帝都の夜は明るい。通りには街灯が居並び、人が歩いていようといなかろうと、宵闇を照らしている。橙
色の焼け付くような色。その光に晒されれば、店の壁に嵌る硝子すらべっこうのように見えた。路地裏との
境界を、街灯は緩やかなグラデーションで描き出す。壁材の隙間にすら入り込んで蟠る夜を宥め、覆いを掛
けているかのようであった。
 春が近づいてきている夜だった。だが、昼の暖かさなど何処にも残ってはおらず、その寒さに、路地裏に
入り込んだ蒸気は凍りつき垂れ込めている。
 こうなるともう、街灯の傍、光の中の方が視界が利かなかった。蒸気が白い壁となって景色を飲み込んで
しまえば、夜の帳に抱きこまれた路地の奥の方が物が見える。月と星の明かりに照らし出された路地は、薄
汚れた影絵だ。
 街灯の明かりは、足元にだけ僅かに差し込んでいて、真っ黒い水溜りの表面で揺らいでいた。何処かから
の排水であろうその水溜りは、すえた臭いを僅かに放っていた。彼はそれを避けようともせず踏みしめる。
 路地の裏へ、もっと奥へ。
 錆付いた鉄扉の脇を擦り抜け、雑然と積まれた木箱や塵箱を避けて蛇行しながら歩く。左右に聳え立つ銀
座の高い建物に挟まれて狭い路地の暗闇を。前に進む以外にろくに身動きの取れない場所で、彼は呼吸を抑
え神経を研ぎ澄ましながら進んでいく。
 そうして五分ほど進んだ頃だ。彼は足を止めた。もはや景色は闇に沈み、知らぬ人間にはここが銀座の何
処だか分からないだろう。区画の整備が整った昨今でさえ、こうした道はいくらでもある。それが、帝都東
京だ。
 それが降魔という存在を内含した都市だ。
 丁度、彼が三つ呼吸をしたときだった。微かな物音が、彼の背後からこだました。冷え切った夜の静寂で
なければ聞き漏らしてしまうような小さな音は、ともすれば鼠の足音とすら感じられただろう。だが、彼に
はそれが人間ほどの大きさのものが立てた音であると分かっていた。軍人としての勘か、さもなければこれ
が霊力の恩恵だろうか。
 彼は足元を見下ろした。足元は濡れている。コールタールのように黒々と蟠る液体に彼の影がある。彼は
頭の中で数を刻む。三つだ。
 一、二、

「路地裏はいいなぁ、大神ぃ〜。
 こう、なんか青春って感じで。」
 調子っぱずれのギターのコードが路地裏に響いた。
 加山雄一のとぼけた声に、振り向いた大神一郎はため息を零し肩を落とした。投げやりな視線が宙を舞う。
「お、なんだなんだぁ、その反応はー。
 ため息なんか吐いて冷たいじゃないか。」
 ギターを肩から提げたまま、加山はらしい口調で言った。彼の背後に現われたのは本当に見慣れた男の影
だ。ただし、いつも何処からとも無く現われる。今時怪盗という役職が存在するのならば、彼には天職だろ
う。もしくは忍者でもいいだろうと、大神は思う。
「お前は一体、いつも何処から現われるんだ。」
 無下にされた先ほどの緊張感の残骸を拾い集めようともせずに、大神は再度ため息を漏らした。もちろん、
訊いてまともな返事が貰えるとは思っていなかったが。加山は大らかに笑うと、何故だか照れたように後ろ
頭を掻いた。
「いやあ、窓の外を見ていたら、歩いているお前の姿が目に入ってな。
 思わず尾行をしてしまったんだ。」
 何処の犯罪者予備軍だお前は、との合いの手を入れたくなったが、そこはぐっとこらえた。
「まったく、お前は何処に住んでるんだ?
 お前の住んでる場所が、こんな銀座の一等地なわけないだろ。」
 神出鬼没が信条なのかどうなのかはいまいちよく知らなかったが、突然こんなところに出てくるというこ
とは、普通にやって可能な範囲内で考えるならば、常からこの近辺で生活とまではいかなかったとしても、
行動しているということである。海軍に行ったと思っていた加山がよく姿を見せるようになったのはここ一
年だが、そういえば何処に住んでいるか等ということをまるで気にかけていなかった。
 加山は大神の顔を見ると、いつもの得意気な表情をした。
「古人曰く、知らぬが仏って奴だ。」
 呆れを隠そうともせず、そうか、と大神が短く返すと、加山がポケットを探って、何かを取り出した。近
いとは言えない距離の為に、加山が何を持っているか大神には分からなかった。掌に収まる、小さい何かだ
とだけ分かる。
「こんな夜遅くに出会ってしまったついでに、
 明日、朝早い大神少尉に、今のうちに餞別をくれてやろう。」
 加山はそう言うが早いか、親指でそれを勢い良く弾いた。
 大神は受け取ろうと手を翳したが、光を反射したのは一瞬で、暗がりに紛れてすぐに軌跡を見失った。動
きを取りあぐねていると飛ばされたそれは、大神の脇腹の辺りに当たった。腹部に当たった筈のそれはだが、
硬い音を立てて跳ね上がった。
 金の光を零し、足元の水溜りに落ちたのは一枚のコイン。
 それはフランスの通貨だった。
「今はもう、中尉だよ。」
 黒い液面に浸かり、薄汚れてしまったそれを見下ろして、大神は呟いた。腰を屈めてコインを拾い上げる。
手が泥と油に塗れるが、気にせずにそれをズボンのポケットにねじ込んだ。
「なあ、大神。
 フランスに行っても、お前は変らないんだな。」
 加山の口が動く。質問なのか、確認なのかの線引きをしかねる声音は硬く大神に迫った。大神は顔を上げ、
加山を見る。黒い目の表面には何も映っていない。ただ、彼の意志だけが鋭く照り栄えている。
 どういう意味だ、とは聞き返さない。加山の視線が滑り、大神の脇腹を捉える。跳ね上がったコイン。汚
れた金色と、足元に流れてくる黒い水。大神は口を引き結んだまま、上着の下に手を入れた。
 皮製のホルスターの留め金が外される。
 大神の手に握られていたのは、一丁の拳銃だった。金属光沢が銃身を滑る。大神は加山に銃口を向けると、
撃鉄を上げた。金属の噛み合う音が耳朶を叩く。
 大神は拳銃の照準を越して、加山を見つめた。
「俺が、正義だ。」
 撃鉄が空の弾倉を叩いた。