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「海に行きたい。」
 微かな声が耳に届いたのは、おそらく偶然だった。思わず立ち止まったロベリアを、彼女は弾かれたよ
うに振り返った。その背後を、エスプレッソを運ぶギャルソンが通り過ぎ、中年の女性が長いブルネット
を耳にかけて本のページをめくる。
「じゃあ、行くか。」
 考えるより先に、ロベリアの口はそう音を作っていた。さっきまで間に交えて話していたはずのエリカ
の後ろ姿は、坂道を交差する人の流れに飲まれてどこにもない。ただ、彼女の驚いたまなざしだけが一つ、
この場には取り残されていた。青い瞳に午後に差し掛かり色づき始めた陽が薄くかかっている。金色の睫
毛は嘘みたいに多彩な色彩を飲み込んで透けていた。
「貴様は何を」
 言いかけた彼女の手首をロベリアはつかんだ。ああ、私も自分が何を言っているかも、何をしているか
もよくわからないよと、わざわざ音声にするのも億劫だった。抵抗しそうな細い手首を握りしめ、ロベリ
アはわき目も振らずに坂道を下りだした。引きずられてくっついてくる彼女の戸惑う声が聞こえる。
 肩で風を切る、モンマルトルの丘は相変わらずの雑踏で、相変わらずの狭さだった。空を遮るアパルト
マンのたもとを歩きぬけ、坂を下ればサン・ラザール駅に着く。そこからなら、ル・アーヴルへ続く列車
に乗れるはずだった。発車予定時刻は知らない。一日に何本あるかも知らない、今から行ってなかったら
お笑い種だし、歩いていけば三十分はかかるだろうに、手を振り払われたら終わりだった。
「わたくしは、なんとなくつぶやいただけだ。手を放せ。」
 言い募るその語尾には焦りが滲んでいる。だが、不思議と振り払われはしなかった。同じ船に乗り込ん
でまだ一月ほどしか経たない、だいきらいな巴里の悪魔に手を引かれ、彼女はだが足を止めることなく、
海へと向かう道を下っていく。