缶詰一個













 壁にコケの生えた、古い建物の角を曲がって、前と同じように川縁に座っているグリシーヌが視界に入る
と、ちょっと胸がドキドキするのと同時に、なんだか逃げ出したいような気持ちになった。でも、今日は特
別で、言い訳があるから大丈夫。エリカは軽く彼女の方に駆けながら、片手を挙げる。
「グリシーヌさん!
 こんなところで何してるんですか?」
 突然掛けた声にも、グリシーヌはまるで驚いた様子など無く、悠然と振り返る。グリシーヌさんを評価す
るときに、多数の人が高貴さを挙げるが、多分、こういったところから感じているのだろう。金髪が一筋、
肩を滑り落ちる。グリシーヌが凛とした声で応える。
「特に何をしていたというわけでもないのだがな。
 まあ、こやつに寝床を提供している、というところか。」
 そう言って、グリシーヌは隣に立ったエリカに自分の膝の上を示した。そこには、この前と同じ猫が、や
たらと和んだ様子で丸まっている。見かけはただの野良猫なのに、毛並みが整えられている。エリカは猫の
尻尾に触れるグリシーヌの右手と見比べて、にっこりと微笑んだ。
「この前のにゃんこさんですね。
 にゃんこさん、わたしのこと覚えてますかー?
 エリカですよー。」
 ぱたぱたと手を振ってみるが、猫はエリカのことを気にした様子などまるで無い。エリカは、ふぅ、とた
め息を吐いて、
「嫌われちゃったのかなー。」
と漏らした。すると、グリシーヌが端整に口元を歪めた。
「嫌われたわけではなかろう。
 猫というものは、案外、気分屋らしくてな。
 こやつも、他の場所では私と会っても、見向きもしない。」
 言っている言葉の割りに、グリシーヌの表情はやたらと親しみが篭っていたし、声も聞いたことが無いく
らいに穏やかだった。エリカはにっこりと微笑んだ。
「グリシーヌさんって、動物好きなんですね。
 そんなグリシーヌさんも、エリカ、大好きですよ!」
 ぐっと右手で握りこぶしを作って見せる。栗色の髪が跳ねて、前髪がさらりと揺れた。グリシーヌはきょ
とんとした表情で、エリカを見上げたまま固まる。
「あ、ところで、今日はグリシーヌさん達にお土産があるんですよ!」
 エリカはそのまま矢継ぎ早に続け、グリシーヌの隣にすとんと腰掛けた。そして、後ろ手に持っていたも
のを差し出す。掌に収まるサイズの、平べったい缶詰が一つ。
「おいしいらしいですよー。
 今日、お会いした、おばあさんが飼ってらっしゃるねこちゃんが、
 この缶詰大好きなんですって!」
 勝手にグリシーヌの左手を取り、その上に缶詰を置いて、受け渡し完了。そこまでされて、やっとグリシ
ーヌはきょとんとした表情から、普段のそれに戻った。
「そうか、気を使わせてすまなかったな。
 その御婦人にも礼を言っておいてくれ。」
「はい、大船に乗ったつもりで居てくださいね!」
 エリカが元気よく、なんだか的外れに近い宣言をした。ふふ、とグリシーヌは笑うと、猫に缶詰を見せた。
側面には魚の微妙にリアルなイラストが描かれている缶詰は、猫の気を引いたのか、ぴんと猫の耳が立った。
グリーンの目が、グリシーヌの手の内にある缶詰を追う。
「そなたの為に、エリカがくれたのだ。
 エリカにちゃんと礼を言うのだぞ。」
 猫を諭すグリシーヌが、やたらと真面目で真剣な表情をしていて、それがなんだか微笑ましいような気が
して、エリカはその様を黙って眺めていた。 
 猫はグリシーヌの言葉などまるで耳に入っていないように、缶詰に興味津々で、早くあけろと言わんばか
りの仕草だ。一向に、エリカに礼を言う様子など見せない猫に、グリシーヌは呆れ果てた顔をした。缶詰を
持った左手に、猫がじゃれつく。
「まったく、仕方の無い奴だ。
 すまんなエリカ、こやつは礼儀というものを知らんらし―――、
 こら、爪を立てるな!」
 傍目には少し怒ったような顔をしながら、グリシーヌが缶詰を開けてやる。そうすると猫は、我が意を得
たりと缶詰の魚に飛びついた。
「たーんと食べてくださいね!
 おかわりはありませんけど。」

 ――にゃんこさんにじゃれつかれて、グリシーヌさんが笑う。花みたいに。

 エリカの声に、グリシーヌが振り返る。その表情は、猫に向けられたのと同じ、花みたいな笑顔で。
「ありがとう、エリカ。」
 金髪がさらっと揺れる。
「どういたしまして。
 また、もらうことがあったら、
 そのときにもちゃんとそのにゃんこさんにプレゼントしますね!」

 わたしに向けた、その花みたいな笑顔が、猫へ向けたそれの延長でしかないこと。

 缶詰一つ、なければ、その笑顔すら、見られないこととか。
 缶詰一つ、なければ、何度見かけても、声を掛けられないこととか。

 さっきの世紀の大告白すら、あの驚いた顔の前に、かき消されてしまうわたしは。


「よかったな、猫よ。」


 缶詰一個、これがわたしの唯一の寄る辺で。



 にゃんこが、やたらとおいしそうに、魚を食んでいた。







































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あとがき