舞い込んできた夜風にふっと夜食の匂いが乗って、大神は鍵束を探る手を止めた。真鍮の鍵と銀色の鍵が
触れ合って、澄んだ音色が暗がりに落ちる。揺れる鍵束の表面で、背中から差し込む淡い光が弾けて粒とな
って降った。何処か遠くを走る蒸気自動車の排気音がぼうっと立ち上る、輪郭のない夜だった。大神は口角
を引くと、真鍮の鍵を取り上げた。
 柄に猫の意匠が施された鍵で目の前の黒い扉を閉ざすと、大神は頭上を仰ぐ。夜闇に沈み、青く染まった
アーチが通用口を覆っている。硝子の天井を透かして、薄ら明るい巴里の夜空を切り取るように、テアト
ル・シャノワールのドームが聳えていた。今夜は薄曇りだった。雲が細い川となって空を渡り、街の灯りが
映り込む。硝子越しの星は歪んで見えた。
 大神は鍵束をポケットにねじ込んだ。振り返れば、細い路地に詰まる涼しい空気に飲み込まれた。鼻から
息を吸い込むと、少し湿った夜気を感じる。二歩刻み、大神はアーチを支える柱へ、背中を預けた。アパル
トマンが立ち並ぶ通りの奥までずっと街灯が並んでいても、照らされる人は誰も居なかった。道が曲がって
見通せなくなるそこまで。ただ、幾室ものアパルトマンに灯が点っている。
 ベストの内ポケットに、大神は右手を入れた。人差し指と親指に紙の手触りを認め、そっと引き抜く。縁
に引っかかって、紙が少し破ける手応えがあった。視界の端を、小さな切れ端が落ちて行く。右手の平に納
まったのは、壊れかかった煙草の箱だ。大神は瞬きをした。だが、いくら目を凝らしても、暗くて箱の文字
は読めなかった。箱の右隅にいつの間にか染みがついていることだけがわかった。
「長いからな。」
 久しぶりに呟いた、日本語だった。細長い箱を開けると、三本の煙草が大神を見上げた。うちの一本を引
き抜いて口にくわえると、大神は再び内ポケットへ手を入れた。ライターが底に入っている。しかし、上手
く取り上げられずに、指で何度も蓋を引っ掻いた。
「Voila`.」
 炎が鼻先に点った。眩しさに目を細め、大神は顔を振り上げた。赤く照らし出された、彼女の頬が微笑む。
「代わりに、アタシにも一本くれよ。」
 ロベリアはそう唇に言葉を乗せると、箱から一本煙草を取り上げた。
「あ、あぁ。」
 煙草をくわえたままくぐもった返事をするうちに、ロベリアの指先に現れた火が煙草の先を舐る。大神は
息を吸い込んで、煙草に火を点した。舌を通り、喉を掠めて、肺の奥へと煙が満ちる。それからゆっくりと、
細く長く口の間から煙を吐き出した。夜風に絡んで、煙が街並へと溶けて行く。
「アンタ、煙草吸ってたんだな。」
 もう一本の柱へ寄りかかり、ロベリアが呟いた。足を交差させ、顎を引き気味に大神を見据える。跳ねた
毛先が風を受けて、微かに揺れていた。
「いつも吸ってるわけじゃないから。
 ロベリアこそ、煙草を吸うなんて意外だな。」
 再び煙草に口をつける。その一瞬だけ、灰に埋もれた火は強くなり、指先を照らした。口から鼻先まで煙
が掠め、吐き出せばふっと視界が霞む。ロベリアがその奥でじっと、大神を見ていた。
「香水のいい匂いをいつもさせてるから、吸わないんだと思ってた。」
 言い添えて、大神は煙草の箱をしまった。ロベリアは火をつけないまま弄んでいた煙草を、口の端に挟ん
だ。右腕に提げた鎖が一息鳴いた。
「ロベリア?」
 向かいのアパルトマンの一室から、灯りが消えた。ロベリアの眼鏡に差し込んでいた一筋の光が失せて、
青く霞んだ左目が見えた。目を一度伏せると、彼女は笑う。
「アンタさ、裏口とはいえ、こんなところで煙草吸ってもいいのか?
 吸い殻捨てて行ったら、グラン・マが怒るんじゃないのかい。」
 まぁ、アタシには関係ないけど、そう漏らすのを聞いて、大神は眦を垂らした。煙を吸い込んで、また吐
き出すとき、口から夜の空気を入れるようにして、頬を解く。
「灰皿代わりなら、持っているよ。」
 ズボンのポケットから、細身の缶を抜き出した。
「案外、ずぼらなとこがあるんだねぇ、アンタも。」
 ロベリアは目を眇めた。大神が手にした缶には縁にびっしりと赤錆がこびり付いていた。塗装も剥がれ、
歪にへこんだ表面には光沢もなく、元が何の缶だったかもわからない。握っている大神の手にも、錆の破片
が貼り付いた。
「あ、これは・・・、すまない。」
 思わず手の中に缶を隠すと、ロベリアが指先に炎を生み出した。頬に赤みが差す。
「まぁ、そんなもんさ。
 それぐらいの方が、親しみも湧く。」
 顔を覗き込もうとしたら、炎に遮られて判らなかった。ロベリアが煙草に火をつける。ルージュのひかれ
た唇の奥へ、煙がふっと吸い込まれる。刹那、彼女の眉間に皺が刻まれた。
「なんだこれ、湿気ってんのか?
 よくこんなの吸えるな。」
 僅かな煙の欠片を勢い良く吐き出して、ロベリアは煙草を体から離して眺めた。
「そうか? 去年、日本で買ったものだから、確かに随分古いんだ。」
 短くなった煙草を口に含み、大神は答えた。指先に火の熱さが触れた。息を吸う毎、燃えて尽きる葉が灰
になって砕ける。
「いや、アンタ、だからって・・・、変な匂いもついちまってるじゃないか。
 不味いっていうより、むしろ。」
 ふ、と大神は煙草の煙を吐くと、ロベリアを振り向いた。言葉を切った彼女が、手にした煙草を見下ろし
ていた。吸われないまま灰になった煙草が、地面に塊を落とした。
「アタシは煙草の匂いが好きで吸ってるんだよ。」
 親指でロベリアが煙草を弾いた。火を散しながら宙を舞った煙草は、彼女が目を細めると暗闇に走った炎
に呑まれて燃え尽きる。黒く潰え、形も失い燃え滓は夜風に崩れた。ロベリアがアーチの外へ出る。巴里の
夜へと踏み出すその時、彼女が肩越しに大神を一瞥した。
「アンタは違うんだな。」
 吐き捨てた言葉が耳を貫いたとき、ロベリアは背を向けて歩き出した。行く手、街灯が照らす道を彼女一
人が歩いて行く。道が曲がって見通せなくなるその先までずっと。過る部屋の灯りに輪郭を縁取られながら。
大神は短くなった煙草の、最後の一息を吸い込んだ。洋上で浴びた潮風が、煙の中で腐っている気がした。 


































  2011/10/26