り上げた手を、そのまま胸元
へ収めた。目の前に聳える重厚な扉は、この屋敷の主人であるグリシーヌの部屋のもので、夜も更けたこ
の時間、常なら静まり返っていて、たまに、タレブー婦人との会話が聞える程度である。
 しかし、今夜は違った。中から、楽しげな談笑が聞える。花火にはその声の主が誰で、そして何故、グ
リシーヌの部屋に集まっているのかすぐにわかった。ノックしたところで、追い返されてしまうのは目に
見えている。花火は微笑んで、部屋のドアに背を向ける。
「あ、花火くん。」
 声を掛けられて振り仰ぐと、目の前に黒髪の青年が立っていた。
「大神さん。
 もうみなさん揃っているみたいですよ。」
 大神は、そうか、ありがとう、と頷く。大神も、明日の準備で呼び出されたのだろう。手にはいささか
の荷物が在る。具体的に言うと鋏と色紙だ。
「花火くんは、みんなに会って行かないのかい?」
 大神がドアノッカーに手を掛けながら、花火に尋ねた。そのときに、大神にあまりにしっかりと目を見
つめられて、花火はそこはかとなく気恥ずかしさを覚えた。日本人とはいえ、巴里で過ごした時間のほう
が遥かに長い花火にとって、目をじっと見つめて話されるということになんら抵抗は無い。実際、グリシ
ーヌは会話の最中に目を逸らすことのほうが少ない。
 だというのに、こんな風に気恥ずかしさを覚える自分が少し不思議だった。
 花火はそんな自分の感情を気取られないように注意を払いながら肯く。
「ええ。
 明日になれば会えますし。
 それに、私を入れたら、大神さんが怒られてしまいませんか?」
 みんなで集まって、私の誕生日パーティの準備をしてくださっているんでしょう、とは心の中でだけ呟
いて。すると大神はあからさまに、しまった、という表情に変わった。頭をかきながら、苦笑いをする。
「すまない、花火くん。
 逆に気を使わせてしまったね。」
「いえ、――――。」
 花火が首を横に振ろうとしたそのとき、グリシーヌの部屋のドアが内側から開かれて、元気いっぱいな
女の子の声が飛んできた。
「あ、イチローだ!
 待ってたんだよ、早く早くー!」
 コクリコは言うが早いか、大神の腕に飛びつくと、大神を急かした。その声につられてか、エリカとグ
リシーヌも順に顔を出す。
「もー、大神さんってば遅いですよー。
 エリカ待ちくたびれちゃいました。」
 両手を腰に当てて、エリカはむぅ、と怒っている。そのエリカの頬には、インクがべったりとついてい
て、というか、服も思いっきり汚れていて、大神は目を丸くした。
「エリカくん、その格好・・・。
 一体どうしたんだい?」
 大神にそう尋ねられると、エリカは恥ずかしそうに指を絡ませた。
「いえ、あの・・・これはですねぇ。」
と言い淀むエリカを遮って、コクリコが大神の視界の中に飛び込んでくる。
「エリカの変な顔、すっごいんだよ!
 ボクもう、ほんとおっかしくって!!」
 コクリコはその様子を思い出したのか、ころころ笑いながら、両手で顔を挟んでみたりした。エリカは
頬を赤らめながら、コクリコの脇を突っついた。しかし、コクリコはオーバーなリアクションで話を続け
る。
「そしたらね、エリカったら、こーんな顔したとき、」言いながら、コクリコは年頃の女の子がしてはい
けないカオをしてみせる。その横で、エリカの顔が青ざめる。
「勢い付きすぎて、後ろにガッシャーンって倒れちゃったんだよ!?
 それで、インクをこぼしちゃって、もう大変!
 さっきまで、ずぅっと掃除してたんだよっ!」
「さすが、エリカくん。」
 感心したように大神がため息をついた。エリカが「あ〜ん、コクリコってば、全部バラさないでよぉ。」
と情け無い声を漏らした。コクリコは笑い声を上げながら、そんなエリカに抱きついた。
 グリシーヌは廊下の暗がりと、部屋の明かりの合間に立って、花火のことを見つめていた。
「花火。」
 微笑むように、花火の名を口にした。花火もグリシーヌを見つめ返す。
 そこだけ時が止まっているかのような錯覚。
 しかし、それもすぐに動き出す。花火は目元を緩めた。
「ふふ、どうしたの、グリシーヌ。
 おでこに皺が出来てるわよ。」
 そう言われて、グリシーヌは破顔した。眉間の皺はそのままで。
「掃除が少し大変で、疲れたのかもしれんな。」
「もぉー、グリシーヌさんまでひどーい!」
 エリカの声が廊下に響いた。それに続いて、コクリコの元気な笑い声と、大神の愉快そうな声と、花火
の控えめな笑い声が廊下にこだました。
「み、みんなまで、酷いよぉ・・・。」と恨めしげにいいつつも、エリカもみんなに釣られて、最後には
一緒になって声を上げて笑いだした。と、そこへタレブーさんが怒り顔でやってきた。
「楽しんでおられるのはよろしいザマス。
 いいザマスが、今、何時だと思ってるザマス!
 もう少し、お静かになさって欲しいザマス!!
 そもそもオオガミ、あなたがついていながら、どういうことザマス!?」
 その剣幕に驚いて、みんな口を閉ざした今となっては、一番大きな声を立てているのがタレブーだとい
うことはご愛嬌だ。当の大神はと言えば、困り顔でひたすらに謝っている。
「タレブー、そこまでだ!
 まったく、タレブーの声が一番響いてるではないか。」
 遮ったのはやはり、グリシーヌのため息だった。グリシーヌは前に出ると、エリカとコクリコを示して、
作業に戻ろうと告げた。二人の返事は元気よく、「了解です!」と「はーい!」の二つ。次に花火を振り
返った。
「花火は、私に何か用事があったのではないのか?」
 尋ねると、花火はゆっくり首を左右に振る。
「ううん、用って程のことではないの。
 気にしないでいいわ。
 それに今晩は、忙しいんでしょう?」
そこで花火はみなにちらりと視線をやる。インク塗れのエリカが、「そうなんですよー、明日の花火さん
の誕生日パ――――。」と言い掛けて胸を張る。そんなエリカの口を、慌ててコクリコが塞いだ。「エリ
カ!言っちゃダメだって!」
「ああ、すまんな。」
 そう答えてから、グリシーヌは大神に目を向けた。微笑を浮かべて、珍しく頼みごとをする。
「隊長、花火を部屋まで送ってはくれないか?
 私達はもう少し、部屋を片付けねばならんのだ。」
 グリシーヌの浮かべた笑みの中、青い瞳の奥だけが、どういったわけか悲しげで。大神は快く頷いた。
「ああ、まかせてくれ。
 じゃあ、行こうか、花火くん。」
 持参した色紙と鋏をグリシーヌに手渡して、大神は花火を呼び寄せた。花火はきょとんとした様子だっ
たが、すぐにグリシーヌ達を振り返って、頭を下げた。
「おやすみなさい。」
エリカとコクリコは威勢よく、「おやすみなさーい!」と手を振った。タレブーは品良く、「おやすみな
さいザマス。」と応じる。
グリシーヌはただ微笑んだ。
「ああ、おやすみ、花火。」