「先に戻ってくれ、じゃないでしょう。」
船底を水が叩く音が聞こえる。
街灯の零す丸い光の暈がほっそりとした指先に濃い陰を落としていた。
「すまない。」
コンコルド橋の欄干に背を預け、グリシーヌは頭を垂れた。
夜風が冷たく頬を切り、街路樹のざわめきが体に染み込んで来る。
花火は唇を引き結んだまま、ハンカチを取り出した。
グリシーヌの右の脹脛から血が溢れている。
生温かい光沢はタイツをくるぶしまで濡らし、青い靴の中にまで広がっていこうとしていた。
隠しナイフで切られたという鋭い傷口に、花火はハンカチをあてがい掌で押さえた。
「---っ。」
熱い息がグリシーヌから零れた。
だがそれはその一度きりのことで、彼女は口を噤んだ。
「エリカさんに治してもらえばよかったじゃない。
 メルさんとシーさんもそうしてもらっていたのだし。」
掌に余る傷口が指先を紙で切ったのと同じように、
家で出来るような処置でよく治るのか、花火にはわからなかった。
「大したことないと思ったんだ。」
粘つく感触が指に触れた。
掌をハンカチから離して覗き込むと、銀糸の刺繍に赤黒く血が滲んでいた。
時間を掛け、ゆっくりと広がるのを認め、花火はグリシーヌを振り仰いだ。
「グリシーヌ、ハンカチを出して。」
強ばった顔に陰が落ちている。
「あぁ。」
ハンカチを取り出す仕草のうちにも、眉間には微かな皺が寄り、頬は固く絞られた。
白いハンカチを差し出した手には、歩くうちに自分で障ったのか、乾いた血が付いていた。
花火はそれでさらに上から傷を押さえる。
花火よりも細くしなやかな足は僅かに震えていた。
「一人で足をひきずって帰るつもりだったの?」
グリシーヌはずるい。
まだ返事を聞いてもいないのに、花火は放たれるだろう言葉を予想して、
ハンカチを押さえる手に力を込めた。
そうして、グリシーヌは思った通りのことを言う。
「すまない。」
いつも終いにはそう言って、人を押し返す。
蒸気自動車の遠吠えがセーヌ川の向こうから聞こえた。
ハンカチにはもう血が染みて来ない。
それを見て取ると、花火はリボンタイを解いた。
一周、ハンカチごと足に巻くと、歩いてもずれないように硬く結んだ。
痛みに耐える苛立たしげな呼吸が、花火の上に降る。
「まだ距離があるから、人を呼びましょう。
 歩かせられないわ。」
立ち上がり、花火は通りを見渡した。
何処の店も閉まり、セーヌ川沿いはいくつもの街灯がぽつぽつと夜を照らしているばかりだった。
携帯キネマトロンでシャノワールに一報を入れる方が良い、花火は
「花火、良いんだ。」
手をグリシーヌが掴んだ。
振り返ると、グリシーヌが静かな眼差しで花火を見つめていた。
何も良くない、言いたかった一息が口の中で絶えた。
彼女が指を歪に花火に絡めた。
触れ合う幾本かの指はどちらも錆臭く濡れて、何とも触れない掌を夜気が洗っていく。
「帰ろう。」
グリシーヌが花火の手を引いて歩き出す。