微苦笑















 全長300.52メートル。1889年3月31日に出来た塔は、エリカの居る場所からでは見えそうで
見えない。当時のインテリな人達は、あの塔が出来るのに反対したとか言うけれど、あの上から眺める巴里
の景色は奇麗だし、もう40年が経とうとしている今となっては、十分巴里の一部だ。
 エリカはいつもぶつかる看板を、この日は上手く避けて通った。そして、その看板のすぐ奥にある、細い
路地に曲がりこむ。迎えてくれるのは、急な斜面と、左右の壁に切り取られた青い空とエッフェル塔だ。エ
リカはエッフェル塔目掛けて、一直線に坂を駆け下りる。段差を一足飛びで、2メートルくらいの大ジャン
プをかましたら、よく教会に来てくれるお婆さんが角から曲がってきたところで、驚いた顔をして微笑んだ。
「エリカさんは、いつも元気でいいですね。」
「はい!いつでもエンジン全開です!」
 ぐっと握りこぶしを作って応えると、足元が疎かになってしまって、転んでしまった。お婆さんが目を丸
くして、覗き込んでくれる。それにも、大丈夫ですから、と応えると、エリカはまた走り出した。角を曲が
る。エッフェル塔が見えなくなった。モンマルトルの丘から、ぐいぐい離れていく。いつも子供と遊ぶ公園
の傍を流れている川の下流に近づく。大きな通りを、左右を確認してから渡る。車は少、馬はまあ、同じく
らい。人はそのどちらよりも多い。知ってる人も居ない、困ってる人も居ない。エリカは先程の坂を駆け下
りたペースもそのままに、向かいの古ぼけたアパートの階段を駆け上る。
「急いでいるので、失礼しまーす。」
 誰にとも無く言いながら、エリカは外付けな階段の3階部分で一度立ち止まり、助走をつけて飛び越えた。
ほんの1、5メートル先、2メートル下には、蔦の絡んだ家。そこに上手く着地、出来るわけもなくて、尻
餅をついたエリカは一人でほんのりベソを掻いた。
 それでもめげては居られないと、エリカは元気よく跳ねるように立ち上がると、屋根の他端へ向かった。
そこには錆付いた鉄製の階段。屋根の上からそこへ今度は着地を決めると、エリカは1段飛ばしながら階段
を降りる。ここまでくれば、後は目と鼻の先。この路地をまっすぐ行って、すぐに突き当たるから、そこを
左に曲がるだけ。曲がってすぐにある街灯に、ぶつからないよう気をつける。
「グリシーヌさん!」
 角から顔を出すのと同時に、見えた後ろ姿に声を掛けた。
「エリカか。
 ふふ、今日はいつもと違って、遅刻しなかったな。」
 いつもと同じ場所に座っていたグリシーヌが振り返った。その膝の上には、いつも居る猫の姿は無い。そ
れにも関わらず、道の端で川の上に足をふら付かせて座っているグリシーヌは、なんだか普段の彼女からす
るとアンバランスなような気がして、ああ、わたしと同じ、16歳の女の子なんだなぁ、とか、妙にしみじ
みと感じた。
「遅れるわけないじゃないですか。
 グリシーヌさんが、わたしと二人っきりになりたいなんて、そんな・・・
 エリカ大感激です!」
 手を胸の前で組んで、エリカが大きな身振りで感激を表現してくれる。グリシーヌはそんなエリカを見な
がら、顔を歪めた。微苦笑する。
「何も、私は二人っきりになりたいとまでは、言ってないぞ。」
 しかし、エリカの耳にはまったく入っておらず。そのままのハイテンションで続ける。
「何ってそんな、
 わたし、グリシーヌさんとだったら、
 何してもオッケーです!!」
 言い切って、エリカがぱっとグリシーヌを振り返る。茶色の柔らかい髪が舞い、同色の目が眩く輝いてい
た。一方のグリシーヌはというと、案の定、エリカの言いたいことが判らないらしく、
「一体、何の話だ。」
と困惑顔で髪を耳にかけた。それでも、エリカの顔があまりにもうれしそうだったから、そのことが嬉しく
て、グリシーヌも知らずに破顔していた。上品に口角が持ち上がる。
「もう、グリシーヌさんってばー。
 ところで、何の用事ですか?」
 ころっと話題を変えるのがエリカだ。軽くグリシーヌの横に並んで座ると、彼女の顔を覗き込む。青い目
が2、30センチのところにある。いつ見たって奇麗だ。金色の睫が、光に透ける。肌だって真っ白いし、
指だって細い。ピアノを弾けるという話だから、今度、聞かせてほしいとエリカは素直に思う。
 そんなことを考えていたら、いつの間にか、グリシーヌの顔に見入ってしまっていたらしく、
「エリカ、あまり見つめるな。
 照れるではないか。」
狼狽した声で、グリシーヌが言った。その頬が贔屓目で見ると、なんとなく赤い。イヤリングが揺れて、光
を反射させた。
「あ、すみません。
 グリシーヌさんがあんまりかわいいから、つい。」
 うっかり口にした言葉に、グリシーヌの顔がさらに赤くなって、口元が変な風に歪んだ。もごもごと、口
の中で何かを言うが、エリカには聞き取れなかった。エリカが首を傾げると、グリシーヌは反対方向を向い
てしまう。その際に聞こえたのは、小さな声だ。
「そなたの方が、よほどかわいいではないか。」
 今度はエリカの方が赤面してしまう番だったが、グリシーヌはそこでくるっと振り返って、エリカに白い
箱を押し付けた。だから、赤面するタイミングを逃して、箱を凝視する羽目になった。それは、よく、ケー
キ屋で持ち帰りをするときにくれるような、屋根が三角になった箱で、でも、ケーキの割に箱は重かった。
「今日は、そなたにこれを渡そうと思ってな。
 まあ、日頃の礼だと思ってくれれば好い。」
 そこまで言うと、グリシーヌは赤い頬のまま、普段のように強気な笑みを浮かべた。エリカは押し付けら
れた姿勢で、数秒その顔を見つめ。
 それから、満面の笑みを浮かべた。
「いいんですか、ありがとうございます!
 これ、なんですか?」
 グリシーヌさんがくれる物だったら、なんだってうれしいんですけれど、と続けようと思って止めた。正
直に伝えて、そっぽを向かれてしまうよりは、耳まで赤いのに、平静を装っている相貌を見ているほうが何
倍も幸せだ。たまに嘘つきになったって、神様は許してくれる。多分、きっと。
「空けてみるが好い。
 もう、それはそなたの物なのだからな。」
 言われたとおりにエリカは箱に手を掛ける。中に入っていたのは、2種類のプリンだ。ガラスの器で作ら
れたプリンは見るからにおいしそうで、エリカは箱を抱えて歓声を上げた。
「わぁ!!
 グリシーヌさん、わたしの好きなもの覚えていてくれたんですね!」
 そして、言うが早いか、エリカは2個のプリンのうち大きいほうを手にとって、目の高さまで掲げた。日
差しに容器を翳して、表面を光が這うのを見つめる。プリンの上部を覆う布や、それを飾る赤いリボンすら
恍惚と輝いて見える。斜めにカットされたリボンの端には、白い字で店の名前が刻まれていた。それを読み
上げて、エリカは更に目を輝かせた。
「グリシーヌさん、これって・・・!」
 エリカはプリンをそれはそれは大事そうに抱えて、グリシーヌに視線を送った。
「ああ、エリカが食べたいと言っていたからな。
 たまたま通り掛ったので、それにしたまでだ。」
 そう簡単に言うが、この店は今、とても人気があって、エリカは人が並んでいないところを見たことが無
かったし、聞くところによると、数もそんなに作っていないらしく、すぐに売れ切れてしまうとのことらし
い。だから、さしものエリカも今まで口にしたことがなかったのだ。
 わざわざ並んで買ってきてくれたんですか、なんて聞くには野暮が過ぎる。エリカはそんなことなど知ら
ないかのように、返事をして、でも、どうしようもなく嬉しくて仕方が無くて、胸の奥から声を出した。
「大好きです!」 
 そうしたら、思いのほか大きい声になって、グリシーヌは驚いた表情をしたけれど、

「また、ここを通りがかるときは言え。
 買って待っていてやる。」

 すぐに、幸福な微苦笑に変わった。







































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あとがき