「彼女も大変だからな。」 メイドに引かれて部屋に戻って行く喪服の後ろ姿を見つめる、その頤を雨粒が落ちて行った。 毛先から、服の裾から、雨がしとどに降り、暖かな玄関を濡らした。 「お嬢さまも早くシャワーをお浴びになられるザマス。 お体に障るザマス。」 タレブーが顔を覗き込んで来る。 眉間に刻まれた皺から、グリシーヌは目を逸らした。 濡れそぼった髪を片手で掻き上げ踵を返す。 「あぁ、そうしよう。 流石にこの時期の雨は冷たい。」 言いおいて、自室に向かって歩き出した。 その真っ直ぐな足跡に、小さな水たまりが幾つも落ちて行く。 道々、メイドが差し出したタオルを受け取る。 彼女達はみな眉根を寄せて、窺うようにグリシーヌを見上げた。 並ぶ同じような表情がおかしくて、グリシーヌは目を細める。 「そんな顔をするな。この程度で風邪など引かん。」 体の何処にも震えなどなかった。 指先はかじかみ上手く動かず、肌着まで重たく濡れているというのに、 冬に凍り付こうという水に冷やされても震えは起こらない。 花火が真っ白い頬をして体を小さくしていたのとは対照に、体の何処にも寒さはなかった。 「何かあったら呼ぶ、戻っていてよい。」 自室の扉の前で、メイド達に告げた。 でも、と躊躇いの過る二人のメイドの隣で、ローラがグリシーヌを見上げていた。 額に意志を宿し、瞬きを一度だけする眼差しで、一言も発さず。 揺れることのない電燈の色が、彼女の目を焼いているように見えた。 ただの思い違いだ。 目を離し、グリシーヌは部屋の扉を押し開いた。 「心配を掛けたな。 彼女が見つかってよかった、だからそんな顔をするな。」 そして一人、扉を踏み越えた。 塗り潰された真っ暗な部屋の中に一つの体が流れ込む。 雨音しか聞こえない。 目を開いていることすらわからなかった。 自分の手も、体も、息さえ消えて黒い色の中に落ちる。 一瞬。 目が暗闇に馴れるまでの、それは僅かな幻想だった。 薄い光の残滓が床に、わずか散らばっている。 カーテンの隙間から漏れる、遠い何処か人の灯だった。 窓硝子を雨粒は強く叩き、風が冊子をけたたましく揺さぶっている。 耳には自分の息遣いが汚らしく響き、 青く霞んだ自分の手が、朧げに部屋の中に浮いている。 右手が額ごと前髪を握り潰した。 「うそばっかりだ。」 口から漏れた音が耳に届いた時、目頭に熱が生まれた。 目が熱い。 もう開けていられなかった。 ようやく聞こえた自分の声が、みっともなく震えている。 嘘ばっかりの自分の声が。 「---っ。」 泣く権利なんて無い。 爪を掌に立てて、左手を握り締めた。 走る痛みが理性を想起させる。 自分が何をしたかわかっている。 こんな醜い自分などに泣く権利などない。 こんな寒い雨の中、冬の真夜中に、 私は、わかっていたのに、最後まで墓地に行かなかった。 腕が震えた。 握り締めた拳の力が体を震わせる。 だが振り上げた拳は何処にも下ろせない。 この拳を向ける物がない、向けるものがあるとすれば唯一つ。 それは、自分自身だけだ。 「あぁっ、くそ。」 唇を噛潰し、目をこじ開けた。 風邪を引く、シャワーを浴びろ、嘘偽りしかない自分を哀れんで、 後に続いてくる日常を削ってはならない。 記憶の中だけにある部屋を横切り、シャワー室へ歩いて行く。 その腕が、サイドテーブルに引っかかった。 何かが倒れる音がした。 無視して歩きすぎようとした視界の端に、一抹の光沢が映る。 それは小さな瓶だった。 手に取ることをしなくても、中身が何かわかっている。 足が砕けた。 それは、いつか彼女にあげた白薔薇で作ったポプリだった。 夜の中で手は黒い影となって、その小瓶に伸びた。 リボンを解き栓を開けると、木のテーブルにあける。 色の薄い花は、匂いが消えやすい。 だから、二人で花に手を加えるとき、とても丁寧に扱ったのを覚えている。 オイルを足さず、この淡い薔薇の香りを少しでも残しておけるようにと。 テーブルについた手の上に、雨粒が落ちた。 温い雨だった。 熱い目蓋の縁から、雨粒が溢れ出して来て視界が歪む。 見開いた青い瞳に涙があふれる。 「すまない・・・っ。」 墓地の前で、自分を見上げた花火の眼差しが蘇る。 真っ黒い穴のような目で、自分に、 居たの、と。一言。 乾いた花びらを右手で握り潰し、グリシーヌは膝から崩れ落ちた。 テーブルに顔を押し付けて、ただ唇を噛み締めた。 口に出来ない言葉が、胸の奥で砕けている。 居るのが、私ですまない、と。 もう、花びらからは雨の匂いしかしない。