やがて、文字は紙面に染み込んだインクになった。
 汗が全身から吹き出して、脇にも背中にも太腿にも戦闘服がべったりと貼り付いていた。頭皮の毛穴か
ら染みだした汗の粒が眉間を滴り落ち、開いた口に塩辛い液体が流れ込む。尚吹き出す汗は喉元に粘つき、
襟首に染み込んだ。
 視野が狭い。密閉された光武内部では、熱い息も迸る湿気も全身に絡み付く。眼前のモニタが水滴で曇
り、ただでさえ不鮮明な外部の光学情報が塗り潰される。だが、機体設計上、操縦桿を離すことは出来な
い。額に貼り付いた前髪から、汗が目に垂れる。染みる右目を瞑り、大神は機体を翻した。
 図太い槍が残光を引き胴に迫った。飛ぶよう動いた自らの左腕が、突き出される槍を弾く。硬い衝撃が
機体を揺さぶり腹まで響き、くぐもった音が鼓膜を震わせる。緑に濁った画面を蒸気獣の姿が占める。後
ろに仰け反ったその巨体の懐に、大神は踏み込みざまに右腕の刀を突き上げた。頭部と胴体の隙間から、
大太刀が配管を砕き金属を破る。噛み締めた唇の間から鋭い息が漏れた。脚部ペダルを踏めば、機体底部
についた駆動部が回転する。最後の一筋が切っ先で弾ける感触がした。
 一閃がポーンの胴体を上下に断った。その機体の切断面から、通りのアパルトマンが見えたのは刹那だ。
噴出した百度を超える高温高圧の蒸気が光武の光学カメラを覆い、外部モニタが機能を失う。濁った緑色
の明かりが大神の顔を照らした。
 量子甲冑内において外部情報を得る最大の手段がその時潰れた。だが、本部及び各隊員と常時接続され
ている音声通信および、前部レーダーを用いた各巴里花組機体との連携による戦場の二次元的配置と交戦
状況は把握されていた。出撃前に入力された市街の概形も変化はなく、周囲に行動を阻害する物体はなか
った。それ故、踏み込んだ。レーダー上で四歩の間合いにいる、敵蒸気獣へ。加速する機体と振り抜く刀
の勢いに、カメラのレンズに張った水の膜が濁流のごとく過ぎ去る。強い力の奔流が体に漲り、刀身へと
灯る。そして
「おっおがっみさん!
 なにを読んでるんですか?」
 喜色満面のエリカが、鼻先三寸に出現した。
「エ、エエエ、エリカくんっ!!」
 ぬっと迫った顔面に、大神の手から本が滑った。掴もうと伸ばした両手の間を、本はバッタのごとく激
しく羽ばたく。
「あっ!」
 大神の人差し指を角で打ち、本はついに大空に飛び立った。床にべったりと頁を開いてうつぶせに倒れ、
そのままぴくりとも動かない。あー、エリカが気の抜けたため息を漏らした。
「もう、何やってるんですか、大神さん。
 ものは大切にしないといけませんよ。」
 大仰に肩を竦め、彼女は長い髪が床につかないよう左手を首に回した。頬をくすぐるくせ毛が跳ねる。
豊かな髪が肩を滑った。解れた一本が天窓から注ぐ白んだ光に濡れる。彼女のほっそりとした指先が、菖
蒲色の表紙に触れた。
「いや、あぁ・・・すまない。少し、ぼーっとしてたみたいだ。」
 大神がこめかみを掻くと、エリカの明るい栗色の目がちらりとこちらを向いた。その白い指先が本につ
いた埃を払う。目を細め、彼女は言う。
「今日はお日様も出ていませんしね。」
 小さな糸切れが宙に舞って、頭上から差し込む淡い光の帯の中で踊った。バレエを踊り、音なく回転し
続ける。ソファも大神の足も、エリカの姿も、同じ輪郭の無い陰をフロアに落としていた。ホワイエには
外の雑踏も、ホールの気配も染みて来ない。眠れる曇りの正午が横たわっている。大神はそっと口を割っ
た。
「今日はもう、練習も打ち合わせも終わったのかい?」
 本の背を眺め、エリカは眉を少し持ち上げた。綴じ糸を親指で辿る。
「んー、終わったと言えば終わりましたけど。
 終わってないと言えば、終わってませんね。」
 口の端を持ち上げると、伏せた目を一度瞬いた。親指の腹で紙の縁を撫でるように頁を次々飛ばして眺
める。起こった僅かな風が、彼女の前髪を揺らした。両手で本を閉じると、歯切れのいいリズムが飛ぶ。
その調子に合わせ、エリカが弾むように顔を上げた。柔らかな眦に笑みを乗せ、頬を綻ばせる。その唇が
緩やかな弧を描く。声なく象られた言葉に、大神は思わず破顔した。
「それは大変そうだね。」
 ソファに凭れ掛かると、仕立てのいいクッションがやわらかく背中を包んだ。エリカも白い歯を覗かせ、
大神の右隣に座る。軽い波がシートを揺らし伝わってくる。大神はソファに背を沈めた。肩から抜け出し
た吐息が、鼻から逃げて行く。
 天窓に嵌る硝子に、ここ数日降った雨が灰色を落としていた。奥に続く真っ白な曇り空が濁る。
「新曲のことでもめだしたら、納まりつかなくなっちゃって。
 教会にも戻らなくちゃいけなかったから、先に出てきたんです。」
 大神はBonと小さく応えた。
「コクリコに、エリカが居るともっと混乱するからーとも、言われちゃいましたしね。」
 ふぅっと息を吐き出して、エリカの肩から空気が抜けた。少し小さくなった背中を、大神は見遣る。光
差す横顔に、艶のある髪が滑る。
 勝って驕るな。訓辞が瞳の表面を流れて行く。幾筋も目に垂れて垂れて乾いて、こびり付いた跡だ。シ
ャンゼリゼでの敗北で噛み締めた苦みは、エッフェル塔での勝利で打ち消した。だが、この訓辞を薄れさ
せてはならなかった。盤石ではない。自らも、この巴里花組も、まだ道半ばだ。大神は唇を引き結んだ。
「でも、二人とも真面目だから、仕方ありませんよね。」
 目を伏せ、エリカは膝に置いた本の頁を一枚捲った。紙面が擦れ、紙が曲がる微かな音が耳の中に残る。
あざやかに彩られる彼女の睫が琥珀のように透けた。
「この本、何が書いてあるんですか?」
 本を両手に持って、エリカが大神を振り返った。題箋を指差し、小首を傾げる。
「あぁ、物語だよ。小説だね。
 まだ読み終わってないんだけど。」
 手を差し出し、大神は本を受け取った。二ヶ月、同じ航路を渡ってきた本はまだ、新品のようだった。
東京を出るとき、通りがけの書店でたまたま手に取ったこの本を、航海中もついてからもほとんど開いて
いなかった。
「少し考え事もあったから、丁度いいかなと思ってね。
 引っ張りだしてきたんだ。」
 久方ぶりの空気を吸っている本を、大神は見つめた。和紙の僅かなおうとつにも、薄い陰が模様を描く。
「あの、大神さん。
 その本、読んで下さいませんか?」
 顔を上げると、エリカが身を乗り出して、大神の目を覗き込んでいた。楓色の光彩に走る筋が見える程
に。
「いぃっ!? そんないきなりフランス語にするのは難しいよ、エリカくん。」
 僅かに身を引くと、エリカはその分、顔を近づけた。ソファについた手に体重が乗って、少しだけへこ
んだ。
「日本語でいいんです。
 そのまま読んで下さい、ほら、早く早く!」
 瞳の奥まで覗き込まれるような眼差しだった。頬を解いて愛嬌よく笑う彼女が、飛び込んで来るようだ
った。目を逸らさず、彼女は大神の言葉を最後まで見つめている。ふっと息を綻ばせ、大神は本の表紙を
開いた。
「わかったよ。それなら。」





		海とコールタール


				そして、言葉の雨が降る。




 
 肩に柔らかな頬が触れた。規則正しい呼吸が耳朶をくすぐる。右肩へ視線を向けると、目を閉じエリカ
が頭を大神に預けていた。
「まったく、エリカくんは。
 疲れていたんだな。」
 腕を動かさないようそっと本を閉じ、大神は深い息を吐いた。エリカの眉はなめらかな弧を引いている。
あぁ、身動きが取れないな、大神はふっと笑う。額を見つめ、彼女が聞きたがっていた言葉で喉を震わせ
る。
「おやすみ、エリカくん。」
 長い髪が一房、大神の腕に落ちた。
「ねーぇ、イチロー。
 今、なんて言ったの?」
 後頭部に幼い声が当たった。軽く跳ね返る先を振り返ると、ソファの後ろからコクリコの顔が覗いてい
た。後ろの植木から身を乗り出して、コクリコは二つに結わえた髪を揺らす。
「コクリコ、いつから居たんだい?
 声を掛けてくれればよかったのに。」
 ソファの背凭れの上に組んだ腕に、コクリコは顎を載せる。
「さっきだよ。イチローが何か言ってる声が聞こえたから。
 その本を読んでたの?」
 目配せされ、大神は「あぁ。」と頷いた。本の最初の見開きに、指の陰が映る。
「エリカくんが読んで欲しいって言ったからね。
 途中で寝てしまったけど。」
 ふっくらしたエリカの頬が大神の肩に当たり、わずかにへこんでいる。包む眠りはやわらかく、二人の
会話もそよ風に変わる。コクリコが目を閉じて笑った。
「あははっ、エリカらしいや。
 でもボク、イチローが日本語で話してるの、初めて聞いたかも。」
 頬に手を当て、コクリコがリズムよく口ずさむ。小さな人差し指が軽くリズムを刻んでいた。
「なんだかフランス語でしゃべってるときより、落ち着いた声だね。」
 目蓋が開いて、目が上を向いた。背後に茂る植え込みの緑は、色濃くコクリコを縁取る。
「え、そうかい? なんだか照れるな。」
 頬を掻くと、コクリコが大神を見下ろして微笑んだ。
「うん。」
 細めた瞳に大神の姿が吸い込まれていた。
 コクリコが背もたれを掴み、身を屈めた。鋭い呼気を吐くと、軽やかに宙へと浮き上がる。畳んだ両足
が腕の間を抜けたら、両手を押して前に飛んだ。膝を伸ばして腕も伸ばすと、そのままソファにお尻から
着陸する。仕立てのいいソファがたわんで、大神まで跳ねた。拍子に、エリカの頭も跳ねて、こめかみが
大神の肩と鈍い音を立てる。骨と骨がぶつかる、低い音だった。「うわ、痛そう。」コクリコがぽろっと
呟きを零した。
「ぃったぁ・・・。なんですかぁ、一体。」
 頭を手で押さえ、エリカが目を瞬き身を起こした。
「あ、エリカくん、大丈夫かい? すごい音がしたけど。」
 呻きながら、エリカは僅かに首を縦に動かした。両腕で頭を抱え、肘を腿につく。大神の左隣で、コク
リコが気まずそうに息を呑んだ。
「ボクのせいだね。ごめんね、エリカ。」
「うぅん・・・、今、すごい夢を見てたのに。」
 そ、そう、とコクリコがうろたえた。エリカは何度か頭を振り、腕を大きく伸ばして伸びをする。
「んー、それはともかく、よく寝ました!
 コクリコ、大神さん、おはようございます。」
 さっぱりした表情でエリカが二人を振り返った。
「あぁ、おはよう、エリカくん。」
 大神は本を左脇に置き、肩を揺らした。エリカは上機嫌に頷くと、ジャンプして立ち上がる。背中に束
ねた髪が尻尾のように動く。黒猫のお目覚めだ、大神の頭にそんなフレーズが過った。
「さー、お昼の礼拝に行くぞー! おー!」
 握り拳を頭上に高々と振り上げ、エリカが勇ましく言い放つ。日差しが弱まってまるで陰のない背中だ。
「エリカ、新曲は来週水曜日の公演から始めるって決まったよ。」
 コクリコがそう告げた。肩越しにエリカがコクリコに目をくれる。帝都からさくら達が来た頃から作り
始めた新しい演目のことだ。作曲家や演出家を呼び寄せたり、近頃のシャノワールに人の出入りが多かっ
たのはこの為だ。大神はまだ、練習風景すら見せてもらっていない。楽しみにしているよ、声を掛けよう
とした時、エリカが口を開いた。
「じゃあ、ロベリアさん良いって言ったんですね。」
「ん、まぁ、そんなところかなぁ?」
 コクリコが肘掛けに背中を預け、左足を垂らした。力の抜けた足が、振り子となって床を擦る。
「どうかしたのかい?」
 大神はコクリコの顔を覗き込んだ。するとコクリコは一度エリカと目を合わせてから答えた。
「舞台は大変、って話。
 そろそろボクも行こ! みんな出て来るしね。」
「だぁーれが出て来るってぇ?」
 ソファからぬっと二本の腕が生えた。大神の両耳を掠めて、革製の手袋を嵌めた両腕がぬるぬる伸びる。
「うわっ! ロベリア!!」
 コクリコが反射的に飛び退り、大神は思わず息を詰めて身を固めた。暖かい息が首の後ろに当たる。忍
び笑いの震えがうなじを撫でた。
「何をそんなに驚いてんだよ、コクリコ。」
 大神の頭のてっぺんを声が掠める。二つの腕は肘で折り曲げられ、ゆっくり大神の首に回った。革が首
筋に押し付けられ、交差した指先が肩口を軽く摘む。コクリコがじりじりと後じさる。エリカがこちらを
窺っているのが見えた。
「ロベリア、打ち合わせはどうなったんだい?」
 薔薇の香りが鼻先をくすぐった。浅くなりそうな呼吸を大神は腹に力を込め抑える。
「なんだ隊長、気になるのかい?」
 腕が大神の上体を抱き寄せた。左のこめかみにしっとりとやわらかな肌が触れる。
「あぁ、期待しているからね。
 ところでロベリア。」
 楽屋に続く廊下から、足音が二つ響いて来る。聞き慣れた話し声がその低音に乗り、耳朶を叩いた。エ
リカがあ、とそちらを振り向く。大神はロベリアの手首を掴んだ。そうして、胸元から引き剥がす。
「俺はいつまでも同じ所に財布をしまっている程、間抜けじゃあないぞ。」
 あからさまな舌打ちが聞こえた。コクリコが小さく吹き出した。両腕を押しのけて立ち上がり、大神は
ロベリアに向き直った。不満そうに口を曲げ、ロベリアはソファの背もたれに頬杖をつく。右腕の鎖がク
ッションを叩いた。
 やや薄暗さを感じた。天窓から見える雲は厚みを増し、灰色に澱んでいる。夕には雨が降り出すだろう。
大神は座面から本を拾い上げる。
「ねぇねぇ、イチロー。もうお昼食べた?
 まだなら一緒に食べない?」
 寄って来たコクリコが大神のベストを引っ張った。見上げて来る二つの瞳を見返して、大神は頷く。
「いいよ。だけど、ちょっと用があるから、少し待ってくれるかな。」
「うん!」
 頬を明るく染めて、コクリコが口許を解いた。その小さな頭に手を載せると、ベストの裾がコクリコの
手に握り込まれる。
「あ、私も行きたいですー!」
 エリカも手を勢いよく上げた。
「はは、いいよ。でも、お昼の礼拝はどうしたんだい?」
 あぁー、忘れてましたぁー、エリカが額を手で押さえるのを横目に、大神は楽屋へ続く通路に視線を移
した。青い服を翻し、豊かな金髪を靡かせ彼女が歩いて来る。隣で談笑を交わすのは花火だ。口に手を添
えて零す笑みに、切り揃えた髪が踊る。
「グリシーヌ、花火くん。お疲れさま。」
 グリシーヌと花火が、四人の居るホワイエへと足を踏み入れた。花火が会釈をし、グリシーヌが軽く手
を上げた。
「あぁ、隊長。
 それに皆も居たのか。」
 青々とした植木を周り、二人が並んで歩いて来る。どちらの足取りも確かだ。
「この後、一緒にお昼でも食べようかと話していたんだ。
 その前にグリシーヌ、ちょっといいかい?」
「かまわんが、なんだ?」
 応じたグリシーヌが花火に仕草で先に行く旨を告げた。大神も一歩、彼女の方へ足を踏み出す。そのと
き、左腕が自分の脇を擦った。ベストの下に在る筈の重みが、からっぽの手応えを返す。足が、思わず止
まった。
 そこには硬く重たいものが必要だった。
 大神は首を巡らせた。ソファの元、草葉の下、霞んだ曇天のヴェールの奥。ルージュを引いた唇に笑み
を重ね、ロベリアが目を細めた。
「前から、アンタがどんなの持ってるか気になってたんだ。」
 白い手の中に、リボルバー式の拳銃が納まっていた。黒い金属の塊に白く、鈍い光沢が滲む。大神は肩
で風を切った。
「良く手入れしてるみたいだけど、弾倉がからっぽだぜ。
 案外抜けてんだな、隊長。」
 大股で突き進む。皆の放つ音声が耳の傍を流れて行く。大神の視界の中心でロベリアが拳銃の撃鉄を起
こす。金属音が耳を穿つ。ロベリアが銃口を大神に向けた。
 真っ黒い穴が大神を見つめた。掌程の大きさの拳銃が空けた穴だ。
「俺が正義だ、」
 その指が引き金を引いた。空の弾倉を叩く、空虚な音が響き渡る。
「ね。」
 大神の胸を空気が撃ち抜いた。銃身の向こうから、ロベリアの灰色の目が覗く。握り潰すよう、大神は
上から拳銃を掴んだ。
「返すんだ、ロベリア。」
 肌から怒りが滲んだことに、自分でも気付いた。穏やかに言えという命令の伝達は遅かった。彼女の悪
ふざけを諌めるのに足りなかった。急に、静かだ。天窓も潰えて、全て等しく塗り潰されている。雲が厚
い。
「そんなに怒ることないだろ。」
 ロベリアが手を離した。ソファからも身を起こし、歩き去って行く。大神は握り締めた銃身を見下ろし
て、呟くように返した。
「すまない。」
 エリカが明るく言葉を掛けてくれるのが聞こえた。大神は手に食い込む重い拳銃をホルスターに戻す。
本を掴んだ左手がベストを開いた。きっと、シーが点けてくれたのだろう、ホワイエを電灯の明かりが照
らした。濁った窓の向こうに広がる暗い曇天を押し潰し、橙色の電灯が足元に黒い影を生んでいる。