「夜になると、結構外は涼しいんだね。」
 綺麗に刈られている芝生の上を歩きながら、大神が背筋を伸ばした。花火は大神の隣で小さく微笑む。
「ええ。
 ですから、体調を崩さないように気をつけてくださいね。」
 花火の言葉に、大神はにっこりと頷いた。
「ありがとう、花火くん。」
 気さくな笑顔に、花火は何故か気まずさを感じた。「いえ、そんな・・・。」と曖昧に返事をすると視
線をそれとなく逸らす。庭師がきちんと手入れをしている、綺麗に刈られた芝のはずなのに、何故かいつ
もよりも足が浮いている気がする。体が軽いようでいて、自分の身体では無いような気もする。
 だから花火は、よく晴れた夜空を見上げた。
 街の光に照らされて、夜は真っ黒ではなく暗い藍色で、その中で星がいくつもちらちらと真っ白く輝い
ていた。ただそれだけだ。流れ星が落ちたわけでもなければ、普段は見えないような星が見えているわけ
でもない。なのに。
「・・・奇麗。」
 花火は一言漏らさずには居られなかった。
 わざわざ夜中に、しかもブルーメール邸の庭を散歩だなんて、思い返せば今までしたことがあっただろ
うか。いや、きっとそれだけではないのだろう。胸を打つようなこの感覚を、なんと呼ぶか知っている。
大神が立ち止まってしまった花火を振り返った。歩みを止めて、紡がれる言葉を待っている。
「・・・私、変ですね。
 いつも、いえ、毎日様に見ていたはずなのに、
 この星空がとても懐かしいと感じるんです。」
 夏の夜風の匂い。電灯に集まる羽虫のうっとうしさや、葉擦れの音。気にすると、そこかしこに生き物
の気配を感じる。こうもりが一羽二羽風に舞い、夜遊びな猫が庭の端っこに忍び込んであくびをしている。
そして、それら全てに囲まれて、呼吸をし立っている自分。
「どうしてでしょうね。」
 花火が小首を傾げると、大神は微笑んだ。

「それはね、花火くん。
 簡単なことだよ。」









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「じゃあ、グリシーヌ様はメレンゲを作ってください。」
 はい、とシーからボウルに入った卵白と泡だて器を握らされて、グリシーヌは背中にどっと緊張が走る
のを感じた。教養程度に料理の仕方や手法は知っているが、普段はタレブーが厨房に立たせてくれないの
で、本当に教養程度だ。
「ああ、まかせろ。」
 それでも、自分が言い出したことだ。やりとげなければならない。グリシーヌは大きく頷いた。すると、
プッ、とシーが小さく吹き出した。グリシーヌがはっとなってシーの顔を見つめると、シーはとうとう声
をあげて笑い出した。
「もぉー、グリシーヌ様ってば、緊張しすぎですよー!
 メレンゲごときでムキになっちゃって、グリシーヌ様ってば、かわいいー!」
 泡だて器を握り締めたポーズのままで静止していたグリシーヌの顔が、見る間もなく赤くなった。
「な、か、かっ――――ふ、ふざけたことを申すな!
 ただ、私は作ると決めた以上は、全力を尽くさねばならぬとだな―――!!」
 赤らんだ顔のままで、グリシーヌはシーに詰め寄る。それでもシーのころころという笑い声はやまなく
って、グリシーヌはとうとう顔をそむけた。
「もう知らん!ずっとそうやって笑っていろ!」
 グリシーヌは台の上にボウルを置くと、慣れない手つきでがっしゃがっしゃと卵白をかき混ぜ始めた。
その横顔は眉根を寄せて、険しい表情だった。だからシーは計量に使ったりした調理道具を手際よく洗い
ながら、グリシーヌにことさら明るく言う。
「そんなに不安にならなくたって大丈夫ですよ。
 グリシーヌ様が、花火さんのことを想って作ってるんです。
 上手く出来ないわけがありませんよ。」
 グリシーヌは顔を上げずに、ボウルのなかでぐるぐると巡っている卵白を見つめていた。
「どうだろうな。」
 朝の厨房には白い日差しが差し込んでいて、先程舞い上がった小麦粉が晒されている。グリシーヌの返
事はくぐもっていて聞き取りにくく、それでもシーはにっこりと微笑んだ。
「ぜーったい上手くいきますって!
 このあたしがついてるんですよ!
 あ、それともグリシーヌ様ってば、あたしじゃ不安だっていうんですねー?」
 そう言って、シーはグリシーヌの顔を覗きこんだ。一瞬、沈んでいるようにも見えた顔は、驚きに歪ん
でぱっと遠ざかった。
「こ、こら!
 人の顔を覗きこむな!」
 大きく後退しながらも、両手にボウルと泡だて器は手放さない。シーは感心して一人で勝手に、「グリ
シーヌ様はえらいですねぇ、うんうん。」と頷きつつも、グリシーヌに詰め寄った。さっきとは逆の構図。
いつの間にか、食器は洗い終わったみたいだった。
「それで、グリシーヌ様。
 あたしじゃ不安なんですか?」
 いつの間にか厨房の隅まで追い込まれていて、グリシーヌは視線から逃れるために、上半身を逸らした。
「い、いや、そういうわけではないが・・・。」
 シーはそんなグリシーヌの胸に両手をついて、鼻先をきっ、と近づける。
「じゃあ、どういうわけなんですか?」
 言葉に詰まるグリシーヌ。だらだらとらしくもなく背中をつめたい汗が流れる。
 にらみ合っているのだか、見詰め合っているのだかよくわからないが、そうしているうちに、窓の外に
は鳥がやって来てちゅんちゅん啼きだすし、沸かしていたお湯が沸騰して鍋が音をカンカンと立て始める。
「グリシーヌ様。」
 シーがきつく名を呼んだ。
「・・・シー・・。」



「おーおー、二人ともあっついねぇー。
 で、続きはどちらで?」



 厨房の入り口。振り返るとそこにはダルそうな表情のロベリアが立っていた。グリシーヌの顔つきが少
し険しくなる。
「ロベリア。
 何の話をしてい――――。」
 言いかけたグリシーヌの言葉を遮って、シーがにっこにっこと頷いた。これ見よがしにグリシーヌにぺ
ったりとくっついて言う。頬もくっつけてみたりして、喜色満面だ。
「えー、そんなの決まってるじゃないですかー。
 ね、グリシーヌ様?」
 納得しあっているようなロベリアとシーの様子に、グリシーヌはこめかみに手を当てた。
「シーまで一体、なんの話をしておるのだ・・・。」
 さぁー、なんの話でしょー、とシーは悪戯に笑うと、くるっと軽い足取りで流し台の方に向かう。ロベ
リアはロベリアでつかつかと有無を言わさぬ雰囲気で厨房に入ってくると、グリシーヌの手からボウルと
泡だて器をひったくった。
「な、にをする!
 返さんか!」
 怒るグリシーヌを片手で制して、ロベリアはメレンゲの様子を見る。
「あー、まだまだだな。
 ちょっとやってみろよ。」
 そう批評を下すと、ロベリアはグリシーヌの手に泡だて器とボウルを握らせて、台に向き直らせた。グ
リシーヌは憮然としながらも、先程と同じ様子で、ガッシャガッシャと卵白を混ぜ始める。ロベリアは脇
からその様子をじーっと見つめる。
「ロベリア・・・、なにをじーっと見つめておるのだ。」
 突き刺さる視線が痛いのか、それとも不慣れなところを見せるのがいやなのか、グリシーヌは硬い声を
出す。しかし、返事はない。「ロベリア?」とグリシーヌが再度呼びかけると、やや遅れてロベリアが緩
慢な調子で口を開いた。
「いや、つくづくお前ってお嬢さまなんだと思ってな。
 エリカでももっとマシに混ぜるぞ。」
 ここでエリカを引き合いに出されると、怒るのも何だか可笑しい気がして、グリシーヌは厳しい視線を
向けるだけに留めた。ロベリアは後ろから腕を回すと、まずグリシーヌの泡だて器を持つ手を逆手から順
手に持ち替えさせた。
「さ、さっきから一体なんなのだ!」
 グリシーヌはうろたえて身を引きかけたが、ロベリアは取り合わずにグリシーヌの手の上からボウルと
泡だて器を掴む。
「花火にケーキ焼いてやるんだろ。
 たまには黙って言うこと聞け。」
 暴れ気味だったグリシーヌはその言葉に大人しくなった。ロベリアはボウルを傾けさせて、卵白が縁に
深く溜まるようにすると、手首を使って卵白を混ぜる。空気を入れるように、縦に混ぜてやると徐々にだ
が卵白が泡立ってくる。グリシーヌが一人でやっていたときとは立つ音も違い、カッカッカッと小気味よ
いリズムになっている。
「いいか、泡立てるときはこうやるんだ。
 鍋かき混ぜてんじゃないんだから、逆手に泡だて器を持つんじゃない。」
 ロベリアは呆れたようにいいながらも、馬鹿にした様子はなく、きちんと言い聞かせる。普段とは違う
そのロベリアの態度に、グリシーヌも素直に頷いた。
 カッカッカッ、という音と、シーがオーブンの温度を調節する音ばっかりがしばらく厨房を埋める。
「・・・ロベリア、大丈夫だ。
 もう一人でできる。」
 グリシーヌはロベリアを振り仰いで言った。しかし、ロベリアは返事もせず、そのままかき混ぜ続ける。
「ロベリア?」
 身を捩って、グリシーヌがロベリアの顔を見上げる。そうすると、流石にロベリアも気がついて、グリ
シーヌから離れた。離れ際、唇から言葉が漏れる。
「・・・お前も、よくやるよな。」
 だんだんメレンゲらしくなってきた卵白に気をとられていたグリシーヌは、ロベリアの呟きを聞き逃し
て、「え?」と疑問を返した。
「ロベリア、いまなんと申した?」
 メレンゲを作る手を止めて、グリシーヌがロベリアの後ろ姿を見つめる。
 ロベリアは肩越しに振り返って、口元を歪めた。笑顔で、
「絶対、うまいケーキが出来るって言ったんだよ。」