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 銀色のスプーンに乗ったカラメルを、エリカが喜色満面に覗き込んでいる。
「おいしいね! プリンおいしい!」
 取り分けてやったプリンの皿を左手にがっちり掴んで、エリカはにこにこしていた。
「そうだね、おいしいねぇ。」
 ロベリアはしきりに頷いて自分も一口プリンを口に入れる。テアトル広場から下る坂の半ばにあるカフェ
はモンマルトルの喧噪も少し遠ざかる。橙色した電灯が天井に吊るした銅の手鍋を照らし、格子窓から落
ちて来る陽光と叩き合って小さなテーブルの上に模様を描いていた。
「このプリンは気に入ったか?」
「うん! おいしい!」
 もう何十回も口にした筈のおいしいという言葉を、エリカは変わらない笑顔で繰り返す。薄暗い店内で
エリカの眼差しばかり明るかった。
「そっか、よかったな。」
 随分前に聞いてもいないのに、最近ようやく苦いカラメルのプリンのおいしさがわかったんです、大人
の味ですねぇ、私も大人になりました、とかなんとか言っていたのを、ロベリアは何故だか覚えていた。
だから、この近くで一番甘いカラメルで作ったプリンを出しているこの店を選んだ。
「ありがとう! ロベリアおねえちゃん!」
 よくこの店を選んだもんだ、この単調な会話の末に何度も思い返すそれを、ロベリアはもう一度思った。
エリカは唇の端にプリンの欠片をつけて、ロベリアを見上げている。
「ぼくプリン!
 ママとパパは!?」
 カフェの扉が開くベルの音と共に、高い男の子の声が店内に飛び込んできた。ロベリアはエリカの肩越
しに入り口を見遣る。人がすれ違うのがやっとな程にテーブルと椅子が並んだ狭い店内に入ってきたのは、
ここからではテーブルに隠れて姿が見えないくらいに小さな少年のようだった。歳の頃ならたぶん、今の
エリカと同じくらいだろう。両親が続いて扉をくぐる。
「あのね、もうちょっと食べてもいい?
 もうちょっとだけ、ね? だめ?」
 とびきり甘えたやわらかな声音で、エリカがロベリアを見上げた。いつの間にか取り分けてやったプリ
ンを食べてしまったエリカは、大皿の上に未だ3分の1程残されたプリンをちょこんと人差し指で示して
いる。小首をわずかに傾げてその頬を亜麻色の髪が流れれば、ロベリアは頷いて取り分け用の大きなスプ
ーンを手に取った。
「いいよ、ぜーんぶ食べていいからな。」
 皿を傾けてプリンの山を全てスプーンに載せると、エリカの顔がこっちまで嬉しくなりそうな程に、ぱ
あっと輝いた。

 調子っぱずれの歌がごきげんなリズムで跳ね回っている。
「Maman les p'tits bateaux」
 ママ 水に浮かんでる
 一回りだけ小さな手が、ロベリアの手をしっかりと握っていた。汗ばんだ肌から伝わる体温が二つの掌
の間に籠って熱い。延々続く石畳、その石をいちいち選んで両足でエリカはジャンプする。エリカは今、
街にあるもの全てを遊び道具に変えてしまう魔法を持っている。ロベリアは大股でゆっくり、エリカの遊
びに合わせて歩いた。
「Qui vont sur l'eau ont-ils des ailes?」
 小さなお船には 羽がないの?
 水泡のように浮かんで行ってしまいそうな、眠くなるような歌だった。まどろみの最中に聞くようなそ
の詩はおそらく、フランスの童謡なのだろう。エリカもよく解らないのか、音程が定まらないまま紡がれ
る歌は薄闇の広がりだす空を彷徨っている。
「Mais oui, mon gros beta」
 もちろんあるのよ
 不揃いな二人の影が路面に流れている。背後から夕日に貫かれ、影になった手や顔には夜が滲んでいる。
一歩一歩跳ぶエリカはロベリアの前に後ろに振れるから並んで行くことなど出来ないで、すれ違う人々の
目が夕焼けの中こちらを向いていた。
 自分達はまあるく浮かんでいる。
「S'ils n'en avaient pas
 Ils ne danseraient pas」
 そうでなければ 飛べないでしょ
 服装をいくら街行く年頃の人のように、修道女でも悪党でもなく揃えたとしても。細い路地が下り坂に
変わる。シャノワールの方へ、二人の足取りはモンマルトルの丘を北へと向かっていく。
「Allant droit devant eux 
 Ils font le tour du monde」
 お船は先へと進み 世界を一周するの
 空は東からゆっくりと青に地平を染めている。急な坂道は視界を開かせて、二人の目の前には昔の城壁
跡も越えて遠く、夜の中まで続いて行く巴里が広がっていた。
「Mais comme la Terre est ronde 
 Ils reviennent chez eux」
 地球は丸いから また戻ってくるのよ
 地平は巴里の先までずっと存在している。モンマルトルに一つだけある小さなブドウ畑を左手に眺めて、
二人は小さなお船のようにのんびり進んで行く。ブドウの大きな葉が街を撫でる風に吹かれて揺れた。葉
擦れが雨音の様に降る。
 エリカがジャンプをやめた。大股で歩き出し、繋いだ手をぶんぶんと前後に振ってスキップをする。長
い髪が背中で尻尾のように跳ねた。
「Si tu veux faire mon bonheur
 Marguerite, Marguerite」
 明るく跳ね回るような歌に変わる。上機嫌にエリカは力いっぱい歌をうたう。ぼくが好きなら、だなん
ていかにもフランス人の童謡だとロベリアは半歩先行くエリカの背中に笑った。
「Si tu veux faire mon bonheur」
 愛してくれるんだったら
 小さく笑ったのが聞こえたのか、エリカが肩越しにロベリアを振り仰いだ。ブラウンの目に夕日が映り
込めばそれはまるで琥珀に火をつけたように煌めいた。その唇が次のフレーズを口ずさむ。
「Marguerite donne-moi ton coeur」
 キスして欲しいんだ
「おまっ---! なんて歌うたってんだ!」
 思わずロベリアの口から大声が弾けた。耳の奥を自分の声が回っているのを聞きながら、ロベリアは空
いている右手で頭を抱える。脇に嫌な汗を掻かせながら、頬に熱が集まる。
「おねえちゃんどうしたの?」
 5歳のれっきとしたフランス人は目をまんまるく見開いてロベリアを覗き込んだ。
「なんでもない。なーんでもない。」
 ロベリアは目を合わさないまま、頭をぶんぶんと左右に振った。子供の歌に過剰に反応した自分から視
線を逸らしたかった。ロベリアの腕をエリカはぎゅっと握る。それは丁度、火傷をしているところだった。
「いっ---!!」
「おねえちゃん?! どうしたの?」
 飛び出した悲鳴に、ぱっとエリカが腕から手を離した。不安そうに眉毛を垂らして、人なつこい眦が歪
む。
「けがしてるの? 大丈夫?」
 エリカの掌がそっとロベリアの腕に添えられる。ロベリアは肩で息を吐いて力を抜くと、この上なく優
しく微笑もうとした。大丈夫だと、ちょっとびっくりしただけだと言って、エリカを安心させるために。
 白い光を、エリカはその掌に灯した。

「やめろ!!」
 乾いた音が響いた。
 張り上げたロベリアの怒声がぽっかりと頭上に開いた空に吸い込まれた。彼女は叩き落とされた手を胸
元で抱きしめて立ち尽くす。ロベリアは煙草の吸い殻が落ちる地面を見下ろした。
「そんなことしな」
「うあああああああああぁぁあぁぁああああああああっ!!」
 エリカが大声で泣き出した。両目から落ちる大粒の涙が、くしゃくしゃに潰した顔を伝って、ぼろぼろ
と止まらない。
「ぇぁあぁぁあああああああ!! ううぁっ、ああああぁぁあぁああ」
「エリカ・・・エリカ、違うんだ。エリカ・・・。」
 涙は顎を伝ってシャツの上にもいくつも染みを作る。
「お前に怒ったんじゃないんだ、エリカ・・・。」
「うぅあああぁぁあ・・あああぁぅぅ」
 もうロベリアの声など掻き消されてしまって、エリカの元には届かない。エリカの手が顔を覆う。掌か
らもその涙が溢れて腕が濡れていくのを見ていられなくて、ロベリアはエリカの背に腕を回した。抱きし
めると、冷めていく夜の匂いと、いつの間にか馴れたエリカの匂いがした。
「エリカ。」
 どんなに強く抱いても、エリカは顔を両手で覆ったまま、ロベリアに縋ろうとはしなかった。
 ロベリアの見つめる先で、太陽が地平線を焼いて落ちる。