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「寝たね。」
 その呟きにロベリアは黙って頷いた。梁にぶらさげられた電灯は圧しかかる夜を退けるには弱くて、屋
根裏部屋の隅には影が踞っている。
「ロベリア、疲れたろう。後は俺が面倒をみるから。」
 枕元に置いた丸椅子に腰掛け、男がそう言った。ロベリアは不機嫌さを隠しもせず鼻で嗤う。座り込ん
だ木の床は身動きすると軋んだ。
「二人きりで置いておけるかバカ。」
 ベッドに預けた背中に、規則正しい寝息が聞こえる。大神はシーツの中に横たわる少女を見下ろした。
真っ赤に腫らした目を枕に押し付けて眠っている。手はもう一つの枕を抱きしめていた。
「枕、二つあるんだね。」
「さっさと帰れよ。明日はアンタが面倒見ろよな。」
 大神の苦笑が肩に当たった。ロベリアは片膝を立てると頬杖をつく。物の少ない部屋だった。最低限の
家具しかないで、年頃の少女が好きそうな雑貨も小物も何一つない。それが修道女というものの生き方な
のだろうか、人が持っているもの全てをどこかにおいやって、ただ一つの道を求めようというのだろうか。
私はある、とか言う者の為に。こんな片手で数えられてしまう年齢の子にまで、神と呼ばれるものはそれ
を強いるのだろうか。そしてエリカはその道を行き続けるのだろうか。
「最初、エリカくんが起きたとき、なんて言ったか聞いたかい。」
 椅子が軋んだ。ロベリアは首を巡らせて振り仰ぐ。そうすると、横に広がる髪がスーツに当たって折れ
た。頬を毛先がくすぐる。
「お父さんとお母さんは? って、とても不安そうに言ったんだ。」
 大神はエリカの顔をずっと見つめていた。
 窓の外にある夜と同じ深さをした瞳が時を止めたように、ずっと。
「でも、俺たちがなんとかエリカくんの状況がわかって、お父さんとお母さんは用事で今おでかけしてる
んだよ、て答えたら、急にそんな顔やめちゃってさ。」
 エリカを、淋しい顔で見つめている。
「ふーん・・・、て。
 エリカくん、ふーん、って言って、それっきり。」
 ロベリアは身を乗り出して、エリカを振り返った。長い睫を合わせて、エリカは全てを止めて眠ってい
る。呼吸に合わせて動く胸だけ、ただこの夜に時の流れがあることを示していた。
「いつ、元に戻るんだ。このまんまじゃあさ・・・。」
 それは独り言だった。ロベリアの呟きを受け取れるものはなく、彼女はからっぽの手を、眠るエリカの
なめらかな頬に伸ばす。白い指先はその肌には触れないで、空気一枚を隔てていた。沈黙の間をエリカの
寝息だけが擦り抜けて目に見えぬうちに何処かへ消えていく。
「元に戻れば、きっと」
 慎重に選んだ言葉の続きが、どうしても喉から出て来なかった。
「俺はそろそろ行くよ。
 何かあればすぐ連絡してくれ、必ず来るから。みんなもそう言ってた。」
 あぁ、ロベリアがそう頷くと、大神はおやすみと言い残して席を立った。
 それからいくつ、外を人が行き過ぎるのを聞いただろうか。電灯も切って暗い部屋の天井を、変わらず
床に座ったままロベリアは仰ぐ。
 霊力の光。限られた人だけが持つ、超常の力。ロベリアは影に霞んだ自分の指先を見下ろした。手首か
ら指先に血液を集めるような意識だ。ただそれだけで、ロベリアの指先には燐光が宿る。床に落ちている
窓からの明かりよりも眩く、粒のように零れる光。光は微かに浮かんで宙に溶けた。
 エリカがあのとき、全てを振り絞って注いでくれた力。エリカがさっき、まるで息をするのと同じに分
けてくれようとした力だ。だが、この力は人に怖れられる。誰も他に持っていないから。エリカももうそ
れを知っているのに、だって夕暮れ時に泣いたのは、そう。
「ん・・ぅ・・・。」
 みじろぎをする気配がした。ロベリアは首を巡らせて、ベッドを振り返る。
「ロベリア、おねえちゃん・・・?」
 まどろみに霞んだ二つの目がロベリアを映していた。枕を抱きしめていた右手が剥がれて、ロベリアの
方へわずか伸びる。その手は、ロベリアに届く前にベッドの上に落ちた。真っ赤な目にまた涙が滲む。
「おねえちゃんも・・・やだった?」
 涙はまだあの時と同じ温度で溢れた。左目から涙が一粒零れ落ちて、エリカは枕へ顔を半分押し付ける。
その拍子に右目からも涙が流れて、鼻の頭に伝った。何度も繰り返した言葉をもう一度、エリカに言い聞
かせる。
「そんなことないって、言ってるだろう。
 エリカは覚えてないけど、おねえちゃんはエリカに、助けてもらったことがあるんだ。」
 涙の匂いがする。しょっぱくて、息の詰まる匂いだ。ロベリアはシーツを握り締めているエリカの右手
に、そっと自分の手を重ねた。
「そう、なの?」
 重ねた手がわずかに震えた。ベッドの上で小さくなるエリカの背中に、ロベリアは想いを降らせる。
「あぁ。だから、エリカにすごく感謝してるんだ。ありがとうな。」
 強ばった小さな手に、いま少しでも自分の存在を伝えたかった。持てる全てを出して自分を救い、代わ
りに自分を失ってしまった少女に。いま少しでも。
「でもそのとき、エリカはがんばりすぎちゃったから、エリカが心配だったんだよ。
 ごめんな、痛かったろ。」
 エリカの手から、微かに力が抜けた。枕から顔を少しずらして、エリカの赤くなった右目がロベリアを
見る。乾かない涙の破片が頬でちらちらと瞬いていた。
「エリカのこと、きらいじゃない?」
 喉に涙が絡んだ声。
 ロベリアはその灰緑色の目を細めた。
「好きだよ。」
 エリカの手が、ロベリアの手の中で開いた。腕をついて起き上がり、エリカが正面からロベリアに向き
直る。窓の外に撒き散らされた街明かりと月が、エリカを逆光で彩った。その震える唇が、新たな声を紡
ごうとする。空気に解き放たれる前に、ロベリアはその返事を小さな部屋の中に生み出した。
「本当だ。」
 見開かれたエリカの目から、一筋の涙が生まれた。
 一つ落ちればそれを追ってもう一つ涙が落ち、二つ落ち、声をあげないエリカの頬を流星群のようにい
くつも流れた。エリカは、喉を詰まらせて、
「ときどきね、ありがとうって、よろこんでくれるの。
 でも・・・っ、でもね、みんなね、やだって、エリカのことこわいって・・・。」
 ロベリアは膝で立った。同じ視線の高さになって、涙で溶けてしまいそうな目を見つめて、その肩を抱
き寄せる。エリカは唇を噛んで、声を殺して泣いていた。
 消え入りそうな嗚咽だけ、屋根裏部屋をひっかいている。
 そうやって泣く程さみしいのに、どうして泣きながらもその力を人に与えるんだ。誰もがこの力を怖れ
るのに、どうして。まだ小さいからそうするのか。もう何年も同じことをするうちに、その涙に溺れて人
のために力を使うのを躊躇うようになるまで。
「エリカ。無理して、治してやらなくていいんだよ。
 そんなことしなくていいんだ。」
 使えなくなるまで、これから先、何度。
 しゃくりをあげる背中をロベリアは撫でる。もう涙の海は広げなくていい。自分を欠いてまで力を使う
のは、これを最後の一回にしよう。いまだって、もしエリカが戻って来なかったらと思うとこわいのに。
エリカがそっと顔を上げた。ロベリアの腕の中に納まって、涙で喉元まで濡らしていた。
「エリカもこわいって言われるの、やだけど・・・。
 お父さんがね、」
 一つ、エリカは息を呑み込んだ。
 恐かった。息をするように、息をするのと同じに、自分を容易く与えてしまえるエリカが。それに何の
疑問も抱いていないようなエリカが。泣きながらもそれを選んで生きて来た、十年後のエリカが。
 幼いエリカははっきりと言った。
「治してあげたいって少しでも思うなら、治してあげなさいって。」
 それは彼女の生命と同じ強さを持った言葉だった。
 泣きはらした目で、エリカはロベリアを見つめる。誰のせいでもなく、エリカはエリカのせいで。エリ
カがあるために、その力を使うことを選び続けてきた、選び続けて行く。その一生を懸けてずっと。
 月明かりを帯びて、涙が頬を伝う。
「でも・・・、エリカやっぱりひとりぼっちなのかな。
 ずっと、みんなエリカのこと」
 その一つの道を、掌から零れるほどの涙で濡らしながら。
「お前はそんなやつじゃない!」

 ツイてる。
 ロベリアは胸中でそう叫んだ。エリカを両腕で強く抱きしめ、頭に顔を押し付けて、空気すらそこに入っ
て来れない程近くに。鼓動が伝わる程に強く。
 教えてやるよ。
 目を閉じる。そうして、体の中に満ちる意識を集める。炎として叩き付けるのではなく、あの白い光の
ようにやわらかに、温かく。エリカが自分に注いでくれたのと同じように、己の持つ力を解き放つ。
 そう、アタシはツイてる。
 今、その確信がある。限られた人間だけが持つこの力を、エリカと同じに持っている。そうして、その
無限のあたたかさでもって、過去の中で泣く彼女に、今の自分を伝えられるのだから。
「エリカ、みんなお前のこと、好きだから。」
 身を強ばらせるエリカの頬に、ロベリアは親愛のキスを落とした。
 お前が好きだから、愛しているから。キスを。
 月明かりの中で、それよりも淡く白い光の粒が二人の体を一つに包んだ。ベッドの上に落ちていたエリ
カの手が、そっと持ち上がる。指先は躊躇いがちに、ロベリアの服の裾を掴んだ。エリカは初めて、ロベ
リアに縋って、肩に顔を埋めた。
「人から怖がられるのは、いつだって恐かったんです。
 でもそんな後のことなんて気にしなくていいって、そう。」
 エリカのあたたかな匂いがする。籠る力は大きく、彼女の手は震えていた。
「もし怖がられるのを恐れて、助けられる人を見捨ててたら、
 私、いますごく後悔してただろうって。」
 胸の奥が、意味もわからず熱い。ロベリアは頷きながら、ぎゅっと硬く目を閉じて、エリカの頭に左手
を回した。頬を寄せて、目蓋を貫く光が作る、眩しい世界に跪いて。
「いくつも、いくつも。
 だから、わたし」
 ロベリアはその揺るぎない名を呼んだ。
「エリカ。」
 羽を持った小さな船は世界を一周回って来る。

 ロベリアの頬から、水で出来た小さな地球が零れた。