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 掌を、眺めていた。

 冷めた顔の男が、水面に映っている。歪みどろどろに溶け出し色を失っても、見下ろすその目が冷めて
いる。黒い二つの眼は穴だ。うつろに開いて、反射する光を呑み込んでいる。
 男は、掌を眺めていた。
「ねぇ、ここ。」
 女性の声が起こった。背後、コンコルド広場から歩いて来る、若い声だった。
「まだ、そのまんまなんだな。
 場所・・・変えようか。」
 応える男性の声を耳にして、男は伏せた顔を上げた。
 高く突き抜けるような青空が純白の雲間に輝いている。千切れた雲の破片を貫いて、夏の日差しは豊か
な帯を風の中に描いた。眩しい色彩は街に落ち、繁る芝が光彩を零す。円形の池が照り返す陽光は男の姿
に薄ら映えた。波の模様が微かにその顔に掛かり、瞳を過る。
「いつまで、こんなことが続くのかしら。」
 砂の歩路を、女性が踏んだ。
 彼女は細い語気を震わせる。
「うちのお母さん最近怖がって、あんまり外に出たがらないの。
 近所の・・・シャンゼリゼのブティックで働いてた人が先月のに巻き込まれて。
 まだ、入院してるから。」
 池の縁に、穴が穿たれていた。沈み込んだ地面は影を流し込まれ、呼吸を止めている。風雨に晒されて
も滅びきらない陥没は、破壊の足跡だ。複数の足跡が広場を荒らし、油の染みた地面は焼け焦げている。
「その人、・・・そんなに悪いのか。
 もう一ヶ月も経つのに。」
 掘り返された土を被り、天を掴もうと枝葉を広げた木の幹が半ばから折れていた。庭園に居並んだ神話
の像は崩れ、割れた頭部が虚空を仰いでいる。カルーゼル凱旋門に立つ女神もウィクトーリアも、凱旋の
歌を響かせない。
「瓦礫の下敷きになったまま、すぐに助けてもらえなかったらしくって。」
 翼を持った者は死に、歌う者がない。
「そう・・・か。
 行こう、ここはまだ。」
 そして、男だけが立ち尽くした。
 緑に濁った池の水には鳥の羽根が数枚塊となって浮き、同じ隅で回り続ける。ベンチの塗装を太陽はゆ
っくりと焼き剥がし、砂を傷口に塗り込んでいく。同じ日差しは男の背中を地面に黒く模り続けていた。
 空に向かって開いた広場に、男一人だけが落ちている。男はただ、不随意の生理現象だけを繰り返し続
ける。肋骨を引き上げ横隔膜を下して空気を吸い込み、収縮させて息を吐き出す。再び萎んだ肺を膨らま
し呼気を吸い込むと、肋骨を下ろし横隔膜を引き上げて鉛を吐き出し呼吸をする。目の瞬きが何度か起こ
る。
 そうして、大神一郎は拳を握りしめた。
「俺は、何をしているんだ。」
 何も込み上げては来なかった。
 ただ乾いた音声のみが声帯を削る、無意味な憤怒の言葉だ。体を内側から叩き、突き破ろうとする怒り
に意味は無い。腕を戦慄かせ唇に歯を食い込ませる衝動の言葉の存在価値は何処にもない。己がなすべき
ことを一つもしきれない男に、発せられる憤怒の言葉など存在してはならない。人を守り都市を守り、悪
を倒し正義を成す? 無力な者の何処に正義が存在する。それは貴様の妄想でしかない。
 いつまでも未練たらしく握り締めている空の拳銃は何だ、飾りか? 貴様の妄想を堅牢にする為の鉄の
塊か。何が正義だ、糞虫め。求めるのは勝利の為に命を捨てないことだと? そんなのは結局ただの受け
売りに過ぎないではないか。あのシャンゼリゼの敗北は何だ。結束による勝利に俺がどれだけ必要ある、
隊員たちの不和がいずれ敗北に繋がると予期していたのに、何も手を打たなかった貴様のせいで、人の生
命を見殺しにしたのだ。結局貴様は、正義だなんだと言いながら、貴様の都合で生命の重さ軽さを測って
いるに過ぎない。彼女の死が特別なのは貴様にとってでしかない。彼女を切り捨てたのは貴様にとって重
要で無かったからに過ぎない。彼女をあの場で切り捨てると刀を握ったのは、それが貴様にとって彼女が
必要でなかったからに過ぎない。
 そんなものが正義だと、笑わせるな身の毛もよだつ。ただほんの少し霊力が人より高かったそれだけの
ことで、この地位を得た。ただそれだけのことに過ぎない。お前は女を戦場に駆り立てて、しかも目の前
に居ながらその身を守れもしない、貴様はただの畜生だ。貴様でなければもっと上手く行った事がいくら
でもあろうに。
 汽笛が響き渡った。
 鼓膜を打ち鳴らす蒸気船の汽笛は長く尾を引き、セーヌ川を遡って行く。
 大神は震える呼気を解いた。掌紋に刻まれた爪の跡に僅かな汗が溜まり、皮膚は僅かにべたついている。
振り返れば、深緑の並木は一面続き、セーヌを上っている筈の船の姿は見えなかった。対岸のオルセー駅
の特徴的な時計台が二つ、葉の上から覗いている。
「俺は、大丈夫さ。コクリコ。」
 唇から零れたのは、母音の連なる穏やかな言語だった。
 空は昼の曇天を忘れ、あざやかな色彩に輝いている。巴里の天気は移ろいやすく、近日のように悪天候
が続く事の方が珍しい。灰色の雲から雨が降ることもあれば、雲もないのに大雨が激しく街を叩く。抜け
るような青空も、雷を伴うどしゃぶりの雨も突然現れ、突然去る。雨が降るかと思った夜が晴れている今
日は、平素の巴里だ。もう19時を回ったのに夜が来てくれないのも、夏の巴里だ。
 昼間のあの子を思い出す。さみしいのに笑ってしまえる、つらいほどに笑ってしまう、強くて弱い幼い
子だ。あんな年端も行かない子にまで、自分は気を遣わせてしまった。掌程の鉄の塊一つ、自分の胸に納
めきれないばかりに。モンマルトルの丘を下る道すがら、あの子がいつになく甘えてきたのはきっとそれ
だ。カフェの赤い庇の下で、いつもよりころころ笑ってみせたのも。あの子はあんなにも気丈なのに、俺
の方はただ、これしきのことで震えている。彼女達の幾人もが、幼少の頃から押し付けられた辛い身の上
に耐え、あんなにも強く生きて行こうとしているのに。
「本当に、俺は。」
 どうしようもない、口の中で擦れた声にすると、ぶっ潰れた小汚い笑いが口の端を歪めた。どうかして
いる。今の己なら、消えた方が幾分ましだろう。今の考えを誰かに聞かれたら、必ず心底軽蔑される。自
分ですらすでに、軽蔑しているのに。
 一人の被害も出さずに都市を守りきれる訳が無い。華撃団は防衛機関であり、戦闘は先制攻撃を受けた
上での抗戦を想定している。敵の意図を先に全て知りうるならば華撃団による先制攻撃も可能になろうが、
それは到底不可能であるし、なし得た試しもない。然るに、元より被害を出さずに完結しうる組織ではな
い。こと戦闘員に限ってみてもその能力は有限だ。被害を出さない等ということを、なし得ないのは当然
だ。
 こんなものは元から、無意味な詮無い考えに過ぎない。綺麗な言葉を使って犠牲を容認しているだけだ、
その事実は変わらない。人も、都市も守りきれない。正義だってなし得ない。平和は自分の手元にあるだ
けの幻想だ。例えばもし、せめて自分一人で戦う事が出来るならば、あるいは。
 昼間からずっと、こんなことばかりを考えている。
 大神はベストの内ポケットへと手を伸ばした。足元に落ちる影が自分の所作と同じに動き、小さな影を
取り出した。海を吸い腐った煙草が一本入っただけの潰れた箱だ。蓋は破れ右隅に汚い緑の染みが付いた
箱の中で、最後の一本が中空を過って別の角に倒れた。最後の一本を、大神は人差し指と親指で掴んだ。
 足元を冷たく染まりだした風が一陣過った。チュイルリー広場に敷き詰められた砂は一斉に地面を這い、
円形の池は細波に乱れた。緑に濁った液体が縁を濡らす。風の行く手、カルーゼル凱旋門の常乙女は沈黙
し、その奥に聳えるルーヴル美術館の三翼も今は羽根を畳んでいる。石像のどれ一つ言葉を忘れ、ルーヴ
ル美術館の中央に翻る国旗だけが空を望んでいた。
 大神は煙草を持った右手を見る。指の影が落ちる硬い掌を。
 空は、西日だ。
「火がない、か。」
 嘆息すると、煙草を戻し箱の口を潰した。左手はズボンからもベストからも、火を見つけ出しはしなか
った。冷えた空の金属に触れただけだ。煙草を内ポケットにしまい直すと、大神は踵を返して歩き出す。
革靴で小煩い砂粒を踏み殺し、油で黒ずんだ土を踏み越え、木々の間に覗く巴里の街並へと戻って行く。
石造りの街へ、蒸気自動車と人が織り成す営みの中へ。シルエットとなったコンコルド広場のオベリスク
を横目に狭い路地へと入って行く。
 本当に、馬鹿馬鹿しい男だ。
 ただこの一本の黴びた煙草を吸う為の火と、新しい煙の一箱だけが欲しかった。
「俺は正義だ。」
 結局新しい雨がまた、商店で煙草を一箱買って外に出ると降り出した。