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 街灯が枝葉を照らしても、樹上は黒い影だった。暮れた藍色の空に滲み、冷たい風に幹から揺れる。夜気
を噛み締めながら歩く。頬を切り腕を冷まし背中から熱を奪う夜風に、服も髪も体も煽られながら、さざ波
のような木々のざわめきに飲み込まれて息を詰める。自分の足音を数えながら進んだ。
 セーヌ川の対岸を、いくつもの灯りが照らしていた。光は水面に靡き、真っ黒い川に溶け出している。す
れ違う人はなかった。街路樹の元に立つ街灯は、ルーヴル宮殿の姿を薄らした線で描くだけだ。人の喧噪も
遠く、蒸気自動車の排気音は風に呑まれている。少し熱い、口から零れる自分の呼吸だけが、輪郭を持って
いた。
 木の下を一つ過ぎ、二つ過ぎる毎、黄ばんだ街灯に自分の形が照らされた。掌の色も、服の色も白日の下
で覚えたものとは違う。まあるく照らされる枝葉もそう、翠ではなくて、名前の付けられない色をしている。
 ポン・デ・ザールが、セーヌ川に掛かっている。金属で作られた優美な曲線を描く、整った橋だ。灯りが
いくつも点り、対岸と一つになって夜を明るく染めている。空の端が、微かに赤らむ程に。グリシーヌはふ
っと、足を止めた。手で幹に触れると、掌に僅かに掻いた汗を夜風が撫でて行った。葉擦れの雨が降る。
 川岸に、彼女が立っていた。見渡す巴里の夜景を、零れる街の灯を、セーヌ川の流れをより黒く切り取っ
て。彼女が立っていた。黒いスカートの裾が翻り、肩口で切り揃えた髪が踊った。
 喉に舌が貼り付いて、名前を呼べなかった。彼女の顔は少し俯いていて、川を見下ろしているようだった。
グリシーヌは前を見る。遠く対岸に点る灯りが水面に映って震えるようで、まるで、
 まるで。


































  2011/10/27