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 吹き付ける黄昏の中を舞うカモメの影は、この世のどこにできるのだろうか。
 狭い路地を行く人影について歩き、ロベリアは己の髪もその色に染まるのを見ていた。
 グリシーヌはまっすぐに進んでいた。道標を見上げることも、辺りを見回すこともなく、迷いない足取
りでもう何分来たのだろうか。今までに幾度となく、このル・アーヴルに来たことがあるのだろう。
 路地の先にはもう、夕日しか見えない。すべて焼き払うまぶしさの中、ロベリアは手をかざして目を細
め、ただ耳に触れる音だけを頼りに体を前に押し出した。海鳥の声が降り、船底を水がたたく音が聞こえ、
そして、
 海は、光の海だった。
 何億もの夕日が水面で乱反射し、体中を叩いている。
 河口から海へ、大きな水の流れはつながっていて、対岸の小さな町ではいくつもガス灯が点っている。
停留所はマストを畳んだ船が何百艘もロープでつながれ、水平線に没する太陽に焼け残されていた。潮風
が頬を叩く。
 グリシーヌは桟橋に降りて、海へと歩いていた。立ち止まっている間に二人の距離は開いて、遠く、彼
女の姿が一枚の切り絵になる。振れる彼女の指先で、海が粉々に輝いている。
 波も聞こえない、穏やかな海だった。
 ロベリアはつま先をそちらへ向けた。
 浅葱色の時も、蜂蜜色の時も過ぎて、見渡す街も海も茜だった。影ばかり黒く塗り潰したように地面に
刻まれている。その桟橋の先端で、グリシーヌは立ち止まった。もう、彼女と海を隔てるものはなかった。
 夕日色の海の前に、彼女は立っていた。
 二人の間は、彼女の影の分だけ開いていた。
 塩辛い風が吹いている。
 グリシーヌの眼差しはずっと、この海を見ていたのだ。巴里からずっと、彼女の眼差しは在っただけだ
った、ロベリアを向いただけだった。ロベリアを見たりはしなかった。ただ、あの汚い汽車の天井を見た
だけ、あの先にこの海を見ただけなのだ。透き通る青い海の目で。
「なぁ、飛ぶなよ。」
 何故、そんな言葉になったのかロベリアにもわからなかった。
 二人の距離を超えるには小さい声で、彼女は振り返らなかった。
「そなた、宿はどうしたのだ。」
 答えになっていない返事。それでも、彼女が自分と交わしていた会話を一つでも覚えていたことに驚い
た。ロベリアは答えなかった。
 金髪が風に絡む。
「対岸の町はオンフルール。
 あそこからバス・ノルマンディだ。」
 汽笛がかすかに響いている。霞む水平線の上に、大きな客船が一つ浮かんでいた。色も形もわからない
ただ一枚の葉となって。
「帰りたいのか。」
 ロベリアは掌を握りしめた。汗を掻いていて、妙に気持ちが悪かった。何故、グリシーヌを海に引きず
って来たのか、少しわかるような気がした。
「誰も、過去には帰れない。」
 聞いてもいない、正直な答えだった。
 彼女のことを何も知らない、知るつもりもない。エリカと別れた直後濁った表情とか、その前に交わし
ていた会話とか、そんなものもう忘れてしまった。
「泣けばいいだろ。
 誰もいないんだ。」
 夕日が水平線に沈んだ。残光は一層空に赤く強く刻まれ、雲はまるで煙のように色と影に沈んでいる。
 グリシーヌはそして、初めて、ロベリアを見た。
 青い目と視線が絡んだ。
「わたくしに、悲しいことはない。」
 その手は海さえ作り出すのに、目は砂漠のように乾いていた。